佐藤愛子著『冥途のお客』文春文庫
p176~
「あのね、あなたは死んだらすべて無になる、何もかも終ると思っているみたいだけど、そうじゃないのよ。死んだ後には4次元の世界があって魂はそこへ行くんです。この世をつまらないと思い、孤独感や絶望感を持ったまま自殺すると、死んでからもその絶望や孤独を引きずることになるのよ。死んでも意識は消えないんですよ、肉体がなくなるだけ」
p177~
そういうと彼女は反射的に、
「そんな…」
と抵抗心を見せ、
「信じられません。死後の世界があるなんて、どんな証拠があるんです?」
とつっかかるようにいう。
「証拠?」
実はそれをいわれると弱いのである。物的証拠などどこにもない。だが物的証拠はないけれど、あの世はあるのだ。私はあると信じている。信じているからそれは「ある」のだ、という。
「独断(ドグマ)ですね、佐藤さんの」
俄に彼女は嘲笑的な声になった。
「まさか佐藤さんも自殺したら地獄へ行くなんて、うちのおばあちゃんみたいなことはおっしゃらないでしょう?」
p178~
「あなたのおばあちゃんはそういわれたの?」
「ええ、死んでやる!って暴れたら、そういうんです。地獄ってエンマ様がいて嘘つきの舌を抜くんでしょ? 針の山があって、そこを歩くと針が突き刺さるので落ちる。とそこは血の池で亡者がアップアップしてて、(略)」
「針の山や血の池があるとは思わないけれど、地獄というか、暗黒界はあります」
と私はいった。私が学んだ先達のどの人からも私は4次元には暗黒界(地獄)があると教えられている。幽界、霊界にも階層があるように、暗黒界にも階層がある。
p179~
天上から使命を与えられてこの世に遣わされている霊能者の中には、4次元界の様相を見学(?)させられることがある。幽界の各層は無論のこと、暗黒界へも行かされる。その時は強力な守護霊団に守られて行かねばならない。凶暴な力が集まっている所や逃げ惑う群に巻き込まれそうな場所など、単身で行けばやられてしまうからである。
そこは全体に薄暗く、じめじめと湿気ていて何ともいえないいやな匂いがたちこめているという。その中にじっとうずくまっている一群もあれば、隊列を組んで黙々と動いている一団もある。だが何をしているのかはわからない。来る日も来る日も---といっても太陽がなく時間がないから、そういういい方は出来ない。要するに終わりなく時間の中をいつまでも永久にそうしているというわけだ。当然のことだが「死」さえもここにはないのだから、終わりはこない。
更に下層になると、そこは暗黒で泥土の中に亡者たちが首だけ出して埋まっているという。(p180~)右隣にも左隣にも、前にも後ろにもぎっしり並んでいるのだが、闇に包まれているのでそこにいるのは自分一人だけだと思っている。これが孤独地獄の様相である。
自殺者は間違いなく地獄へ行く。「この世で結ばれないのなら、いっそあの世で……」と後追い自殺などしても、あの世で結ばれるというわけにはいかないのである。愛する人は長患いの間に死を受け入れる覚悟を定め、人々に感謝して静かに死出の旅に出たとする。そうすればその人はすーっと真直に幽界の上の方へ上って行くだろう。片や後追い自殺をした方は、与えられた自分の生を全うせずに自分で勝手に裁ち切ったのであるから、暗黒界へ行かされる。あの世で一緒になるには、悲しみや執着を克服して、苦しくとも辛くとも与えられた生を全うしてから死ぬしかないのである。
〈来栖の独白2018.12.17〉
本年は佐藤愛子さんの著書を何冊か読んだ。前半は『九十歳。何がめでたい』など、気分の明るくなるモノを読んでいたが、後半になると『冥途のお客』『私の遺言』など、明るいとは云えないものも読んだ。
所謂「あの世」は存在するのか?という問いは、若い頃から私の裡にあったが、その問いのなかで気になってならなかったのは「自殺した者は死後、よいところへ往かれない」という…どこで仕込んだか(笑)覚えはないのだが…説であった。
小学校高学年か中学生の時だったと記憶するが、私は、藤村操の自裁について知った。「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、不可解」という遺書を残して自裁したのだったが、私の全存在を揺るがされたような衝撃を受けた。「すべてのものが不可解」ということの故に自らの命を絶つという青年の純粋に打たれた。以来、私には「自裁」ということが縁の無いこととは思えず、とりわけ青年期には藤村操のことはいつも念頭にあった。
『私の遺言』(新潮文庫)から、「あの世」と自裁について書いてある箇所を抜粋してみる。マザー・テレサはカトリックの修道女で、死後早いうちに聖人の位に上げられた。
『私の遺言』(新潮文庫)
p36~
四次元世界は幽現界、幽界、霊界、神界の四つに分れているが、そのほかに暗黒界(地獄)があり、自殺や殺人を犯した者はそこへ行く。それは心霊研究家の間での常識であるが、中川氏によると神界の上に更に菩薩界、如来界があり、マザー・テレサは菩薩界から現界に来、使命を果して再び菩薩界へ帰られたという。
p46~
ある時、私は某婦人雑誌の依頼で、当時、優れた霊能者としてマスコミの寵児になっていた女性と対談をしたことがある。その時、彼女は私にこういった。
