<足利事件・再審確実で釈放>菅家利和さん

2009-06-06 | 社会
新聞案内人 <時の人>2009年06月06日
<足利事件・再審確実で釈放>菅家利和さん
 今週の<時の人>は、無期懲役刑で服役中に、無実であることが確定的となり、逮捕以来17年ぶりに釈放された「足利事件」の菅家利和さん(62)である。6月4日夕、記者会見した菅家さんは、「警察官、検察官に謝ってほしい。私の17年間を返してほしい」と語った。
 4日午後、千葉刑務所から釈放された菅家さんは、弁護団とともに、午後5時前から約1時間の記者会見に臨んだ。拍手に迎えられ、格子柄のブレザー姿でマイクの前に座った菅家さんは、時折、唇をかみしめ、声を詰まらせながら、17年間の思いを語った。
――まず、足利事件弁護団から質問します。菅家さん、今のお気持ちなどを。
 今日は本当にありがとうございます。私はきょう、釈放になりましたけれど、本当に嬉しいです。当時、私は急に犯人にされました。自分としては、まったく身に覚えがありません。私は無実で、犯人ではありません。これだけははっきり言えます。刑務所の中では、つらいこともありましたが、しかし、きょうまで一生懸命頑張ってきました。これも、佐藤(博史)先生はじめ弁護団の先生方、ご支援下さった皆さんのおかげです。本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
――17年間、どういう気持ちでいましたか。
 犯人にされ、ずっと我慢してきました。当時の刑事、警察官、検察官は私に、それから私の両親に、それから世間の皆様に謝ってほしいと思います。でも、謝って済むとは思っていません。当時の警察、検察官を絶対に許すことはできません。「間違った」では済まないのです。絶対に謝ってもらう、それを17年間、ずっと思っていました。「間違っていた」では、絶対に済まないんです。
――この17年間で一番つらかったことは?
 刑務所の中の同僚とケンカしたこともあります。私に対して(ケンカの矛先が)降りかかってきたこともありますが、私は一切無視してきました。正月もない…。そんな中、なんとか頑張ってきました。
――この間に、ご両親も亡くなられたが。
 はい。自分が警察に捕まって、オヤジはショックを受けて亡くなりました。それから、10年前には母が亡くなりました。母もつらかったと思います……。警察官も検察官も、(両親のお墓に)出向いて謝ってほしいと思います。
――お墓参りに行きたいですか。
 はい、行きたいです。
――DNA再鑑定で不一致と出ました。つまり菅家さんは犯人ではないという鑑定が出ましたが、どう思いましたか。
 やっぱり、自分は無実だから、だから一致しなかったんだ、そう思いました。それで、同僚の人たちと握手をしました。「良かった、良かった」と言ってくれました。
――今までも、再鑑定を何度か裁判所に頼んで来ましたよね。それでも、やってくれなかった。裁判所に対してどう思いますか。
 裁判所は、どうして私を犯人だと思ったのか、全然分かりませんでした。
――裁判を宇都宮地裁(一審)でやっているころは、自分は無罪だとあまり主張しませんでしたよね。どうしてですか。
 裁判の傍聴席に、刑事がいるのではないかとびくびくしていました。それでも、「やっぱり、やってない」と言ったことも2、3回あると思います。
――自由の身になって、これから何をしたいですか。
 これからは、冤罪で苦しんでいる人たちの支援をしていきたいと思っています。
――真犯人についてはどう思いますか。
  ええ、もう絶対に許せません。真犯人には時効などあっては絶対になりません。(実際は)もう時効になってしまったかもしれませんが、それは絶対に許せません(と声を震わせる)。
――亡くなった被害者の女の子やそのご両親に対して言いたいことは。
 そうですね。ご両親には、「私はやっていません」とはっきり申し上げたいです。
(ここで、支援者から花束を贈られ、たくさんのカメラに笑顔を向ける)
――弁護団の佐藤博史弁護士から、今回釈放に至った経緯などを話してもらいます。
 (佐藤)今朝、自宅を出るときは、まさかこんな記者会見ができるとは全く思っていなかったです。事務所に着いた午前10時に東京高検から電話があって、意見書を出しただけでなく、本日釈放しますと聞いて…。今まで求めていたことが現実になったのですが、あまりにも突然で、まあ、正直言って驚いています。
