【元少年Aを闇に戻したのは誰か 7年2カ月の更生期間が水の泡】杉本研士・関東医療少年院元院長 2015/9/16

2015-09-16 | 神戸 連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗

  「元少年A」を 闇に戻したのは 誰か   7年2カ月の更生期間が水の泡  『週刊新潮』 2015/09/24日号(2015/9/16 発売)

(p149~)
 再び、モンスターと化してしまう危険性が高まっている。『絶歌』を出版したために、「元少年A」の7年2か月にわたる更生期間は水の泡と帰した。かつて更生に携わった、杉本研士氏・関東医療少年院元院長(76)が、闇に戻した張本人について、180分の独白!

 神戸連続児童殺傷事件から、すでに18年が経ち、徐々に少年Aは、自らの犯した罪に向き合えるようになっていました。
 遺族に対し、わずかとはいえ賠償金を支払い、年に1回、被害者の命日が近づくと、謝罪の手紙も送っていた。しかも、その内容からは反省の意思が感じられるという遺族のコメントが新聞紙面に掲載されるようにもなりました。
 時間をかけながらも、順調な経過を辿っていたはずだった。
 関東医療少年院を後にしてから現在まで、彼は心の闇を抱え続けていたわけではありません。だが、『絶歌』の出版をきっかけにしてすべてが台無しになり、彼の歩んできた更生の道のりは水泡に帰した。
 本来ならば、幻冬舎の見城徹社長は、遺族の了承を得たうえで実名で出版する、と提案すべきでした。
 週刊新潮などに送られてきた手紙によれば、少年Aは、一旦、「関係者を悲しませたくない、出版を諦めます」と、消極的な姿勢を見せている。そこからは、遺族の心情を慮ろうとする共感性がうかがえます。しかし、見城社長は「出版を断念すれば活字文化の衰退になる」とまで言いきり、彼を出版へと駆り立てている
 むろん、そこには、元少年Aの手記を出せばベストセラーになるのは間違いないという商業主義的な発想もあったはずです。
 とはいえ、出版社側の意図とは裏腹に、『絶歌』はこれまで息を潜めて生活することを余儀なくされた彼が、いわば自らの存在意義をかけて書き上げたもの。
 だからこそ、彼自身をして“究極の「少年A本」”と言わしめているわけです。
 彼なりに全身全霊を傾けて書き上げた手記は出版社からおだてられ、褒めちぎられたに違いありません。
 きっと、彼自身も世間から拍手喝采を浴びることを疑わなかった。 ところが、当然のことながら、バッシングの嵐が巻き起こり、土師淳君のお父さんからは「息子は2度殺された」と非難されました。自ら招いたこととはいえ、予想だにしなかった反発を受けたために過度なストレスがかかり、彼の奥深くに眠っていた攻撃的、挑戦的な性格が呼び起された。事実、それが発露されたのが、見城社長を告発する週刊新潮などへの手紙、さらには、自身のホームページの開設だと言えます。
 誰からも『絶歌』が認められなかったことから自尊心を傷つけられ、孤独の海に再び放り出された心境に陥っている。その反動で、自己顕示欲が膨れ上がり、幼児性ナルシズムが前面に現れてきているようにしか見えません。『絶歌』の出版を機に、彼の精神状態は退行を始めてしまったのです。
■兄役の法務教官
 1997年6月、少年Aは逮捕され、少年審判を経て、その年の10月には、関東医療少年に収容されました。私が、そこの院長に就いたのは、翌98年の4月のことです。
 彼は、愛着障害、行為障害、性的サディズム障害による3つの症状を抱えていました。愛着障害は母親との関係に起因し、他の2つは遺伝子レベルの欠陥です。
 彼の母親の場合、恒常的な虐待などは見受けられなかったものの、生後1か月の子供にトイレで用を足させようとしたり、通常よりも離乳が早かったうえに、乳幼児期には刺激の強い生卵を与えて蕁麻疹を患わせたりもしていました。適切なスキンシップに欠けていました。
 さらに、性的サディズムについては、生来、人間というものは、性と攻撃・支配が密接に結びついています。ただ、過剰な性衝動には前頭葉がブレーキをかけるものですが、彼の場合、それがうまく作用していない。結果、性的興奮と攻撃性が歪んだまま固着し、性的サディズムが生じたのです。それだけでなく、彼自身が『絶歌』で初めて明かしたのですが、10歳のときに祖母という最愛の人物を喪い、その直後、痛みの伴った自慰行為を経験している。それが、愛着障害と性的サディズムが複雑に絡み合う原因になった。
