「報道刑」のいやな感じ 法治国家ではなく「報治国家」になってしまう

2010-02-02 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

新S. 新聞案内人. 水木楊 (作家 元日本経済新聞論説主幹)
2010年02月02日
「報道刑」のいやな感じ
 最近、小沢民主党幹事長の政治献金にまつわるニュースをテレビで観たり新聞で読んだりしていて、何か名状しがたい、いやな感じがしています。
 昔、高見順という作家が「いやな感じ」というタイトルの小説を書き、評判になったことがありますが、同じタイトルで小説を書いてみたいような、胸の底で何かがつかえているような感じです。
「説明責任」だけでは割り切れぬ胸のつかえ
 誤解されると困るので、はじめにお断りしておきますが、別に小沢氏に同情しているつもりはありません。状況証拠や過去のいきさつから見ると、小沢氏がいくら潔白を強調しても、土地購入に当てた4億円の資金の出所には不明朗な印象があるのは免れません。
 司直の手によって、その真相はできるだけ早く明らかにされるべきでしょう。小沢氏には、いわゆる説明責任があることも確かでしょう。
 しかし、そうは思うものの、じゃあ、それだけで割り切れるかとなると、やはりいやな感じが残るのです。一体、このいやな感じの正体は、何だろう。
 もう20年以上前のことになりますが、「ジールス国脱出記」(新潮社刊)という長編小説を書いたことがあります。リクルート事件が表ざたになった頃でした。
“出た杭”は寄ってたかって引きずり落とす
 大衆は、抜きん出た人間を待望するが、ひとたび誰かが権力を握ったり、金持ちになったりすると、寄ってたかって引きずり落とす。そのプロセスを風刺した小説でした。あまり売れ行きは良くなかったものの、私としては愛着のある作品でした。
 その小説の中で登場させた刑が「報道刑」という刑罰です。法律上の刑は、裁判で罪が確定した段階で執行されますが、このジールス国という社会では、その前に報道刑というのがある。
 疑惑を持たれた段階でマスコミはあれこれ書き立てる。検察は捜査の進行ぶりをどんどん公開して報道を加速させる。法律に関係なく、大衆が投票によって「有罪」と認定すると、被疑者は透明のガラスに覆われた車に乗せられ、さらし者にされて、銀座通りを運ばれていく。
 その両側に並んだ大衆は、怒声や嘲笑を浴びせかけ、トマトとか卵をぶつけて報道刑を執行する――とまあ、こんな具合です。
 ここまで書けば、もうお分かりと思いますが、ここ数年の事件を振り返って見ても、疑惑の報道――いっせいに取材開始――、検察からの情報漏れ――報道の加速――、苦境に追い込まれる当事者――犯罪事実の有無にかかわりなく大衆による断罪――、といったパターンが成立しつつあるように見受けられます。
法治国家ではなく「報治国家」になってしまう
 今回の小沢氏をめぐる報道で、奇怪に思うのは、参考人の事情聴取の日程までが事前に明らかになっていることです。しかも、その場所までが知られている。もちろん、検察がそんなことを発表するわけがありませんから、検事の誰かが漏らしたのか、と疑わざるを得ません。
 これは私などが現役の記者だった頃は、考えられないことで、参考人の事情聴取があったかどうかまで分からないのが普通でした。
 検察と報道陣が一種のタッグマッチを組み、対象となった人間を追い詰めていく過程を眺めていて、本当にこれでいいのかと考え込んでしまうのは私だけでしょうか。
 日本は法治国家です。であるなら、その人間の有罪無罪は裁判によって決定されるべきでしょう。有罪となった時点で初めて、その人は断罪されるべきです。
 それなのに、その前に社会的に葬られてしまうというのでは、法治国家などではなく、いわば「報治国家」になってしまいます。
 新聞やテレビは、影響力という強大な権力を持っています。強大な権力を有する者ほど、報道される側にときには立って物事を考えるバランス感覚も必要なはずです。
 私の、いやな感じは、そのバランス感覚を失いかけている現代社会の、無思慮からくる「品のなさ」から生じているのかもしれません。

検察を支配する「悪魔」 意図的なリークによって、有罪にできなくとも世論に断罪させようとする
放送局は体制の一翼を担っている。ホリエモンに渡すわけにはいかないと、検察は判断したのでしょう
石川容疑者の弁護人安田好弘弁護士ら、公正な取り調べを当局に申し入れ 『小沢疑惑報道』の読み方
検察の力の源泉は任意捜査にある ライブドア事件堀江貴文氏 村上ファンド事件 ロッキード事件
メディアによる「私刑」 メディア=「イメージ」という名の高感染力のウィルス保有者


2 コメント

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Unknown (rice_shower)
2010-02-03 03:36:30
かなり以前に、『メディア・リテラシー』(岩波新書 菅谷明子著)を読んだ時、日本の成人が、英米加あたりの小学生レベルの教育すらを受けていない、ということを知り、愕然と、絶句したのを思い出しました。 こういう基礎教育の上にこそ成り立つ陪審制なのだと知れば、この国の参審制が時期尚早も甚だしいことが分ります。 
無知、無教養でも、殺った、殺らない、の事件なら、ある程度の日常的常識で対応可能でしょう、あくまで“ある程度は”。
事が法理の真髄に関わる政治(立法、行政府)絡みとなっている今の馬鹿騒ぎ、心底メディアに絶望したくなります。
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コメント、ありがとう。 (ゆうこ)
2010-02-05 12:05:23
 検察の記者会見には、記者クラブしか入れない。フリーランスなど、無論入れません。自民党河野議員の、マスコミが「記者クラブなる既得権益にしがみつき、取材対象となあなあになっている」ため検察を批判できなくなっている、との指摘を待つまでもなく、検察・メディア・裁判所が三位一体となって冤罪を作る。
 無理筋を承知でストーリーを仕立て、供述を取ろうと容疑者を恫喝し、マスコミを緩急自在に使い分けても、それでも小沢氏を起訴できなかった。たまたま昨日(小沢氏不起訴を表明した日)、横浜事件の事実上の無罪決定(地裁)がありました。このようなでっち上げをやってきたのが検察です。が、国民は検察と最高裁の無謬性を信仰して疑わない。小沢氏を検察審査会は起訴するでしょう。「あの」特捜でさえ、立件できなかったものを。
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