安保改定の真実(7)先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決 6・19自然承認

2015-05-10 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉

 産経ニュース 2015.5.9 07:00更新
【安保改定の真実(7)】先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が
 「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためだ。アメリカ帝国主義について、お互いは共同の敵とみなして戦わなければならない」
 昭和34(1959)年3月12日、社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は中国・北京でこう演説し、万雷の拍手を浴びた。
 人民帽をかぶり意気揚々と帰国した浅沼は数日後、駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世に面会を申し入れ、東京・赤坂の米国大使館を訪ねた。
 ほどなくマッカーサーが現れた。浅沼が立ち上がるとマッカーサーは機先を制するように問いただした。
 「中国の共産主義者たちが言う『米国は日中共通の敵だ』という主張に、あなたは同意したのか?」
 浅沼が釈明しようとするとマッカーサーは拳(こぶし)で机をたたき、怒声を上げた。
 「同意したのか? イエスか、ノーか!」
 浅沼はすごすごと引き返すしかなかった。
 中国もソ連と同様に第57代首相の岸信介が進める日米安全保障条約改定に神経をとがらせていた。毛沢東が進めた「大躍進」で餓死者が続出した混乱期にもかかわらず、昭和35(1960)年5月9日には北京・天安門広場に約100万人を集め、「日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会」を開いている。
 中国の対日工作が奏功したのか、昭和34年3月の浅沼の訪中後、社会党は安保条約改定への批判を強めた。3月28日には総評(日本労働組合総評議会)や原水禁(原水爆禁止日本国民会議)などと安保改定阻止国民会議を結成。統一行動と称する組織的な反対デモを行うようになった。
 ただ、運動は大して盛り上がらなかった。昭和34年の通常国会は大きな混乱もなく、岸内閣は最低賃金法や国民年金法など雇用・社会保障制度の柱となる法律を粛々と成立させている。
 6月2日投開票の第5回参院選(改選127)も安保改定は大きな争点とならず、自民党が71議席を獲得した。社会党は38議席、共産党は1議席だった。
 安保闘争はむしろ社会党内の亀裂を深めた。
 社会党右派の西尾末広ら32人は、社共共闘を目指す左派を批判し、秋の臨時国会召集前日の昭和34年10月25日に離党した。
 秋の臨時国会は、南ベトナムだけを賠償請求権の対象とするベトナム賠償協定に社会党などが反発し「ベトナム国会」となった。11月27日未明の衆院採決を機に社会党議員の誘導で安保反対派の群衆約1万2千人が国会内に乱入、300人以上の負傷者を出す事件が起きた。これが安保闘争の前哨戦といえなくもないが、議会制民主主義を否定する手法に批判が集まり、反対運動は沈静化した。
 岸は昭和35年(1960)1月16日に全権委任団を率いて米国に出発し、19日に新安保条約に調印した。この前後のデモも散発的だった。西尾ら衆参57議員は24日に民主社会党(後の民社党)を結党、社会党や労組は分裂含みの余波が続き、動けなかった。
 転換点は、昭和35年5月19日の衆院本会議だった。
 第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)の訪日予定日は6月19日。それまでに何としても新安保条約を承認する必要があった。社会党は審議拒否に入り、参院審議は望めず、もはや衆院で可決した条約案を憲法61条に基づき30日後に自然承認させるしかないタイムリミットは5月20日だった。
 19日午後10時半、本会議開会のベルが鳴ったが、社会党議員や秘書がピケを張り、議長の清瀬一郎は議長室に閉じ込められたまま。清瀬は院内放送で「名誉ある議員諸君、このままでは議長の行動も自由になりません」と呼びかけたが、埒(らち)が明かない。
 11時5分、清瀬はついに警官隊を動員した。警官隊とピケ部隊の乱闘の中、間隙(かんげき)を突いて清瀬は本会議場に突入し、11時49分に自民党だけで50日間の会期延長を可決した。
 清瀬は岸らと協議の上で強行策に出た。いったん散会を表明し、20日午前0時5分に再び開会。そこで新条約承認案を緊急上程し、強行採決した。
 「アンポ反対」「国会解散」「アイク訪日阻止」「岸倒せ」-。5月19日を境に安保闘争は、岸への個人攻撃にすり替わり、国会周辺のデモは雪だるま式に膨れあがった。
 それでも当時のデモは牧歌的だった。男はワイシャツ姿や学生服、女はスカート姿も多かった。もっとも過激とされた全学連でさえ基本的には非暴力戦術をとり、70年安保闘争のようにヘルメットにゲバ棒で武装する人はいなかった。