 私が関東医療少年で、彼に接し始めたころは非常に危険な状態で、24時間カメラが回っている部屋で監視されていました。
 実際、陶芸の授業では、性的サディズムのエネルギーが迸る、異様に牙が巨大な怪獣や極端に口を大きく開けたワニのような動物の頭などを制作した。
 時には、攻撃的な眼差しで「早く、殺してくれ」と口走り、家族との面会も2年ほど拒絶し続けたのです。
 障害を克服する治療法として、疑似家族というものをつくり、他者との共感性を育ませようとしました。
 男女の精神科医が父親役、母親役を務めていたことはこれまでにも報じられていますが、実は、若い法務教官が兄の役を担っていた。
 あるとき、その法務教官が「相撲をやるか?」と聞いたら、彼は「いいですよ」と乗ってきた。中庭の芝生で取組を始めると、彼は何度投げ飛ばされても起き上がり、相手に挑んでいきました。最後はヘトヘトになって、2人で芝生に寝転がった。
 ほかにも、彼の担当教官というのが、まさに熱血漢を絵に描いたような人物だった。彼の前で涙を流しながら、「俺も、(被害者の山下)彩花ちゃんくらいの娘がいてな。事件のことを考えると、夜も眠れないんだよ。なんで、あんなことをしたんだ!?」と、語りかけるのです。彼にとっては、父親役の精神科医よりも、担当教官のほうがよほど父親役に近かったかもしれません。
 更生の度合いが進んでくると、“ロールレタリング”という授業を取り入れました。被害者の土師淳くんの立場になり、加害者の自分に向けた手紙を書かせるのです。
 併せて、被害者の遺族が書いた本に繰り返し目を通させ、その都度、感想文を提出させたりもした。
 最初は、「すみませんでした」という単純な謝罪の言葉だけだったのに、だんだんと「自分という1人の生命が、他の生命を奪っていいのか」と、書き記すほどに成長しました。
 なおかつ、母親との関係にも改善が見られるようになった。当初は、面会に訪れた母親に「帰れ!豚!」と暴言を吐いていましたが、そのうち、体育館で一緒に卓球に興じるまでになりました。愛着障害の原因となった母親と、共感性を醸成させることができたのです。
■“以外”の人間
 殺人や強姦など重罪を犯した少年は、特別な処遇が必要とされるG3というカテゴリーに区分けされる。ただ、そこの少年でも医療少年院に入れられるのは長くても2年です。少年Aの場合は、7年2か月という長期にわたった。確かに、遺伝子レベルの彼の障害は完治が難しいとはいえ、社会性を身に付けたと判断できるだけの治療効果はありました。その証拠に、関東医療少年を出てから11年余り、なんの問題も起していない。
 しかし、『絶歌』がそれを一変させ、少年Aを闇に戻してしまいました。
 彼が公開したホームページに、高村光太郎の『道程』の一節を引用して、「ボクの前に道はない。ボクの後ろに道は出来る」と記したセルフポートレートが掲載されている。
 そこに見て取れるのは、過去を切り捨て、未来は自分の手で切り開くとしつつ、孤独に追い込んだ周囲に対する挑戦的な姿勢です。そのうえで、大量のナメクジに塩水を浴びせかけて制作したコラージュを目にしたときには、「危険だ。ナメクジの段階で済むだろうか」と心配になりました。
 他でもないナメクジの解剖が、彼の性的サディズムに基づく最初の行動だったのです。抑え込んだはずのマグマが爆発し、なにもかも無駄になってしまう怖れも出てきた。
 また、パリ人肉殺人の佐川一政氏と自分とを“以外”という言葉で、一括りにしている件(くだり)がある。それは、自らと違う“以内”の人間は排除するという意味です。もはや、“以内”の側の人間が何を言っても聞く耳を持つことはない。
 おそらく、彼が、“以内”に留まっていたのは、出版を一旦諦めようとしたときが最後だった。そこから弾き出した見城社長や実際に手記を発行した太田出版の岡聡社長の罪は決して軽くはありません。
 更生期間を終えた彼に、今となっては手を差し伸べる手段はないのです。(~p151)

 ◎『週刊新潮』 2015/09/24日号から書き写し(=来栖) *強調(太字)は来栖
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〈来栖の独白 2015.9.16 Wed.〉
 本文の趣旨が、違和感なく、滑らかに胸に落ちた。不可解だった元少年Aのホームページの、とりわけコラージュ作成の所以が、理解できた。おそらく、すべて杉本研士氏のおっしゃる通りだろう。おっしゃることに間違いないと思う。

