<少年と罪>第6部 さまよう家族 茨城女性殺害事件 (2018/1/14~16 中日新聞)

2018-01-18 | 少年 社会

<少年と罪>第6部 さまよう家族 (上)凶行  日常一変 絶望と指弾 
2018/1/14 朝刊

   
   16歳だった少年が女性を殺害し、遺体を遺棄した西谷田川の現場=茨城県龍ケ崎市で
 二階の自室から少年=当時(16)=が下りてきた。居間で宿題をしていた妹に「終わったら部屋に戻れよ」。その後で、くつろいでいた両親に「話がある」と切り出した。二〇一六年七月五日、蒸し暑い夜だった。
 沈黙の後、父親に促されて、少年は口を開いた。
 「人を刺した」
 母親は反射的に、相手のけがの程度を確認した。「家に帰っているかもしれないよ」。少年は首を振り「何度も刺した。(遺体を)川に運んだ」と告げた。殺人を犯した事実を、両親に突き付けた瞬間だった。
 5日前。少年はサイクリングの途中、自転車で通り掛かった見知らぬ女性を追いかけて、背後から釣り具「フィッシュピック」で襲った。頭や背中を60回以上も刺して殺害し、遺体を近くの河原に投げ捨てた。
 「どうして・・・」。おそるおそる母親が、通り魔殺人の動機を尋ねた。「急に人を刺したくなったから」。返答は、それだけ。両親には意味が分からなかった。
 「とにかく警察に行こう」と母親。着替えをして、3人で最寄りの署に向かった。父親が運転する車中で、後部座席の少年は「ひどく後悔している」とつぶやいた。母親が「3人で一生かけて償おう」と諭した。
 翌日、少年は逮捕された。父親は署内で刑事から「10日ほど家を空けられますか」と耳打ちされた。
 その次の日に父親は民家を借りた。日用品を取りに実家へ戻ったとき、刑事の助言の意味が分かった。自宅は10人以上の報道陣に囲まれ、近寄れなかったのだ。
 一方、母親は少年の妹を世間の目から守るため、中学校へ迎えに行った。当面の着替えを買うために、車で「ユニクロ」へ。そこで母親から兄の逮捕を聞かされて、妹は大声で泣いた。
 後に「殺人犯の妹」は、学校の課題で「将来の夢」を作文に書く際に「夢も希望もないからかけないよ」と漏らした。離れて暮らしていた姉は一時、ショックで大学に通えなくなった。
 近所の知人らは離れていった。インターネットで匿名の中傷が続いた。「親の顔が見たい」「俺なら、こいつの家族、皆殺し」--。母親は不眠に陥った。「殺人犯を育てた私が、生きていていいのか」。自殺の方法をネットで調べた。
 父親は職場を兼ねた自宅に戻れず、仕事もできなくなった。「遺族に謝罪したい」と刑事に伝えたが、断られた。せめて賠償金を払おうと100万円を用意した。それだけしか急には準備できなかったからだが、弁護士に「そんな額では遺族を逆なでする」と言われた。
 事件の半年後、家裁で少年審判が始まった。遺族の入室時に父親は、裁判官に背を向けて、後方にある傍聴席の入り口を凝視していた。遺族に直接、謝るためだったが、裁判官に「前を向いていなさい」と叱責され、頭を下げることさえできなかった。「審判は謝罪の場ではない」と知った。
 取り調べや司法手続き、世間の指弾。初めての経験ばかりで、どうすればいいか分からずに立ち往生してしまう。何より、簡単に謝ることさえ許されない。父親は言う。「それが、加害者の親の現実なんです」
 少年の凶行は被害者の命だけでなく、自身の家族の平穏な日常も奪った。「すべてが変わった」と母親。「あの日を境に、笑うことさえできなくなった」
    *
 未成年者が凶悪事件を起こすと、親は世間の厳しい視線にさらされる。犯行に家庭環境が影響することが多く、その後の更生面でも家族の存在は絶対的に重要だからだ。わが子が或る日、殺人犯になったら--。茨城県の通り魔殺人事件を通して、加害者家族が直面する現実と苦悩を追う。(この連載は、全3回です)

茨城女性殺害事件
 2016年6月30日、茨城県立高校2年の少年=当時(16)=が同県つくばみらい市の路上で、自転車で走っていた進士康子さん=同(42)=の頭部や胸をフィッシュピックで60回以上、刺して殺害、遺体を近くの西谷田川に遺棄した。少年と被害者に面識はなかった。水戸家裁が少年を検察官送致し、水戸地検が殺人と死体遺棄の罪で起訴。17年12月、水戸地裁の裁判員裁判は「犯行の理不尽さや身勝手は厳しい非難に値する」として、求刑通り懲役10~15年の不定期判決を言い渡し、確定した。

