長崎市長射殺事件で福岡高検が上告 「刑事司法は誰のためにあるのか」

2009-10-09 | 死刑/重刑/生命犯

産経ニュース2009.10.9 11:16
  長崎市で2007年、選挙運動中の伊藤一長市長=当時(61)=を射殺したとして、殺人や公選法違反(選挙の自由妨害)などの罪に問われた元暴力団幹部、城尾哲弥被告(62)について、福岡高検は9日、一審の死刑判決を破棄、無期懲役とした福岡高裁判決を不服として、上告した。
 福岡高裁判決は被害者が1人だったことや、犯行動機が市への不当要求を断られたことへの逆恨みで、選挙妨害そのものが目的ではなかったことなどを考慮し、死刑を回避した。
 福岡高裁判決後、伊藤前市長の長女、横尾優子さん(38)らは福岡高検に上申書を提出。「選挙のさなかに候補者の命を奪い、政治活動を断った『類例のない凶事』で、過去の事件と同列に扱うべきではない。民主主義の根幹である選挙制度を銃弾で破壊した社会的影響は甚大だ」と上告を求めていた。

http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/98fa1eb15693342393014a29be4df00e 

「長崎市長射殺事件~この事件は、本当に「民主主義への脅威」だったのか?」
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〈来栖のつぶやき〉
 東海テレビの番組だったか、事件被害者の遺族がおっしゃっていた。「永山基準によって、下される量刑が決まっているのなら、裁判の必要も意味も無い」と。また同番組中、「死刑を求める磯谷さんの前に立ちはだかったのは、『被害者1名のケースでは死刑の選択は無理』という永山基準だった」とのナレーションがあったように記憶している。
 そこで、刑事司法は誰のためにあるのか、確認しておきたい。刑事司法は、被害者自身による報復や、被害者個人の損害回復のためではなく、犯罪を抑止することと同時に罪を犯した人の改善更生を実現することを目的としている。
 以下は、1983年7月8日最高裁第二小法廷(裁判長裁判官大橋進)、永山則夫事件判決文の抜粋である。
 “死刑は(中略)生命そのものを永遠に奪う冷厳な極刑で、究極の刑罰であることにかんがみると、その適用が慎重におこなわれなければならないことは、第二審判決の判示するとおりである。
 しかし、犯行の罪責、動機、態様、殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性、殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状などを考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。”
 昨今、量刑について人びとが話すとき、「相場」「命の相場」との言い回しをしばしば耳にする。永山基準が、命を相場にしてみせたかの感があって、私は抵抗感が否めない。永山判決は“極刑がやむをえない(中略)、死刑の選択も許される”と、極めて消極的、慎重な言い回しであるが、昨今は「死刑を回避するに足る余程の事情がない限り、死刑はやむを得ない」と、まるで逆転している。死刑判決の乱発である。
 (「刑事司法は誰のためにあるのか」に付随するように)裁判員裁判について論じた以下の記事があった。
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http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/7668d37485f511c13c272ed1d79eb7f4
【中日新聞を読んで】後藤昌弘(弁護士)
刑事裁判は誰のため
 12日付の朝刊で、裁判員制度に関する司法研修所の報告書について報じられていた。控訴審については、裁判員が判断した1審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限るとある。
 裁判員裁判は1審のみであり、控訴審では従来通り職業裁判官が審理する。この控訴審のあり方については従来、議論があった。控訴審で職業裁判官のみにより1審判決が安易に覆されるとなれば、市民の声は反映されにくくなる。市民の声を裁判に反映させることを目指す裁判員制度の趣旨からすれば、1審の裁判員による判断は尊重されなければならない、という意見があった。今回の報告書はこの意見を採りいれたものである。
 ここで考える必要があるのは「刑事裁判は誰のためにあるのか」である。裁判員になる市民のためではない。被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである。「疑わしきは罰せず」という言葉も、冤罪を防ぐという究極の目的があるからである。だとすれば、有罪・無罪にかかわらず裁判員の意見を尊重する、という今回の方向性が正しいものとは思えない。市民が無罪としたものを覆すことは許されないとしても、事実認定や量刑について問題がある場合にまで「市民の声」ということで認めてしまうのであれば、控訴審は無きに等しいものになる。しかも、被告人には裁判員裁判を拒否する権利はないのである。
 今回の運用について、検察官控訴に対してのみ適用するのなら理解できる(そうした立法例もあると聞く)。しかし結論にかかわらず一律運用されるとすれば、裁判員裁判制度は刑事被告人の権利などを定めた憲法に違反すると思う。今更やめられないとの声はあろうが、後で後悔するのは被告人席に立つ国民である。改めることを躊躇うべきではない。2008/11/16中日新聞朝刊
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 大切な人を忌まわしい犯罪によって奪われた被害者のお気持ちは如何ばかりか、と思う。けれども・・・・。


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