裁判員裁判の「死刑判決」破棄!高裁の無期懲役に遺族「絶対に納得できません」
J-CASTニュース 2013/10/23 15:00
裁判員裁判の死刑判決を破棄する判決が二審の高等裁判所で言い渡され、被害者の遺族が22日夕(2013年10月)、怒りの記者会見を行なった。千葉県松戸市で2009年、千葉大4年生の荻野友花里さん(当時21)を殺害し、強盗殺人罪や他の女性への強盗強姦罪などに問われた竪山辰美被告(52)に対し、東京高裁の村瀬均裁判長は1審の死刑を破棄し無期懲役とした。
死刑を破棄した理由について、村瀬裁判長は「被害者は一人で計画性はなかった」としたが、1審ではそうした条件を踏まえたうえで堅山の犯罪歴を重視し、更生の見込みはないと判断して死刑を言い渡していた。
*最高裁の懸念「裁判員裁判の厳罰化傾向」受けた判決
堅山は09年9月に強盗致傷で約7年間服役して出所し、9~11月の間に住居侵入、窃盗、強盗致傷、強盗強姦、強盗殺人、強盗強姦未遂を繰り返していた。無期懲役の判決に納得のいかない遺族はこう怒りをぶちまけた。父親は「裁判員が何日もかかって決めたことを無視するかのように覆すのはどうしても納得できない」といい、母親も「私の娘よりも犯人の方の命が重いということなんですかね」と語った。
*一審は何だったのか
なぜ裁判員裁判の死刑判決が破棄されたのか。最高裁の司法研修所が昨年7月(2012年)に出した報告書が大きく影響している。報告書には裁判員裁判の厳罰化傾向を懸念し、「被害者一人の強盗殺人で計画性のない場合、死刑の事例がないという先例を重視すべきだ」という「基準」を示している。
*国民の意見反映という制度との矛盾
裁判員裁判が出した死刑判決を破棄することについて、安冨潔弁護士は「裁判員が熟慮した結果を尊重しないと、国民の意見を反映させるという裁判員裁判を創設した趣旨を問われる」と批判的だ。
デープ・スペクター(テレビプロデューサー)「高裁、最高裁には裁判員はいないわけですから、一審は何だったのだろう、形だけだったのか、世間の論調のためにやり始めただけなのかとなる。無期懲役という選択肢が悪い。絶対に釈放できないという条件でもあれば納得できるのでしょうがね」
司法改革自体がまだ道半ばの状態を印象付けた裁判だった。
◎上記事の著作権は[J-CASTニュース]に帰属します *リンクは来栖
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◇ 裁判員裁判の死刑破棄2件 / 裁判員法=「国民の常識を裁判に反映させる」とは書いていない 2013-10-22 | 被害者参加/裁判員裁判/強制起訴
裁判員裁判の死刑破棄2件、遺族ら失望 「民意の法廷 なぜ否定」
産経ニュース2013.10.22 13:48
東京高裁で今年6月と10月、裁判員裁判が言い渡した1審の死刑判決を破棄し、無期懲役に減刑する判決が言い渡された。2つの判決を下したのは同じ裁判長で、過去の判例を重視するなどして減刑の判断を下した。「民意を取り入れて変わったはずの司法が、市民も加わった判断をなぜ否定するのか」-。遺族らの失望は深い。
「なぜ刑を軽くするのか…」。平成21年、千葉県松戸市で竪山辰美被告(52)によって殺害された荻野友花里さん=当時(21)、千葉大4年=の父、卓(たかし)さん(64)と母、美奈子さん(60)は、兵庫県稲美町の自宅で苦悶(くもん)の表情を浮かべた。
竪山被告は友花里さん宅に侵入し、現金やキャッシュカードを奪った後に殺害、翌日に放火した。
千葉地裁での裁判員裁判には卓さんや美奈子さんも被害者参加。殺害された被害者が1人の場合、過去には死刑にならないケースも少なくないが、判決は「犯行は冷酷で更生可能性は乏しい」として、検察の求刑通り死刑を言い渡した。
一方、高裁の審理はわずか1回。村瀬均裁判長は今月8日、死刑破棄の判決を言い渡した。死刑回避の条件となる「被告が更生する可能性」には触れず、殺害された被害者が1人という点を重視した。美奈子さんは「被害者や遺族に、とても『冷たい』裁判だと思いました」。
東京高検は、友花里さんの命日にあたる21日、判決を不服として最高裁に上告した。美奈子さんは「市民が加わった裁判員裁判が出した死刑判決の重みを、最高裁は正しく判断してほしい」と話している。
「被告は父も含めて3人もの命を奪ったのに、意味がわからない」
21年11月、南青山のマンションで、金を奪おうとした伊能和夫被告(62)に殺害された五十嵐信次さん=当時(74)=の長男、邦宏さん(47)は悔しそうに話した。
伊能被告は昭和63年に妻を殺害し、自宅に放火し長女を焼死させたとして殺人罪などに問われ、懲役20年の判決を受けて服役。出所から半年後に、強盗目的で信次さんを殺害した。
1審東京地裁の裁判員裁判は「冷酷非情な犯行で前科を特に重視すべきだ」として死刑を言い渡した。しかし2審で村瀬裁判長は「前科を重視しすぎだ」として死刑を破棄し、無期懲役を言い渡した。伊能被告も最高裁に上告された。