「佐藤さんには若くて亡くなったお兄さんがいますね?」
私の4番目の兄は一九の時に女と心中し、女は助かったが兄は死んだ。他に戦死した兄もいるが「若くて亡くなった」というからには久(ひさし)というその兄のことであろう。そういうと彼女はこうつづけた。
「そのお兄さんが佐藤さんを守っていらっしゃいますよ。白いトックリセーターを着て。そしておそばとお煎餅が食べたいといっていらっしゃるから、お仏壇にそれを供えてあげて守って下さっていることに感謝して下さい」
「はあ」
と私はいった。
その頃、私も多少とも心霊についての勉強をしていたから、(p47~)自殺した者は暗黒界(地獄)へ行くという知識を持っていた。だが彼女は兄が私を「守っている」という。暗黒界にいる者がどうして守護霊になれるだろう。
守護霊は4つの霊によって構成されており、その中心的役割を果しているのが主護霊である。だいたい400年前から700年前に他界した先祖の霊魂が主護霊で、人がこの世に生まれる前も現世も死後も守りつづけて入れ替わることはないという(また別に、死ぬと主護霊は離れるという説もある)。
キリスト教ではこれを聖霊と呼ぶ。最近まで心理学者はその存在を認めようとしなかったが、今は「上位自己」(HIGHER SELF)という表現で認めるようになったそうだ。守護霊団にはこの外に指導霊、支配霊、補助霊が存在する。指導霊は人の趣味や職業を指導し(芸術家には芸術家の霊が、医師には医師の、スポーツマンにはスポーツマンの霊が)、支配霊はその人の運命をコーディネイトし、補助霊は以上の三役の霊を手伝う存在で、さほど古くない先祖や身内、あるいは前世に関わる霊が関与する場合もあるということである。
守護霊は我々よりも高い波動を持っていて、人の未来の水先案内人といっていい。自殺して暗黒界にいる兄がどうして水先案内人になれるのだろう。私を守るほどに力のある霊が、どうしてそばや煎餅を食べたがるのか?
〈来栖の独白 2018.12.28 Fri〉
所謂「霊的能力」の無い私は、佐藤さんの書かれていることを「そうか」と読むだけだったが、「聖霊」に関する箇所は首肯できない。「上位自己」という言葉は、長くカトリックの世界に身を置いてきて、聞いたこともない。聖霊は<先祖の霊魂>ではない。神である。父と子と聖霊という三位一体の神。この、キリスト教の基本概念が佐藤さんから脱落している。けれどそのお陰で私は、彼女の言説から解放されたような気もするのである。
ところで、つい先日、岐阜で豚コレラに罹患したと思われる豚を7,500頭、殺処分にするという出来事があった。手に負える頭数ではなく、自衛隊の力も借りるという。
何の罪もない生きものを殺して、己が命を養うのが人類である。人間間で「殺人」だの「自殺」だのというが、人一人がその生涯に於いて奪う(人間以外の)他者の命の数は如何ほどだろう。言葉も持たず、抵抗する術もない弱い生きものだからだからとて、殺していいのか。このように書きながら、今夕食においても牡蠣鍋を「おいしい 美味しい」と賞味した私である。原罪とでも言い訳するしかないか。
このような私だが、しかし「自殺」「殺人」といった(人間中心の)括りだけでは、死後の魂の行方として理解できないのである。殺人という括りなら、イエスは既にクリアしてくださってもいる。
マタイによる福音書 18章
11 〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
12 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
13 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
14 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
〈来栖の独白 2018.12.28 Fri〉
昨日、大阪拘置所に於いて2名に対する死刑の執行があった。死刑制度について考えるとき、(議論のテーブルにものらないが)私は執行刑務官の悲しみを思わずにはいられない。職務とはいえ、命令されれば、死刑囚の首に縄をかけねばならぬ。執行ボタンを押さねばならぬ。これは、白昼、堂々とした殺人である。如何ばかり、辛い苦しいことだろう。このように人を殺した者も、佐藤さん、地獄へ行きますか。
◇ 五木寛之著『親鸞』 われらは他の命をいただくことでしか生きられない存在
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◇ 五木寛之著『百寺巡礼』/草木国土悉皆成仏/アニミズムだ、と近代では切り捨てられてきた
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生命といのち〈上〉 万物に「存在の価値」
生命といのち〈上〉 万物に「存在の価値」
奈良康明(なら・やすあき)
2011/07/09Sat.中日新聞 人生のページ
東日本大震災はひどい出来事だった。天災に人災が加わり、人々の生活基盤が崩壊した。家族を失った人も多い。私たちの心が痛んでいる。亡くなった方の冥福を祈り、一日も早い復興を願っている。