 週刊新潮などに送られてきた手紙によれば、少年Aは、一旦、「関係者を悲しませたくない、出版を諦めます」と、消極的な姿勢を見せている。そこからは、遺族の心情を慮ろうとする共感性がうかがえます。しかし、見城社長は「出版を断念すれば活字文化の衰退になる」とまで言いきり、彼を出版へと駆り立てている。
 むろん、そこには、元少年Aの手記を出せばベストセラーになるのは間違いないという商業主義的な発想もあったはずです。

  所詮、見城氏も岡氏も、「売らんかな」の商売人にすぎなかった。“一匹の羊”など、己が商売の前には平気で利用して捨てることができる。
 元少年Aの両親も、気の毒だ。


〈手記『絶歌』〉亀と浦島太郎の像で 「少年A」更生を信じた「関東医療少年院」元院長

    
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『存在の耐えられない透明さ』元少年Aがホームページ開設 画像も パリ人肉事件「佐川一政」への感謝と敬意 
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『絶歌』への反発はなぜこれほど広がったのか 篠田博之(2015/7/4)
少年Aの手記の仕掛人は幻冬舎・見城徹社長 自社では出さず太田出版に押し付け excite ニュース2015.6.17 
酒鬼薔薇聖斗事件から18年 少年Aの手記出版を企図した幻冬舎への風当たり 週刊新潮 2015年1月29日号 
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元少年A『絶歌』が明らかにした警察情報とマスコミ報道の嘘 手記出版には公益性がある リテラ2015.06.17 


