トラオ 徳田虎雄 不随の病院王 著者:青木理/ 出版社:小学館/ 価格:¥670/ 発売時期: 2013年11月
BOOK asahi.com [掲載]2013年12月27日 [評者]最相葉月(ノンフィクションライター)
*「医療」と「政治」両輪に猪突猛進
「稀代の病院王」と称される徳田虎雄率いる医療法人徳洲会グループが、東京地検特捜部の強制捜査を受けた。ついに、である。今回、公職選挙法違反に問われているのは2012年12月の衆議院議員選挙だが、徳洲会に関しては選挙にまつわる不穏な話が過去にたびたび取り沙汰されていたからだ。
古くは、初の国政選挙となった1983年以降、徳洲会の本拠地徳之島において繰り広げられた「保徳戦争」である。徳田と田中(角栄)派の保岡興治が一騎打ちした衆院選で買収や供応が横行し、両派の殴り合いにまで発展して機動隊が出動する騒ぎとなった。それぞれの系列が争った91年の伊佐町町長選では、徳田陣営が「替え玉投票」に加担し、選挙管理委員長らが逮捕されている。
離島や過疎地での地域医療や災害医療救援隊など、優れた医療活動を展開する徳洲会の、一方に漂うこのキナ臭さはなんなのか。青木理の『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』は、徳洲会を日本一の民間病院グループに築き上げた創設者、徳田虎雄の半生をたどりながら、徳洲会に関するさまざまな疑問を読み解くための貴重な材料を与えてくれる。
徳田虎雄は、38年2月、鹿児島県大島郡に属する奄美群島・徳之島に生まれた。米軍の占領下にあり、内地に渡るにはパスポートが必要だった頃である。水道もガスもない貧しい暮らしの中、父親はサトウキビの内地との密貿易で一家を支えていた。
八人きょうだいの長男。昼間は畑仕事を手伝い、夜はカンテラをつけて木箱を机代わりに勉強していたことから「カンテラ・トラオ」と呼ばれた。
医師を目指すきっかけとなったのは、幼い弟の死である。内地にいれば受けられるはずの医療を受けられずに命を落とした悲しみと悔しさが徳田を奮い立たせた。島を飛び出すと学年を一つ落として大阪の府立高校に入学し、さらに2年浪人して大阪大学医学部に合格。一秒も無駄にしたくないため「早飯」「早ぐそ」を心がけ、居眠りしないよう「貧乏ゆすり」しながら勉強したという。
医師となって8年目の34歳のとき、自分にかけた生命保険を担保に融資を受け、病床数80の中規模病院を建設する。近くを通る電車の窓からより大きく見えるように設計するという念の入れようだった。
その2年後の75年に、徳洲会を設立。「生命だけは平等だ」「年中無休・24時間オープン」「急患は断らない」「患者様からの贈り物は受け取らない」などをうたい文句として病院を次々と展開し、日本医師会に対抗する「医療界の風雲児」としてマスメディアの注目を集めた。
旧奄美群島選挙区から出馬したのは、83年。自民党と日本医師会に阻まれた壁を突き破り、自分の理想とする医療革命を実現するには政治力が必要と考えたためである。政治活動と病院経営は、徳田を突き動かす車の両輪となっていった。
ただし、猪突猛進と評される徳田の性格そのままに、選挙を勝つためには手段を選ばなかった。運動員にはひと家族の票をまとめれば5~10万円を与え、寝たきりや痴呆(ちほう)の老人も投票所に連れて行く。健康保険の3割負担を「困っている人には免除する」という露骨なサービスは、票集めのためと非難された。選挙違反があっても警察と交渉して手打ちを行う。選挙賭博で後援会長が逮捕されても次の選挙で再任された。
著者は、しかし、この「薄汚き『保徳戦争』」も「選管ぐるみの不正選挙」も高見に立って断罪することはない。かつては琉球王国の支配と薩摩藩の侵攻にあえぎ、戦後は米軍統治や内地との格差に苦しんできた徳之島の「被支配の歴史と貧困が育んだ反骨心」や「南国の島のおおらかさと、その内側で時に熱くたぎる血」を背景に育まれた善とも悪とも判別しがたい徳洲会のキワモノ性をむしろおもしろがっているようだ。選挙を「四年に一度のオリンピック」とか「第四次産業」と呼び、選挙違反を重大な問題と考えない島の風土も、目的が正しければ手段も正しいと考える徳田の特異なキャラクターを際立たせるための舞台装置のように思える。功罪相半ばする対象に、つかず離れずの距離感を保ちながら迫る著者の絶妙な筆運びゆえだろう。
