典礼聖歌

2007-10-02 | 日録

 長江恵氏は典礼憲章を引用しながら、次のように言う。

 典礼聖歌の唱和は祭儀を美しく感動的なものにするための飾りではなく、典礼行為そのものですから、「聖なるものがより明白に表現されるよう、またキリストを信じる民が(中略)・・・それにふさわしい旋律で歌おうと試みた勇気と熱意が、グレゴリオ聖歌というすぐれた教会音楽を産み出したのです。

 

 典礼聖歌は、主に詩編にメロディをつけたものだ。

 2000年10月30日、カトリック中央協議会は、従来のものに替えて日本聖公会と共通の「主の祈り」のメロディ(伴奏用)を発行した。高田三郎さんの作曲だった。初めてこの曲を弾いたとき、私は不思議な感動を覚えた。素朴になったな、そういう印象だった。無駄なものを削ぎ落とした澄んだ境地、そんな風情が窺えた。それから、直ぐのことだった。高田三郎さんの訃報に接したのは。いまでも時に、「主の祈り」を弾くと、その不思議に出会うような感慨に包まれることがある。

 長年、人の耳に晒され(耐え)愛唱されてきた典礼聖歌。教会の宝である。 

http://tenreiseika.romaaeterna.jp/antiphon/ten028.html

28 エルサレムよ, おまえを忘れるよりは
典礼聖歌 28番 (詞:典礼聖歌編集部 / 曲:高田三郎)
詩編137: 1+2 3+4 答5+6 エルサレム 信仰共同体 愛と誠実
四旬節 待降節 四旬4B 共同回心式

バビロンの流れのほとりに座(すわ)り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴(たてごと)は、ほとりの柳(やなぎ)の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚(ほしゅう)にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲(あざけ)る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

どうして歌うことができようか
主のための歌を、異郷(いきょう)の地で。

エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌(した)は上顎(うわあご)にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら。
(詩編 137:1-6) 


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