 再審請求の中で、しかも無期懲役の人が、検察官の意見書が提出されると同時に刑の執行が停止されて釈放されるという、おそらくこれは前例のないことだと思います。私たち弁護団も、まずは再審開始決定があって、その時に刑の執行停止となり、そのあとの再審公判で無罪が言い渡されて自由が回復するという手順なのだろうと思っていました。
 ところが、この5月8日にDNAの再鑑定結果が示され、その中身が菅家さんの無実を明らかにしていたわけです。そこで弁護団としては、一刻も早く菅家さんの自由が回復されなければならないということで、検察官に対して執行停止を刑事訴訟法442条但し書きによって求めました。釈放の権限があるのは検察官なので。
 東京高検が、まことに異例な、こういう英断をされたということについては心から感謝したいと思います。菅家さんにしてみればあまりに遅きに失したわけですが、これだけの決断をされたことについては、検察官なりの勇気があったのだと思います。検察官と弁護団は刑事裁判ではいわば「敵」なのですが、たぶん向こうにも、我々の味方がいたということだと思います。
 そのことを実感できたのは、きょう、刑務所で菅家さんを迎えたときなんです。すべての刑務官の人たちが、「ご苦労様でした」っていうふうに言ってくれて……(こみ上げてくるものに言葉が詰まる)、「よかったね」と言ってくれて、我々も「お世話になりました」と言って出てきましたけれども……。
 菅家さんを知っている人は、みんな彼が無実だということがすぐわかると思うのです。私は、15年半前に彼と初めて会って話した時に、彼は無実だとすぐに思い、それをいろんな人に話すのだけれども、私が軽々しく信じてしまったと思う人が多くて、そういう人たちに常に言っていたのは、「菅家さんという人の“人となり”を知れば、すぐにわかる」ということでした。きょうこうして、あまりに予想外に多くの人がいるのでびっくりしていますが、皆さんに私の隣に座っている菅家さんを見てもらえば、幼女を殺した犯人かどうか、そうでないということは、たぶん分かってもらえると思う。
 そういう意味で、私が信じ続けたことは正しかったということで、こんなに嬉しいことはありません。
――ここからは記者の質問を受け付けます。(以降、記者の質問)
――本日、刑務所の中で、刑の執行停止と釈放が決まったということを聞いたときの気持ちを聞かせてください。
 (菅家)突然、「釈放する」と言われたのでびっくりしました。自分としては、まだ先になるのではないかと思っていたので。刑務官が「きょう」と言うので、とても嬉しかったです。朝は、起きて、朝食をとって、工場に出ていました。9時半ころですか、処遇に呼ばれまして、釈放の書類を見せられました。その時は、きょとんとしましたけれども、そのうち、嬉しくなりました。
 (佐藤)刑務官も「経験のないことだ」と言っていましたが、菅家さんは、まだ刑の執行停止中なんですね。ですから、まだ無期懲役という判決は効力を持っている。再審で無罪が確定するまでは、完全な「おめでとう」を言ってもらえる状況ではないのですけれども、まあ菅家さん、良かったね。
――刑務所を出た瞬間の気持ちはどうでしたか。
 そうですね。外へ出たときは、お店がたくさん目に映りました。いいなあ、やっぱり娑婆はいいなあ(笑)と思いました。(入ったときと変わっていたのは?)風景というか、よくわかんなかった。店がいっぱいあるなと思いながらここまできました。
――刑務所にいるとき、一番の心の支えになったものはなんですか。
 弁護団の先生方と、支援をしてくれた人たちのおかげで、きょうまでやってこられました。本当にありがとうございました。
――刑務所を出て、こちらのホテルに来て、最初にされたことはどんなことですか。
 コーヒーをもらいました。(刑務所内で飲むコーヒーと)全然違いますね。ひと味もふた味も違いました。
――お墓参りはいつごろ行かれて、その際にどんなことを報告したいと思いますか。
 お墓には一日も早く行きたいと思います。両親に報告したいと思います。自分は犯人ではないので、そのことを言って、両親に安心してもらいたいと思っております。
――当初、取り調べに「自白」をしたことについて。なぜしてしまったのか。