犯罪被害者支援弁護士フォーラムの事務局長、高橋正人弁護士は「裁判員裁判が、先例と違う判断をするのは当然。高裁の裁判官が『先例と異なる』として1審判決を破棄するのは、裁判員裁判の制度を否定することになる」としている。
◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します *リンクは来栖
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〈来栖の独白2013/10/22 Tue. 〉
多くのリスク、問題を抱えながら拙速に発足した裁判員裁判。市民感覚を判決に反映させるものと考え違いをしている人が多い。とりわけ被害者遺族にあっては、そうだろう。が、裁判員制度のどこにも「市民感覚を反映」といった趣旨は謳われていない。遺族は何としても被告人に死刑判決をと求めるが、如何なものか。経験や資格、学識等が選任の根拠とされず(必ずしもそれらを有していなくとも)無作為に選ばれた者が死刑判決を下すのこそ、危うい限りだ。国は、裁判員裁判をどうしてもやってみたいなら、民事裁判から手がけてみればよかった。いきなり死刑事件というのは、まことに危険だ。
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◇ 裁判員裁判が1審で言い渡した死刑判決を破棄して無期懲役に減刑した事案 裁判員裁判、考えさせた報道 2013-10-27
◇ 裁判員裁判の死刑判決破棄 3例目 〈長野3人強殺・死体遺棄事件〉池田薫被告 東京高裁 村瀬均裁判長 2014-02-28
◇ 千葉大生強殺 竪山辰美被告 2審は無期 裁判員の「死刑」破棄2例目 / 1例目=南青山強殺 伊能和夫被告 2013-10-08
◇ 東京高裁 裁判員の死刑判決 初めて破棄 (東京・南青山)強盗殺人などの罪に問われた伊能和夫被告 2013-06-20
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◇ 【裁判員制度のウソ、ムリ、拙速】 大久保太郎(元東京高裁部統括判事) 『文藝春秋』2007年11月号
(抜粋)
*「違憲のデパート」
新潟大学教授西野喜一氏の論文「日本国憲法と裁判員制度」(「判例時報」平成17年1月11日号、同月21日号)は、裁判員法がわが憲法に適合するかどうかを詳しく研究した労作であるが、西野氏は裁判員法について違憲またはその疑いのある点として12点を挙げ、「裁判員制度は『違憲のデパート』になりかねないという感さえある」と言っている。国民には一向に知らされていないが、裁判員法には違憲と考えられる点がそれほど多々あるのだ。私の考える主要なものを挙げると、つぎの通りだ。
*憲法の「司法」の規定に違反
裁判員は裁判官と同等の裁判の評決権(「一票」の権利)を持つから、実質は裁判官である。ところが憲法第6章「司法」中の80条1項は、「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる」と定めている。裁判員はこれに真っ向から抵触する。
裁判員制度は、裁判員が裁判官とともに裁判をするもので、参審制に属するが、元最高裁判事伊藤正己氏は、「素人を裁判官として参与させる参審制は、憲法にそれについての規定がなく、しかも裁判官の任期や身分保障について専門の裁判官のみを予想しているところから違憲の疑いが強い」と述べ(『憲法入門』第4版)、また元最高裁判事香川保一氏は「裁判官は、最高裁判所の提出する名簿によって政府が任命すると憲法上決まっている。抽選的に選ばれた裁判員が裁判の審議、判決にも裁判官と同じ資格で関与することは憲法違反ではないかと思」うと述べている(「リベラルタイム」平成16年6月号の対談記事「裁判員制度は憲法違反だ!」)。
西野喜一氏の前記論文の言葉を借りれば、「裁判官でない者が刑事被告人の運命に関与できるとするためには相応の根拠、規定がなければならない。特に、被告人としては、何故裁判官でない者が、憲法上の規定に拠らずに、自分の運命を左右できるのかと問うであろう。他方検察官も公益の代表者として当然そう言えるのである。また、裁判官でない者が、裁判官と対等に判断に関与できるとするためには、なぜその者の判断が憲法に根拠を持つ裁判官の判断と同等の意義を持てるのか、持っても差し支えないのか、という疑問が解明されなければならないが、これらは解明も解答もされていない」のだ。
つまり「なぜ裁判員が裁判に参加することが憲法上許されるのか」という根本問題からして、何の説明もないことを国民は知らなければならない。
人間の生命は地球よりも重いといわれる。判決確定前の被告人の生命も同様だろう。憲法に根拠のない裁判員が、裁判官とともにであるにせよ、被告人に死刑その他の刑を科することなど、どうして許されるのであろうか。現実の裁判は模擬裁判ではないのだ。