幻冬舎の見城徹社長を逆恨み? 元少年A制御不能なナルシシズム
 dot. (更新 2015/9/16 11:30)
 日本の少年犯罪史で最も強烈な印象を残した酒鬼薔薇聖斗こと元少年A(33)。6月に手記『絶歌』(太田出版)を出版し、25万部のベストセラーとなった。すでに莫大な印税を手にしたとされる。世に出た彼は再び、制御不能なモンスターとなりつつある。
 8月下旬、Aは出版に至る経緯を詳細に書いた手紙を「週刊文春」「週刊新潮」「女性セブン」の3誌、新聞社などに送りつけた。その文章量はA4用紙で20枚、文字数は2万字にも及ぶ。
 公表された手紙によると、その内容のほとんどは、幻冬舎の見城徹社長とのやりとりに費やされていた。詳しくは後述するが、Aは、手記の執筆を計画して、2012年冬に見城社長に熱烈な“売り込み”をしていた。
 そして、もう一つ重要な内容が記されていた。Aは手紙の最後に、自らの表現の場として、公式ホームページ(HP)を立ち上げたことを告知していたのだ。
 HPのタイトルは、「元少年Aの公式ホームページ存在の耐えられない透明さ」。フランスの作家ミラン・クンデラの名作『存在の耐えられない軽さ』と、酒鬼薔薇聖斗が赤字で書いた犯行声明の「透明な存在」を合体させたと思われる。
「Aは『絶歌』を出版する際、HPも作成したいと主張していたそうです。しかし、さすがに太田出版が止めた。すると、勝手に立ち上げ、手紙でメディアに公表してしまったようです。言い出したらきかず、制御不能ですね」(出版関係者)
 HPには、本人のプロフィルや身長と体重、自らが影響を受けた本や映画の感想などが掲載されている。また、「ギャラリー」というページには、覆面をした全裸の自分自身のセルフポートレートや、大量のナメクジを集めた写真などが掲載されている。
 精神科医の片田珠美氏は、Aの今の精神状態を、こう分析する。
「鍛えた体を見せるのは自己顕示欲の表れで、自己愛を満たしたいのだと思う。ナメクジの写真は、塩をかけると小さくなってしまうことに自分自身を重ね、『自分は弱い、悲鳴をあげているんだ』ということを知ってほしいのではないか。攻撃衝動を実際の行為に移すのを防ぐために、書かずにはいられない文章や絵が、気持ちの悪い作品になることがある」
 関東医療少年院で更生し、出所後は10年以上も沈黙を守っていたAが、なぜ、再び暴走し始めたのか。
 その鍵を握るのは、見城社長だ。Aは10年にBS放送の番組を見て、初めて見城社長を知る。番組内で見城社長は、異端者こそが優良なコンテンツをつくる、という自身の出版哲学を披露していて、Aは、その言葉に感化された。将来、手記を発表するときは<頼めるのはこの人以外にあり得ない>と感じたという。
 Aが見城社長に最初の手紙を出したのは、12年の冬。すべて手書きで、その内容は熱烈だった。
<闇に葬られた90年代最大の異端児を、日本少年犯罪史上最悪のモンスターを、他ならぬ「見城徹」の手で、歴史の表舞台に引きずり出してみたいとは思いませんか?(中略)あなたこそは“異端者のメシア”です>
 これに見城社長が返信したのは、翌13年1月17日。そこには、Aへの最大級の賛辞が送られていた。
<私のいただいた手紙の中でこれほど完璧な手紙はなかったような気がします>
 Aは、見城社長を心から慕い、見城社長も社内に編集チームをつくり、出版の準備にとりかかった。だが、順調に見えた両者の関係は、15年1月にきしみ始めた。週刊新潮の記事で、幻冬舎がAの手記の刊行を計画していることが明らかになったからだ。記事には遺族の批判の声も掲載されていたからか、これを機にAは、一度は出版を断念した。一方、幻冬舎側にとっても、手記を出版したあとに世間から受ける批判を警戒していた。にもかかわらず、Aによると、編集チームが太田出版から手記を出すよう、電話やメールで説得してきたという。
<弊社で出せなくなってしまった場合、見城は(チームの面々も同意見ですが)、それでもこの手記はやはり世に出すべきなのではないか>(1月26日のメール)
 Aは、一度は諦めた手記の出版を、再び決意する。そして見城社長は、版元として、親交のある太田出版社長の岡聡氏を紹介。その後、6月に手記が出た。
 当然のことながら、『絶歌』は厳しい批判にさらされた。しかも、同月中旬には、見城社長が週刊文春の独占インタビューに応じ、出版を断念した経緯を明らかにした。これをAは裏切りと感じ、怒りは頂点に達した。
<かつては『心の父』と慕い、尊敬していた人物のみっともない醜態を見せつけられることほど辛いものはありません>
 かつてAの更生に携わった関東医療少年院元院長である杉本研士氏は、悔しさをにじませる。
「出所して10年間も地道に努力してきたのに、無にしてしまった。彼は一度、出版を諦めようとしていたのに、惜しいことをした」
 暴走を始めたAを止める手段はないのか。米国では、犯罪者が自らの犯罪を商業的に利用し、印税収入などを得ることを防ぐ「サムの息子法」がある。
 日本でも、『絶歌』が刊行された後の7月に、Aが起こした事件の遺族らが、日本でもサムの息子法の制定を求める意見書を自民党などに提出している。陳情を受けた自民党の司法制度調査会犯罪被害プロジェクトチーム座長の鳩山邦夫衆院議員は、こう話す。
「ご遺族の心情を思うと出版差し止めのルールがあってもいいと感じるが、現実的には『表現の自由』との兼ね合いもあって難しい」
 そして気になるのは、再犯の恐れはないのか、だ。
 AはHPで<『絶歌』を書くにあたって、僕は“或る人物”の存在を強く意識していた。同郷の“異”人、『佐川一政』である>と記していた。
 佐川氏は1981年にパリで女性を殺害し、その人肉を食べ、逮捕されたが、精神鑑定で「心神喪失状態」と判断され、不起訴となった。帰国後には作家になった人物だ。Aはその憧れを延々と綴っていた。
「HPに掲載された画像を見る限り、再犯に及ぶような精神状態ではないように思えるが、孤独に苦しんでいるのではないか。自らの写真には、彼が母親の胎内でうずくまっているようなものがあります。これは精神が逆戻りして赤ちゃんに戻ろうとする『退行』の現象です。『絶歌』が期待したほど世の中に受け入れられなかったと思い、不安定になっているのではないか」(杉本氏)
 Aの両親の代理人の弁護士はこう話す。
「『絶歌』を読んだ両親は、被害者遺族の方々のお気持ちを考えると、本当に申し訳ない、と困惑していた。一刻も早くAと連絡をとり、自分たちの気持ちを伝えたいと考えていた矢先に、Aがこのような形で手紙とHPを公表してしまった」
 制御不能となったAは、この先どうなるのか。その行方は誰にもわからない。
(本誌・西岡千史、牧野めぐみ)
 ※週刊朝日 2015年9月25日号

 ◎上記事は[dot. ]からの転載・引用です *強調(太字・着色)は来栖――――――――――――――――――――――――――――――――――
◇ 元少年A一家は、被害者遺族から損害賠償請求を起こされ、約2億円の負債を背負っている。これまで約8700万円を返済 ※『週刊朝日』 2015/6/26号 
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1 コメント

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移動 (ゆり)
2016-12-30 00:00:10
関東医療少年院は2年後は八王子医療刑務所神奈川医療少年院とサマーランドの近くの新し医療センター民間少年院民間医療刑務所になると聞きました
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