 刑事たちの責めがものすごいんです。「お前がやったんだ」とか「早く話せ、楽になるぞ」とか、そういうふうに言われて、私は「やってない」と言ったんですけれど全然受け付けません。
 最初、平成3年の12月1日の朝のことなんですけれど、玄関の戸をたたくんですよ。開けると、「警察だ、奥へ入れ」と。奥では「そこへ座れ」と言われまして、刑事が「お前、子ども殺したな」と。自分は知りませんと言ったのですが、その時、ひじ鉄砲でドーンとぶつかってきたんです。ガラス戸に頭をぶつけるところでした。それから、刑事が背広のポケットから写真を出しまして、女児の写真を見せられました。そして「この子に謝れ」というんです。何もやってないので、私は「やっていません」とうなだれていました。すると、「警察へ行こう」と、連れて行かれたのです。
 その日は、勤め先の保育園の先生の結婚式に呼ばれていたんです。そのことを話すと「そんなものは、どうでもいいんだ!」と怒鳴られて、ほんとひどいなと思いました。ぜったい、許す気持ちにはなれません。
――警察官、検察官を許せないとおっしゃっていますが、裁判官にも、きちっと調べて再鑑定をしてくれと何度も訴えていましたね。裁判官に対してはどう思いますか。
 (菅家)DNA鑑定ですが、裁判官には自分のことを分かってもらえるのではないかと思っていたのですが、ダメでした。無期懲役になりました…。裁判官にも謝ってもらいたい気持ちです。(再審請求一審・宇都宮地裁が、DNA鑑定について、菅家さんの髪の毛かどうか不明として取り合わなかったことには)カーッと血が上りました。こんなバカなことがあるのかと。許せません。あくまで自分は犯人ではないし、許さないと思いました。
 (佐藤)再審請求(の一審)では、裁判長は菅家さんに会って話を聞こうともしなかったのです。菅家さんも自分の声を聞いてほしかったのだと思います。
 いま裁判員制度が始まりました。「裸の王様」という童話がありますが、無垢な人には見えて曇った人には見えないものがある。今回、DNA鑑定が覆ったということで、裁判員の中には証拠の評価は難しいと恐怖に思う人もいるかもしれませんが、ぜひ、市民の澄んだ目で事実を見てもらいたいと思います。この人は無実かもしれないと少しでも思ったら、どんなに強力な証拠でも疑ってみる目を持っていただきたい。
――菅家さんも密室の取り調べで自白を迫られたが、多くの事件でうその自白が冤罪を生んでいる。これ以上、冤罪を出さないために、どういう制度にすればいいでしょうか。
 冤罪なくすためには、警察官がよく調査しなければならないと思います。このままでは多くの冤罪を生むと思います。密室でなくて、ちゃんとしたテレビカメラなどを設置して、室内を映して調べを監視してほしい。
――逮捕以来、人生が大きく変わりました。逮捕されなければ、どんな人生だったと、またこれからはどんな人生を歩いて行きたいですか。
 今までの17年間、返してもらいたいですね。私を取り調べた人たちに、17年を返してもらいたい。絶対許すわけにいきません。これからは、先ほども言ったように、冤罪で苦しんでいる人たちを支援していきたいです。
――菅家さんは本件以外に2件の殺人を自白しているが、どうして?
 無理矢理、責められて、自分の体を揺すったり髪の毛つかんだりして、「お前がやったのは分かっているんだ」「白状しろ、白状しろ」と言われ続けました。それで「やりました」と言ってしまいました。(死刑になるとは考えなかった?)全然考えていませんでした。私は関係ありませんから。(では裁判官の前でも認めたのも、あなたが「やった」と言っても、裁判官はそれをウソだと見抜いてくれると信じていたから?)はい、そうです。
――どうにもならなくなって犯行を認める、その時の気持ちは。
 刑事たちの取り調べは、すごく厳しいです。髪の毛を引っ張ったり、足でこう(蹴ったり)したり、それで「早く楽になれ」と。この17年は大きいです。取り調べをした刑事たちを許せません。(「間違っていた」ではすまないと?)その通りです。
――9年間の刑務所生活は?
 工場へ出て、房へ戻る毎日でした。ビニールで手提げの袋を作ったり、袋に取っ手をつけたりの作業です。いい仲間がいましたので、きょうまでやって来られました。
 ――これからしたいこと、旅行や、いま食べたいものは?