なお最高裁自身、司法制度改革審議会で、いったんは、参加者に評決権を与えることは憲法上問題があるとし、「評決権なき参審制」を提案したことがあったのだ(しかし最高裁はその後不可解なことに、審議会の裁判員制度の提案に同調してしまった。この点は後述する)。
*「公平な裁判所」の保障違反
憲法37条1項は被告人に「公平な裁判所」の裁判を保障しているが、裁判員の参加した裁判所はこの保障に違反する。憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律のみに拘束される」と規定し、実際その通り実践されている。
しかし裁判員はこれと異なる。裁判員法8条には「裁判員は、独立してその職権を行う」と書かれているが、これは法の建て前であり、裁判員の中にはいろいろな人が混じるのは避けられず、実際には裁判上の適法な判断材料以外の情報により、あるいは時には他から精神的圧迫を受けて、判断を左右されるおそれのあることを免れない。
また、裁判員は氏名も住所も公表されず、判決書に署名もしない。つまり言い放しの立場であり、その判断に責任を問われることもない。被告人の立場からみれば右から来て左へ去るその場限りの人たちによって自己の運命が決められることになってしまう。
このような裁判員の参加した裁判所がどうして憲法の保障する「公平な裁判所」といい得るだろうか。
*裁判官の独立の侵害
評決の方法を定めた裁判員法67条によれば、裁判官3人全員が有罪だと確信しても、6人の裁判員のうち5人が無罪だといえば、結論は無罪となり、裁判官は無罪判決を書かねばならない。前記のように憲法76条3項は裁判官の独立を保障しているが、「このように裁判官全員が有罪を確信していながら無罪判決を出さざるを得ない状況を裁判官に負わせるのは、憲法の右条項に違反する恐れが極めて大きい」(西野喜一氏前出論文)といわなければならない。
* 「国民の自由」にも反する
欧米諸国の陪審員制も参審制も、それぞれ固有の理由があって幾世紀も前から存在しているものだ。しかし現代のわが国は国民各自がそれぞれ自己の生活目的をもって忙しく活動している社会である。このような時代に突然「国民参加はいいことだ」として、上からお仕着せ的に国民に裁判員制度のような厳しい義務づけを伴う制度を押し付けることは、憲法の自由権、財産権の保障と衝突する。
*自由権、財産権の侵害
憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定め、同18条後段は「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定め、同19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定め、さらに同29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と定めている(このうち「良心の自由」については、政府は立案段階で指摘を受け、これに違反しないよう政令で辞退事由を設けることを約束している)。
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「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【2】 光市事件最高裁判決の踏み出したもの
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。
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◆ 裁判員法=最高裁や法務省が言う「国民の常識を裁判に反映させる」とは書いていない
特集ワイド:裁判員裁判の死刑判決 亀井・国民新党代表、田辺・元最高検検事に聞く
毎日新聞2010年11月17日 東京夕刊
横浜地裁で16日、国民が参加する裁判員裁判では初めて死刑判決が出された。市民参加によって死刑判決を下すことについて、「死刑廃止を推進する議員連盟」会長、亀井静香・国民新党代表と、元最高検検事の田辺信好弁護士に聞いた。【宍戸護】
◇多数決で決めてはならない--「死刑廃止を推進する議員連盟」会長・亀井静香氏
横浜地裁の死刑判決を見ると、やはり死刑制度があるから、こういう判決が出たのだと思う。しかも裁判長が控訴を促したでしょう。自分で死刑を出しておいて、控訴しなさいとはどういうことですか。人間の命を奪うことを何と考えているのか、私はおかしいと思う。死刑判決を出す場合、裁判官と裁判員は全員一致じゃないといけない。それでも、裁判員は自分が出した判決を一生悩み、苦しむことになる。
裁判員裁判は、プロの裁判官が陥りやすい弊害を、一般人である裁判員の常識や生活感覚で埋め合わせるという意味では悪くない。しかし、証拠判断の訓練を積んでいない裁判員が、プロの裁判官と同じ重みを持って、判決にかかわることには問題があるのではないか。裁判官は証拠が立証されていく時系列の重みなどを判断する経験を積んでいるが、裁判員はその経験がなく、情緒的な判断をしやすいからだ。