生命の尊いことは言うまでもない。モノや金は失われても回復できるが、生命は戻らない。人間の「生きる」ことの原点だし、それは他の動物たちも同様であろう。人間が生きものの生命をことさらに奪っていいものかどうか。これは文化の問題で世界各地域で事情は異なっている。
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インドでは伝統的に不殺生の徳が強く説かれ、今日に至っている。生きものを殺したくないという理由から菜食主義の人も少なくない。仏教では肉食は認めているが、ことさらに生きものの生命を奪うことは誡められているし、放生会(ほうじょうえ)の伝承も古い。捕獲された生きものを殺すことなく自然界に戻す習慣は、功徳を積む行為であるとともに、生きものの生命尊重の象徴的姿勢でもある。日本では神道にも取り入れられている。
人間中心主義の西欧では放生会などという習慣はないのではないだろうか。『創世記』には神は人間を創り、空行く鳥、地を行く獣、水ゆく魚を「治めよ」(新共同訳)と言っている。人間が恣意的に動物を殺していいということではなく、それなりの宗教的背景がある言葉のようだが、しかし近代至るまで、歴史的に、動植物そして自然を「征服」し、動物を人間利益のために殺すことを認める1つの根拠となっている。それだけに、動植物、自然を壊すことの弊害は早くから自覚されたし、環境問題への自覚が出てきたのも西欧が先である。
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先日、アメリカ人の青年と話す機会があった。どんな動物にも「生きる権利」があるし、そのライフ(生命)を奪う権利は人間にはない、だから自分は肉食をやめて菜食に切り替えた、と言う。それでは米や麦、野菜などのライフ(いのち)は奪っていいのか、と私は訊いたら、植物にライフはないから殺してかまわない、という議論になった。
はしなくもここに西欧と東洋、日本の生命に関する意味内容の違いが浮き上がってきた。比較文化の問題として面白いし、実践上の問題もある。
日本の文化伝承には「生命」と「いのち」と仮名で書く2つの「ライフ」(life)がある。英語で話しているとライフしかないから話がややこしい。日本人にとっては、漠然としてはいても、どんなものにも「いのち」がある、ということは理解しやすい。「いのち」は生命ではない。「ビール瓶にもいのちがある。そのいのちを大切にしてリサイクル」という新聞への投書も読んだことがある。
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かなり以前のことだが、感激したシーンに出合ったことがある。あるマンションの小さな花壇で幼児をあやしていたお母さんがいた。花壇に足を踏み込み、花に手をかけた坊やに、母親は言った。「お花を折ると、お花ちゃんが痛いって泣くわよ」。花に痛いと感じる神経があるかないかという話ではない。折り取られようとして「痛い」と感じるのは、花ではなく、母親の心である。植物にも人間的感情を及ぼす日本人的な情感といえよう。
万物にいのちを認めるのは、おそらく、古代日本のアニミズムに根拠があるのかもしれない。しかし、それ以上に中国の「自然」観の影響が強いのである。「自然」とは、英語のnatureではない。元来は「自ずから然ある」という形容詞で、人為の加わらない万物の在りようを示すものだった。中国人はそこに美的・宗教的価値を認めていた。万物があるがままの「在り方」に、いわば、「存在の価値」を認めていたのである。
日本語の「いのち」とは万物の「在る」ことそのものの価値をいうものと言っていい。「もったいない」という言葉は、物事の経済的・実利的価値が無駄に失われることだけをいうのではない。存在の価値、いのちが無駄に失われることをいうものである。
<筆者プロフィール>
なら・やすあき
1929年、千葉県生まれ。東大文学部卒、同修士課程修了。カルカッタ大学博士課程留学。駒澤大学前学長。
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◇ ペリカンの受難 口蹄疫 人間中心主義思想の根底に旧約聖書 ネット悪質書込みによる韓国女優の自殺
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◇ 「死刑とは何か~刑場の周縁から」 【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】死刑の暴力の恐怖を、身体を接触し分かち合う感覚が中和している
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◇ 死刑の刑場を初公開=東京拘置所、法相意向受け 2010/08/27 *死刑とは何か~刑場の周縁から
◇ オウム死刑囚 刑執行 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 命よりも大切なものがある 〈来栖の独白〉
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