「寂しさ紛れ」の末路 「罪人の肖像」 第3部 住所不定、無職 2021/6/16

2021-06-16 | 社会

「寂しさ紛れ」の末路
  罪人の肖像  第3部 住所不定、無職
 (2)再犯(下) 
  中日新聞 2021年6月16日 水曜日
 三月中旬、名古屋拘置所の面会室。「会いに来る人なんかいなかった。驚きました」。粉末ココアとケーキを万引した罪で収容中の山野勝二(75)=仮名=は、視線を泳がせ、おぼつかない足取りで記者の正面に腰掛けた。 
 「恥ずかしくて、お話しできるようなことではないんですが」。消え入りそうな声で、語り始める。 
 終戦の年、二人兄弟の次男として岐阜県で生まれた。家業は鶏卵の卸売業。当時、卵はお見舞いに持参する貴重品だった。近所では蔵のある名家で通っていたが、7歳の時、父が脳出血で急死した。主婦だった母は和菓子の行商や保険の外交員など、家計を支えるために家を空けることが多くなった。 
 おとなしく、学級では目立たない存在だったが、中学校に進むと不良仲間とつるむようになる。「禁止されていた映画館によく出入りしていた」。今も岐阜県に住む同級生の男性(75)は「今、思うと、寂しかったんだろう」と幼なじみの変化の訳を推し量る。この時期、盗みを始めた。「悪いことをして施設に入れられたらしい」。やがて、校内でうわさが広まった。 
 中学2年の時、教護院(児童自立支援施設)に入った。「行きたくない」と抵抗した。母の返事は「まじめにやればいい」だった。「捨てられた。もう、用はないんだ」と恨んだ。
 1年で施設を出て住み込みのクリーニング店、繊維工場で働いたが、続かなかった。「人生を投げた感じだった」。15歳で少年院。成人後は競輪にのめり込み、負けが込むと盗みを繰り返した。
 24歳の時に籍を入れた地元の顔なじみの女性とは、10年ほどで別れた。「出所まで待ちます」。そう言った妻の心は移ろい、刑務所で離婚届に署名した。身ごもった子どもをおろしたことも聞いた。「妻の人生を悪くした」。その後、街中で2度、元妻を見かけた。声を掛けて、謝る勇気はなかった。
 68歳で出所した時には、今度こそやり直そうと、市役所に生活保護を相談した。だが、家は売りに出され、住民票は除票扱いになっていた。「すぐに受給できない」と告げられた。野宿生活から、また、窃盗で刑務所に戻った。
 「本当は血のつながった者と暮らしたい。でも、もう、誰もいない」
 刑務所に収監されるまでの間、拘置所の独居房で考え込む。獄中死を覚悟しているためか、昔の記憶がよみがえる。20代のころ、小学校の同窓会に誘われたが、返事をしなかった。「あの時、会っておけば良かった」と悔やむ。
 だが、50年前のその1件は、会社で重役を務め、孫に囲まれて暮らす別の同級生の男性(75)には記憶がない。「同窓会に来たら『今、何しているの?』と話題になる。しゃべれなかったんだろう」。メンコで遊んだ旧友の近況を知ると、しばらく言葉を失い、こうつぶやいた。「故郷に戻って暮らしたいだろうに」
 「病気です」。法廷で万引きを繰り返す理由を語った山野は、11回にわたる記者との面会で「寂しさ紛れだった」と言葉を換えた。「毎回、会いに来ていただいて、話を聞いてもらって、それだけで支えになりました」。そう深くお辞儀をして、刑務所に移っていった。  (敬称略)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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75歳 やめられぬ万引き 「罪人の肖像」第3部 住所不定、無職 
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 〈来栖の独白〉
 人の性は、孤独であろう。上記事も、そのことを述べている。私にこの(孤独の)意識が去ったことはない。


* 「Chopinと福永武彦と」 

〈来栖の独白 2008/01/21 〉
 ショパンの華麗さとしなやかさに惹かれて、一昨年から弾いてきた。高く深い美しさに惹かれた。ダン・タイ・ソンで聴いてからは、虜になった。小原孝さんがご自分の番組NHKFMのなかで「フォルテは無いと思ってください。すべてピアノで」とおっしゃっていたが、本当にそう。あくまでも、やさしくしなやかに弾く。特にノクターンは。
 先日もNocturnesを弾いていた。No1.Op.9-1「変ロ短調」。ちょっとロマンチックな出だし、甘さすら感じさせる、とずっと思っていた。
 しかし突然、違う、と感じた。甘くない、と。凛とした孤独が聴こえた。そしてすぐに、それはそのはずだ、と思った。ショパンが、孤独を奏でないはずがない。他人の寄り付くことを頑なに拒んで強靭な美のリアリストだったショパンの音楽に、孤独が漂っていないわけがない。
 私がショパンに強く惹かれたのはこの孤独の旋律の故だった、と気づいた。
 ショパンは、次のように言う。(音楽とは)「音によって思想を表現する芸術」、「自分の耳が許す音だけが音楽である」と。この思想の故に、ショパンは孤独であった、と私は思う。
 思想とは、生命の証、生きる意味である。
 不意に(いや、当然のように)、福永武彦を思い出した。
  福永武彦の作品に出会ったのは、大学の教養時代だったと思う。青年特有の寂しさと不安(落ち着かなさ)を持て余し悩んでいた私は、この『草の花』に衝撃を受けた。たまたま前期の試験と時期を同じにしたが、福永作品の世界から抜け出せなかった。単位を落とすことも覚悟した。が、試験を受けることだけはしておこうと思った。アメリカ文学史(アメリカン・フォークロア)の試験で、答えがさっぱり書けず、問題とは関係のない要らぬことを書いて出した。「私はいま福永武彦の小説に夢中になっています。氏の描く『孤独』は、いまの私にとってのっぴきならないテーマなのです・・・」。単位を落とすことを覚悟しているので、気持ちだけは強かった。ところが、後日発表を見ると「優」をくれていた。びっくりした。申し訳ない気持ち、単位が貰えてほっとしている自分、弱い自分が恥ずかしかった。
 長い時を隔てて、『草の花』を手に取った。懐かしい文字列。しかし、今回初めて、この小説にショパンという文字が出てくることを発見した。福永氏の心の中で、恐らくショパンの孤独が鳴り響いていたのだろう。