死刑判決が出る可能性がある裁判を裁判員に任せることに、私は無理があると思う。裁判官だから確実な判決を下すと言えるわけではないが、裁判員が被害者の関係者の「罰してほしい」という声の中で、しかも数日程度のわずかな期間で的確な判断ができるのか。袴田事件(元プロボクサー、袴田巌死刑囚が第2次再審請求中)では、1審で死刑判決とした元裁判官が「合議した裁判官の主張で死刑になった。2対1で負けた」と明らかにし、「無罪の心証だった」と公表したでしょう。死刑判決をめぐってはプロの裁判官ですら、一生大きな十字架を背負ってしまう。まして民間人である裁判員がその重みに耐えられるのかと思う。繰り返すが死刑判決の可能性がある裁判を裁判員にやらせるというならば、判決を決める評決は裁判官、裁判員の全員一致にすべきだ。
そもそも私は死刑制度を廃止すべきだと考える。人の命はそんなに軽いものではない。理論的にどうだこうだというよりも、人間の命は大事にせなあかんと思う。どんな犯罪であれ、国家権力が人を殺す、しかも手足を縛って絞め殺すなんていうのは認められない。人間は、自分の一身を投げ捨ててまで仏のようないいこともすれば、残虐非道なこともやる。人をただ罰する、応報感情を満足させる、というだけではなく、そういう人が現れた場合でも、最低限命は奪わない、そして償いはさせる。危険な人物は除去すればいいという発想だけでやり出したら、国家や社会は非常に暗くなってしまう。
冤罪(えんざい)で死刑になる可能性もある。郵便不正事件では捜査機関によって証拠が改ざんされ、村木厚子さんが逮捕、拘置された。僕たちは冤罪の可能性が高い司法制度の下で暮らしていることが明らかになった。最高検の検事総長以下、捜査をチェックする機関がいくつもあるのに、裁判所が無罪判決を出すまでチェックできなかった。冤罪は確率的には少ないかもしれないが、当事者にとっては100分の100だ。今こそ、国民が目覚め、死刑制度について真剣に考えないといけません。
◇生涯悩みを抱えるのでは--元最高検検事・田辺信好氏
死刑制度は存続させるべきだが、裁判員裁判については反対だ。死刑も裁判員が判断すべきではないと考える。
被害者やその遺族は、犯人に対し応報できないから国が代わりをする。被害者の命が重いからこそ、加害者も命をもって償うしかない。もちろん冤罪はあってはならない。プロの裁判官、検察官、弁護人とも実力を磨いて冤罪防止に全力を注ぐべきだ。無実のものを死刑で殺してはならないのは当たり前のことだ。
裁判員裁判は問題が多い。例えば、裁判は、被告が罪を認めている場合、自白を信用できるか、自白に身代わりの可能性がないかの判断が必要だ。否認の場合は、目撃者や指紋、DNA、いろんな証拠を総合して有罪と言えるのかを判断する。一般市民である裁判員には、有罪無罪だけではなく量刑について判断することも難しいと思う。中にはできる人もいるかもしれないが、今の裁判員は能力に関係なく無作為に抽出されている。裁判員が「疑わしきは無罪」に徹すれば、冤罪を防げるといわれるが、米国の陪審制では有罪判決後、無罪と分かったケースが多数ある。
死刑も同じ理由で裁判員が判断すべきではない。横浜地裁で16日に出された死刑判決は、死刑選択の基準「永山基準」から見ても妥当といえるが、裁判長が「控訴を勧めたい」としたのは解せない。判決に自信がなかったのか、無期懲役の意見を出した裁判員に気を使ったのか。いずれにせよ、裁判員は今後「あれでよかったのか」と幾度も振り返り、守秘義務にも生涯悩まされるだろう。正常な精神を保てない人が出るかもしれない。
死刑判決をめぐり、裁判官と裁判員の間で、意見が分かれたとも推測されるが裁判官と裁判員の多数決は、憲法76条第3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」の「裁判官の独立」を害する疑いがある。例えば、現行では裁判官3人のうち2人は死刑、1人は無期懲役で、裁判員6人のうち4人が無期の判断なら無期になる。つまり裁判官3人だけだと死刑だが、裁判員が加わると無期。裁判官3人で決めた場合と、裁判員が加わった場合では結論が異なるのでは憲法違反の疑いがある。
裁判員裁判で死刑を求刑されて11月1日に無期懲役の判決を出した「耳かきエステ」の裁判員は、報道によると「永山基準は裁判官による裁判のもの」と述べていた。しかし似た事実、犯情、情状なのに、死刑と無期に分かれるならば、公平な裁判を受ける権利を保障している憲法37条第1項「すべての刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」にも反する。
裁判員裁判の目的は裁判員法1条で「国民の理解の増進と信頼の向上」と定めている。最高裁や法務省が言う「国民の常識を裁判に反映させる」とは書いていない。国民に裁判への深い関心を持たせた意味は認めるが、逆を言えば、制度の目的はすでに達成されたといえ、この際廃止すべきだ。
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