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<少年と罪>第6部 さまよう家族 (中)自問  挫折、孤独 過去見つめ
2018/1/15 朝刊

    
   事件の10日前に少年が家族と一緒に釣りを楽しんだ鹿島港。この時に持参したフィッシュピックが凶器となった=茨城県鹿嶋市で 
 眠れない夜。睡眠薬を飲んで床に就く。翌朝、目が覚めると、まず考える。「どこで子育てを間違えたのか…」。茨城県で二〇一六年に通り魔殺人を犯した少年=当時(16)=の母親は、事件後に自問自答を続けるようになった。
 父親の仕事の都合などで一家は2度、転居した。少年はその都度、友達との別れを経験した。親の勧めで私立中学に進んだが、授業についていけなかった。転校先の公立中には1日も登校しなかった。
 それでも、進学した定時制高校には通えるようになった。独りぼっちの時間が長かったが、両親に「自衛官になる」と、将来の夢を語り始めた。父親は「苦難の時期を乗り越えて、人生を前向きに考え出した」と楽観していた。
 だが逮捕後の法廷で明らかになったのは、当時の少年が抱えていた挫折感と孤独感の深さだった。
 精神鑑定で「人生での失敗」を問われ、少年は「私立中をやめたこと」を挙げた。公立中の不登校の理由は「私立で失った時間は取り戻せないし、急に行っても、なじめない」。心機一転、高校で友達をつくりたかったが、人付き合いが苦手で「うまく話ができなかった」と明かした。
 両親が傍観していたわけではない。母親は「不登校でも友達がいなくても、魚釣りや山登りに連れ出して『楽しいことは学校のほかにもある』と教えたつもりだった」と話す。
 実際、事件の10日前にも家族4人で、県南部の鹿島港へ釣りに出かけた。父親のスマートフォンには、釣り上げたマゴチを両手で示す少年の動画があ残る。少年自身が拘置所で面会した記者に、最後の釣りを「楽しかった」と振り返った。
 だが、事件の凶器となったのは、この時に持参したフィッシュピックだった。
 家族の幸せな思い出と犯行が、両親にとって頭の中で簡単に結びつかない。両親の知る少年は、飼っていたヒヨコが死んだとき、ハンカチに包んで抱いていた。ハムスターが死んだ日には、埋葬のために花を摘んできた。事件の数ヶ月前に小動物の命を慈しんで死を悲しんでいた姿と、見知らぬ女性を60回以上も刺し続けた行為。その落差も埋まらない。
 「子どもに対して欲張りすぎて、追い詰めてしまったのかも」と父親。母親も「挫折と孤独を軽く見てしまった」とは思う。
 だから、昨年末の水戸地裁で、証言に立った母親は「孤独に気付き切れなかった父さんと母さんが『ごめんね』という気持ちです。家庭の都合で環境を変えてしまった親に重大な責任がある」と語った。
 ただ、そんな事情があっても、なぜ「人を刺したくなったから」という理由の殺人につながるのか。それが両親には今も、どれだけ考えても、分からない。それでも「子育て失敗」への答えをあえて導き出すなら「心の繊細な部分に、もっと寄り添うべきだった」。
 そうしていれば事件は起きなかったと、言い切る自信はない。だが今はそれぐらいしか、思い当たることもない。父親は、話す。「親の知らない一面があった。結局、私たちには何も分かっていなかったんです」

