エントリ<藤原清孝との小径 林住期「今、私にはひとりの友もいない。独りである」http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/e0de91a0ba21969bd12dbb170d93f55e に、数名の方からメールを戴きました。「ゆうこさんは・・・・・一人ぼっちではないです。」「ひとりの友もいない・・・・・とは何事か(`・ω・´) 」といったお優しいメールでした。そして気付かされましたのは、「小生は貴女のメールアドレスを入手しているからこうして文句を発せられるが、多分多くの読者は、貴女がコメントを受け付けないようにしておられるのだから、文句の一つも言えません」とのご指摘でした。続けて「小生宛の返信はケッコーですから、ブログ上で然るべく釈明をなさるように」と、ありました。
メールを戴いたのはエントリを挙げて直ぐでしたが、私は至って遅筆で、しかも、思っていることを適切に書くのが下手です。最初にメールを下さったh-kさんへの返信から以下に引用させてください。前文略です。
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私は幼い頃から群れることが嫌いで、孤独というものを考えないではいられない質の人間でした。その傾向を深めさせたのは、たとえば漱石であったり福永武彦であったりするのですが、仏陀の「自分を法として犀の角のように独り歩め」という言葉は、これから老いに向かう私に一つの覚悟を促すもののように思います。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/hon21-syaka.htm
“ 世尊は命尽き果てる場所と時を、この旅にゆだねきっていられたのだ。
昔、世尊は弟子に向かって口癖のようにおっしゃったではないか。「一つの道を二人して行くな」「犀の角のようにただ独り歩め」と。世尊御自身が群れを成すのを嫌悪していられた。弟子がともすれば徒党を組むのを厳しく戒められた。
アーナンダよ、わかったか、私の最後の旅は、どこの涯にか、野垂れ死の死場所を需め、そこにたどりつくだけが目的の旅だったということが ”
そんな私ですが、h-kさんからのメールに心が躍りました。
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私信ですので、後半も略させて戴きます。h-kさんにも申し上げましたように、拙い、真に拙い不用意なエントリに、皆さまから温かいお心を戴きまして、「心が躍」ったのです。
ところで、私には「孤独」は「守らねばならないもの」という感覚があります。うまく言えないのですが・・。。 「幾山川こえさり行かば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」とは若山牧水の歌ですが、寂しさをもてあましながらも、孤独は「守らねばならない砦(=染まずただよふ)」と観ずるところが私にあるように思うのです。
コメントですが、HPとの関連等幾つかの理由によりまして、只今受け付けておりません。正直なところ、コメントに対応しない措置を講じますことで、おいでくださる方(アクセス数)の減少を危惧しましたが何ら変化なく、安堵する反面、申し訳なさが募っています。本当に申し訳ございません。ご容赦ください。来栖宥子拝