94年に徳田が設立した「自由連合」の創設メンバーの一人である栗本慎一郎の徳田評がとりわけ痛快だ。
「(政治資金の問題などは)明らかに汚いし、僕としてはマズいんじゃないかと思うことはいくつもありましたけど、誤解を恐れずに言えば、根が純粋なんです。(中略)もし泥棒だとしたら、純粋な泥棒。あるいは、『汚くないウンコ』みたいな感じがした」
全国66の大病院と280余の施設、2000人の医師と2万5000人の職員。日本一の規模に拡大した徳洲会のパワーを借りようと、政界の実力者たちもすり寄ってきた。もっとも記憶に新しいのは、民主党の鳩山由紀夫首相(当時)が米軍の普天間飛行場を徳之島に移転させるという案を発表した時のことだろう。いまや徳田王国となった徳之島を動かすには徳田の協力が欠かせない。だが、鳩山の根回しのまずさが災いして徳田の協力は得られず、計画は頓挫した。
他にも、小沢一郎や石原慎太郎、亀井静香といった著名政治家の名が次々と登場するが、書かれたのがこのたびの事件発覚前だったこともあって、残念ながらその内実は深掘りしていない。事件が明るみに出た今となっては、時の総理大臣を退陣に追い込んだ立花隆の『田中角栄研究』のときのように取材チームを結成して金の流れを追う、緻密(ちみつ)な調査報道を期待したいところだ。
徳田は今、全身の筋力を徐々に失っていくALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病と闘っている。05年には気管切開して人工呼吸器を装着し、声を失った。著者の質問に対しても、ひらがなや数字が記されたプラスチックの文字盤を眼で追う方法で回答している。病室には巨大なテレビモニターが置かれ、北海道から沖縄まで各病院の朝会をチェックする。病院職員挙げての組織的な選挙運動も、この部屋から指示が出されていたようだ。
著者が最後に訪れた時、徳田はいつものように文字盤を通してこう語ったという。
「ひとの ために つくさずに なにが じんせいか せかいじゅうに びよういんを つくる それに じんせいは いつまでも すりるが なくちや」
今回の事件ではファミリーが次々と逮捕され、息子の徳田毅議員も、連座制対象者の有罪が確定すれば当選無効となる可能性が高い。徳田本人は病状から、現時点では起訴も不起訴もしない「中止処分」となったが、まさに今、人生最大の「すりる」が訪れているわけだ。次女のスターン美千代容疑者が、東京地裁で行われた勾留理由開示の手続きで全面的に容疑を認めて語ったように、「違法な選挙がなぜ行われたか考えなければ、私たち徳田毅の家族は決して救われない」だろう。都知事の辞任だけで幕引きとならぬことを願うばかりである。
文庫化および電子書籍化にあたって加筆された終章によれば、系列病院の院長らは徳田に理事長からの退任と経営の透明化を求め、組織ぐるみの選挙活動は今後一切行わないことを宣言したという。徳田を突き動かしてきた両輪のうち「政治活動」は失敗した。あとは「病院経営」というもう一つの車輪が自浄作用を発揮できるのかどうか。変化の行く末を見守りたい。
東日本大震災発生直後、私は、医師がいなくなった気仙沼の本吉病院にコンテナを運び込んで救急医療を行う徳洲会の医師や看護師たちを目撃した。彼らの活動は確かに善だったと信じている。
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◇ [徳洲会事件] 猪瀬知事、なんで徳田議員に会ったのか…石原慎太郎氏 / 猪瀬氏の厳しい?懐事情 2013-12-04 | 政治
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