 カラオケが、大好きなので(行きたい)。昔、地元ののど自慢大会に出たし、刑務所の中でものど自慢大会に出ました。お寿司が食べたいです。
――女児や女児の両親に何かおっしゃりたいことは。
 ご両親に会って、「私は犯人ではありません」とお伝えしたい。女児にも、お墓参りして、「おじさんは犯人ではないよ」と伝えたいと思います。
――今後は、足利に戻って暮らしますか
 はい、自分の故郷ですから。故郷は捨てられませんから。生まれたところですから。(会いたい人は?)兄弟たちですね。
――信じてくれていた支援者たちに、改めてひと言。
 (菅家)西巻糸子さん(59歳、「菅家さんを支える会・栃木」代表)には本当に感謝しています。西巻さんがいなければ、きょうという日はありませんでした。今の自分はありませんでした。きょうは、本当にうれしかったです。
 (佐藤)きょうは、西巻さんと私が刑務所の中に入って、菅家さんが来るのを待ったのですが、菅家さんは西巻さんに気づくと、思わず駆け寄って、無言で抱き合っていました。西巻さんが私を弁護団に引き入れてくれたのですが、西巻さんがいなければきょうという日はなかったというのは、本当にそう思います。
 彼女は家庭の主婦で、こうした救援活動とは無縁でしたが、澄んだ目で公判を見て、一番早く「おかしい」と感じた人なんです。最初に菅家さんが弁護士に「私はやっていません」という手紙を書いたのも、西巻さんに励まされたからだそうです。
――再審に向けた弁護団のこれからの動きは?
 (佐藤)再審請求手続きはまだ続きます。検察側も、再審の開始については「しかるべく」と、裁判所の判断に委ねるということなので、もう裁判所が再審開始決定を書くことは可能です。私たちも、一刻も早く決定を、と言いたいところなのですが、一方で、なぜこういった誤った自白がなされ、かつそれを関係者がウソと見抜けなかったのか、ということを解明して初めて再審開始決定が意味を持ってくると思うのです。つまり、足利事件の悲劇を二度と繰り返さないためにもなおたたかいを続けるということです。
 野球に例えれば、コールドゲームで「もう終わりにしてくれ」と検察は言っているようにも見えますが、そんな中途半端なたたかいではなく、9回まで徹底的にたたかって、100対ゼロで勝つ、やり切らないと終わらないと思います。
 足利事件のこの展開は、当時のDNA鑑定が使われたすべての事件を見直すべきであるという重要な問題を含んでいるわけですよ。検察が、足利事件だけに非を認めて、それで(その他の事件の検証も)終わらせようとしているのであれば、それは絶対に許せません。
――菅家さん、あなたの事件を、もし仮に「裁判員」が裁いていたらどうなっていたでしょう。
 (菅家)もし自分が裁判員に選ばれたら、公正に裁いていきたいですね。【了】
 【足利事件とは】 1990年5月12日、栃木県足利市で4歳の女児が行方不明になり、翌日、同市内の河川敷で他殺体で発見された。
 ○DNA鑑定決め手に菅家さん逮捕 近くの川底からは女児の下着も見つかり、警察庁科学警察研究所は下着から検出されたDNA型と菅家さんの型が一致したと鑑定。栃木県警の取り調べで、この結果を示された菅家さんは女児殺害を自供し、91年12月2日、逮捕された。
 ○他の2件の幼女殺害も自供 菅家さんは、その後別の2件の幼女殺害も自供したが、こちらは不起訴(嫌疑不十分)になった。
 ○供述二転三転したが「無期」確定 92年2月、宇都宮地裁の初公判で、菅家さんは起訴事実を認めたが、12月の公判で否認に転じた。その後再び犯行を認めたが、93年6月に再度否認。同年7月、宇都宮地裁は無期懲役の判決。高裁もこれを支持し、2000年7月に最高裁が上告を棄却して、菅家さんの無期懲役が確定した。
 ○再審請求棄却で即時抗告中 2002年12月、菅家さんは宇都宮地裁に再審を請求した。08年2月に棄却されたが、即時抗告審の東京高裁は、同年12月、DNAの再鑑定を行う決定。これを受けて09年5月、女児のシャツの検体と菅家さんのDNA型が一致しないとする再鑑定結果が東京高裁に提出された。検察は、菅家さんの無実を確定的にするこの鑑定結果を容認し、6月4日、再審請求中の刑の執行停止、釈放という異例の手続きに踏み切った。

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