 福永武彦著『草の花』より

 しかし、一人は一人だけの孤独を持ち、誰しもが閉ざされた壁のこちら側に屈み込んで、己の孤独の重味を量っていたのだ。

 ----僕は孤独な自分だけの信仰を持っていた、と僕はゆっくり言った。しかしそれは、信仰ではないと人から言われた。孤独と信仰とは両立しないと言われたんだ。僕の考えていた基督教、それこそ無教会主義の考え方よりももっと無教会的な考え方、それは宗教じゃなくて一種の倫理観だったのだろうね。僕はイエスの生き方にも、その教義にも、同感した。しかし自分が耐えがたく孤独で、しかもこの孤独を棄ててまで神に縋ることは僕には出来なかった。僕が躓いたのはタラントの喩ばかりじゃない、人間は弱いからしばしば躓く。しかし僕は自分の責任に於いて躓きたかったのだ。僕は神よりは自分の孤独を選んだのだ。外の暗黒(くらき)にいることの方が、寧ろ人間的だと思った。
 孤独というのは弱いこと、人間の無力、人間の悲惨を示すものなんだろうね。しかし僕はそれを靭いもの、僕自身を支える最後の砦というふうに考えた。傲慢なんだろうね、恐らくは。けれども僕は、人間の無力は人間の責任で、神に頭を下げてまで自分の自由を売り渡したくはなかった。

 ---ピアノコンチェルト一番、これ、前の曲ね。これはワルツ集、これはバラード集。どうしたの、これ?
 ---千枝ちゃんにあげるんだよ。千枝ちゃんがショパンを大好きだって言ったから、それだけ探し出した。向うものの楽譜はもうなかなか見付からないんだよ。

 僕の書いていたものはおかしな小説だった。(略)全体には筋もなく脈絡もなく、夢に似て前後錯落し、ソナタ形式のように第一主題(即ち孤独)と第二主題(即ち愛)とが、反覆し、展開し、終結した。いな、終結はなく、それは無限に繰り返して絃を高鳴らせた。

 僕はそうして千枝子を抱いたまま、時の流れの外に、ひとり閉じこもった。僕はその瞬間にもなお孤独を感じていた。いな、この時ほど、自分の惨めな、無益な孤独を、感じたことはなかった。どのような情熱の焔も、この自己を見詰めている理性の泉を熱くすることはなかった。山が鳴り、木の葉が散り、僕等の身体が次第に落ち葉の中に埋められて行くその時でも、愛は僕を死の如き忘却にまで導くことはなかった。もう一歩を踏み出せば、時は永遠にとどまるかもしれない。しかしその死が、僕に与える筈の悦びとは何だろうか、・・・・僕はそう計量した。激情と虚無との間にあって、この生きた少女の肉体が僕を一つの死へと誘惑する限り、僕は僕の孤独を殺すことはできなかった。そんなにも無益な孤独が、千枝子に於ける神のように、僕のささやかな存在理由の全部だった。この孤独は無益だった。しかしこの孤独は純潔だった。

 孤独、・・・いかなる誘惑とも闘い、いかなる強制とも闘えるだけの孤独、僕はそれを英雄の孤独と名づけ、自分の精神を鞭打ちつづけた。

 支えは孤独しかない。

 僕の青春はあまりに貧困だった。それは僕の未完の小説のように、空しい願望と、実現しない計画との連続にすぎなかった。

 藤木、と僕は心の中で呼びかけた。藤木、君は僕を愛してはくれなかった。そして君の妹は、僕を愛してはくれなかった。僕は一人きりで死ぬだろう。

〈来栖の独白 追記〉
この孤独は無益だった。しかしこの孤独は純潔だった。・・・・僕は一人きりで死ぬだろう。
 なんという、ぞっとさせるような孤独だろう。しかし、冷静な理知の眼には、人生の現実はそのような残酷なものだ。『草の花』は知的な青年の孤独を描いている。私はこの孤独(純潔)に魅せられ、惹かれ続けてきた。守りたいものであった。群れることを嫌った。
 若いときには若いときの、老いには老いの孤独があるだろう。老いての孤独は、若いときとは比較にならぬ峻烈なものであるのかもしれない。人は、そのようにして、やっと死に辿りつくことができる。 2008/01/21 up


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