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<少年と罪>第6部 さまよう家族 (下)動機 一緒に探す 償うため
2018/1/16 朝刊
 面会室に現れた少年=事件時(16)=は、ぺこりと頭を下げた。昨年十二月二十六日、茨城県内の拘置所。判決公判の翌日に、面会した記者が「裁判では言いたいことが言えたの?」と尋ねた。
 答えは「言いたいことは、それほどなかった」。語尾の聞き取りにくい、小さな声。他人と関わることを拒むかのように、長く伸ばした髪で顔を覆って隠していた。
 少年は2016年に茨城県で、見知らぬ女性を60回以上もめった刺しにする通り魔殺人事件を起した。面会で記者に「両親と中は良かったが、悩みを打ち明けるムードではなかった。相談できる人がいあたら、事件は起きなseかった」と打ち明けた。どんな「悩み」を相談したかったのか。そう問う記者に「言えない」「覚えていない」「分からない」と続けた。
 少年は公判でも動機を一切、語らなかった。「相手が知り合いでも、大柄の男性でも、あの時は刺していた」。その理由を裁判長に問われ「刺そうと思ったことしか覚えていない」と答えた。
 被害者への謝罪は「意味がない。死んだ人は生き返らない。なくしたものは戻らない」。傍聴席の母親は「本人なりに『取り返しの付かないことをした』と表現したのだろうが、周りには理解されないだろう」と感じた。
 案の定、少年のこうした姿勢は判決で「反省が深まっていない」と批判された。水戸地裁が出した結論は、懲役十~十五年。18歳未満にとって、不定期刑で最も重い。
 「動機不明」で終わった裁判で、検察は少年を「執拗で残酷」と糾弾し、弁護側は「被害者のうめき声に焦ってパニックになった」と描いた。だが少年の両親には、そのどちらも「真実とは違う」と思える。
 おとなしかった少年が突然、爆発した。決定的な理由があったはずだが、それが何なのか、両親には分からない。それどころか、少年自身が理由を理解しているかどうかさえも分からない。だから母親は「加害者の親」として、ある決意を抱くようになった。
 「こんな事件をなぜ起したのか。それが説明できなければ、本当の意味での謝罪も更生もできない。時間はかかっても、一緒に動機を見つけてあげたい」
 そのために、例えば少年が信頼できる人を一人でも多く捜して「刑務所での面会をお願いする」と言う。かたくなな心を開かせるために。
 父親は、少年が裁判で「被害者と遺族の苦しみを受け止めて、ずっと考え続ける」と誓った言葉を信じたいと思う。「事件直後から面会のたびに、そう諭してきた。更生への第一歩。命の重さを一緒に考え、償っていく」。両親とも「一緒に償う」と口をそろえた。
 だが--。少年は、面会した記者に「罪は僕一人が背負う。『一緒に』というのは、違う。何をしても償いにはならない」と言い切った。
 判決は確定した。更生を支えようと、手を差し伸べる両親。心を閉ざしして干渉を拒む少年。隔たりを残したまま、贖罪の日々が始まる。心を通わせて一緒に歩み出せる時が来るのか、両親にはまだ見通せない。

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖) 
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〈来栖の独白〉
>「罪は僕一人が背負う。『一緒に』というのは、違う。何をしても償いにはならない」
 私も、そのように思う。ご両親は、わが子の「更生」にのみ心とらわれておられるのではないか。そのために「贖罪」を焦っておられるのではないだろうか。
 が、「贖罪」など、できはしないのだ。命をはおろか、髪の毛一本すら造り出せない人間に「償い」など、できようはずがない。
 「命の重さ」という言葉を目にする度に、私はやりきれない思いに怒りが湧く。「命の重さを一緒に考え、償っていく」という。「命の重さ」も「償っていく」ことも、人間の手に負えることではない。それをいとも簡単に口にする。不快である。そのような私の思いは、以下に書いたような、十年以上も前と何一つ変わっていない。
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どんぐりと「いのち」 われらを養ってくれるいのち 2010/1/13 

   
〈来栖の独白〉
 1月11日、実家のお墓参りと掃除をした。夥しい落葉が重なっている。それらを掃き集める。枯葉とともにどんぐりも、いっぱい転がっている。
 どんぐりの形の可愛らしさに、つい一つを手に取ったとき不意にホームページに書いた一節を想い出した。私は次のように書いている。

 勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。

 「喪われた命」と、私は簡単に書いている。裁判所も、被害死者の数を判示する。勝田事件の場合、被害死者数は8名である。
 ところが、どんぐりを手にしたとき私はなぜか唐突に「8名ではない」と強く心に呟いた。勝田事件被害者のなかには、婚約中の女性がいた。彼女が事件に遭わず結婚していたなら、お子さんが生まれたのではないか。そして、その子は、また子どもを生んだかもしれない。そのように考えるなら、勝田の奪った命は8名どころではない。いにしえから連綿と続き、被害者に受け継がれた命、そして被害者から更に広がっていっただろう命を思うとき、勝田の奪った命は数字で表されるようなものではなかったろう。続いて来、さらに将来へ広がるはずの命の営みを、勝田は途絶えさせたのである。
 さらに考えるなら、一人のいのちは、人間以外のあまたのいのちによって養われてきたものである。
  五木寛之氏は『人間の運命』(東京書籍)のなかで次のように言う。

p171~
 真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
 の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
 彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
 人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
 すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。

〈来栖の独白〉続き
 食糧となって人間を養ってくれる(人間に奪われる)いのちもあれば、薬品や化粧品等の実験に供されるいのちもある。それらのどれ一つとして、人間が創造したものは無い。人は、奪うだけだ。
 私は、深い畏れに囚われざるを得ない。「いのち」に対する深い畏れに囚われないわけにいかない。
 司法は、8名を殺害したとして死刑を選択する。髪の毛1本すら造れない人間の、人間らしい有限・物理的な決着・・・。足の竦む思いがする。
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