 流行したのは、両手をつないで並んで進む「フランスデモ」。仕事帰りのデート代わりにデモに参加するカップルも多く、デモの合間を縫うようにアイスクリーム屋が「アンポ反対アイス」を売り歩いた。
 岸もしばらくは余裕綽々(しゃくしゃく)だった。東京・渋谷の岸邸は連日デモ隊に囲まれたが、記者団に「声なき声に耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と語り、自宅では普段通りにくつろいだ。5歳だった孫の安倍晋三(第90、96、97代首相)が「アンポ反対!」とまねたときも目を細めた。
 6月19日の自然承認。期限を切ったことは、安保闘争に「目標」を与える結果となり、6月に入るとデモはさらに肥大化した。
 「至急来てくれないか」
 岸から電話で呼び出された郵政相の植竹春彦は、闇夜に紛れて首相官邸に通じる裏口をくぐった。
 「デモ隊がNHKを占拠して革命的放送を流したら大変なことになる。すぐに警視庁と話をしてNHKの防備を固めてくれ」
 岸にこう命じられた植竹はすぐに警視庁とNHKに出向き、対応を協議した。深夜になり再び裏口から官邸に入ると、岸は首相執務室のソファで大いびきをかいていた。植竹が声をかけると、岸はむっくり起き上がり、「NHKの防備の手配は無事終わりました」との報告を聞くと「ご苦労さま」と笑顔でねぎらい、再び横になった。
 外ではまだ「安保反対」「岸辞めろ」の大合唱。それでも爆睡できる岸の豪胆さに植竹は心底驚いた。
 事態は悪化の一途をたどった。6月10日、アイクの新聞係秘書(現大統領報道官)のジェームズ・ハガチーが、アイク訪日の最終調整のため来日した。
 午後3時35分、米軍機で羽田空港に到着したハガチーは、デモの実態を確かめるべく米海兵隊のヘリコプターではなく米大使館のキャデラックに乗り込んだ。
 だが、首都高が京橋-芝浦間で初開通するのは昭和37(1962)年暮れ。羽田から都心に向かうには多摩川の土手沿いなど一般道しかなかった。ハガチー一行の車は弁天橋手前の地下道出口で全学連反主流派に囲まれ、立ち往生した。
 初めは学生たちもおとなしく、ボディーガードの靴を踏んだ学生は「アイムソーリー」と頭を下げた。だが、一人が車上に登り「ハガチー出てこい」と叫ぶと窓ガラスや車体を叩く者が続出、現場の警察官だけでは排除できなくなった。
 結局、ハガチー一行は米海兵隊のヘリコプターに救出された。アイク訪日に黄信号がともった。
 6月15日夕。断続的に雨が降る中、約20万人が国会議事堂を幾重にも包囲した。全学連主流派の学生約7500人も集結した。
 全学連主流派は、リーダーの唐牛健太郎ら幹部の多くが逮捕されていた。その焦りもあり、「国会突入」という過激な行動に出た。
 午後5時半ごろ、学生たちは国会南通用門の門扉に張り巡らされた針金をペンチで切断。敷石をはがして投石を始め、バリケード代わりに止めた警察のトラックを動かそうとした。
 国会敷地内には鉄製ヘルメットをかぶった警察部隊約3500人が待機しており、放水で応酬した。
 午後7時すぎ。学生たちが雪崩を打つように敷地内に突入し、警察部隊と激しくぶつかった。
 東大文学部4年の長崎暢子(77)=東大名誉教授=は、卒論用に借りた書籍を国会図書館に返却したその足でデモに参加した。
 長崎は最前列から十数列後ろでスクラムを組み国会敷地内に突入した。数列前に友人の東大文学部4年の樺(かんば)美智子=当時(22)=の姿が見えた。
 デモ隊と警察部隊に挟まれる形で猛烈に押され「苦しい」と思ったが、身動きできない。頭上からは警棒が容赦なく振り下ろされた。腹も突かれた。「痛い」と悲鳴を上げたが、逃げようがない。「倒れたらダメだ。死んじゃうぞ!」。誰かにこう励まされたが、長崎の意識は次第に遠のいた。
 「女子学生が死んだらしい」-。午後7時半すぎ、こんな噂(うわさ)がデモ隊に流れた。午後8時すぎ、社会党議員が仲裁に入り、午後9時すぎ、国会敷地内で全学連の抗議集会が開かれた。ここで女子大生の死が報告され、黙祷をささげた。
 集会後、学生の一部は暴徒化し、警察車両にも放火。翌16日未明、警察は催涙ガスを使用し、デモ隊を解散させた。この騒動で負傷した学生は約400人、逮捕者は約200人に上った。警察官も約300人が負傷した。
 死亡した女子大生は樺だった。検死結果は「胸部圧迫と頭部内出血」だった。
 長崎は入院先の病院で樺の死を知った。「まさかデモで死んじゃうとは…」とショックだった。
 長崎と樺は大学1年からの友人だった。3年で長崎は東洋史、樺は国史を専攻したが、交流は続いた。樺は学者を目指して徳川慶喜に関する卒論に取り組んでいたという。
 「こんな安保改定を行う岸信介はけしからん。われわれの卒論も哀れな末路をたどりそうだ。学問を邪魔するとはけしからん」
 笑顔でこう語ったのが、樺との最後の会話だった。
(敬称略)

 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します *強調(太字・着色)は来栖  

「安保改定の真実」(1)~(8 完)産経ニュース 2015/5/4~2015/5/10 連載 
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