新党騒動 「文藝春秋」が失った健全なるジャーナリズム

2010-04-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
「たちあがれ日本」を持て囃す「文藝春秋」が失った健全なるジャーナリズム 新党騒動で永田町が喧しい。
上杉隆 DIAMOND online 2010年4月15日
 「たちあがれ日本」の結党に続いて、舛添要一自民党参議院議員も、橋下徹大阪府知事、東国原英夫宮崎県知事らと連携する形での新党結成を模索しているという。山田宏杉並区長、中田宏元横浜市長の二人も、国政をにらんだ首長連合を作ろうとしている。
 そんなニュースが流れるが、世論は一向に盛り上がらない。それもそのはず、本コラムでも再三指摘しているように、野党から新党を目指す行為は、それが純粋な政治行動ではなく、単に自身の延命のための脱党行為にしか映らないからだ。
 さらに有権者の感じるそうした胡散臭さにメディアが鈍感であることも、新党結成を目指す政治家たちの勘違いを助長させている要素であることも指摘せざるをえない。
 報じる側の政治記者たちの多くは、55年体制の癖が染み付いたままである。自民党が下野しているにもかかわらず、その意味を忘れてしまい、政治的にインパクトの薄い野党の政治家の動きをさも重大であるかのように扱ってしまっている。
 これも繰り返してきたことだが、与党には求心力、野党には遠心力が働くものだ。だから、現在の自民党の分裂騒動はあらかじめ予見できたものだし、大騒ぎするほどのものでもないのだ。
 にもかかわらず、新聞・テレビは相変わらずだし、さらには在野精神を是としてきたはずの雑誌の中にも、そうした政治運動から距離を置くどころか、自ら進んで巻き込まれてしまっているものまで出現している。
一方の政治的意見ばかり扱うようになった文春の変質
 「文藝春秋」は、時の権力と対峙するという点において筆頭格のメディアであった。そこでは、さまざまな価値観を認め、自由な言論の場を提供しようという健全な精神に溢れていた。権力を脅かす役割を担う一方で、その権力側にも反論権も用意し、ひとつの雑誌の中で論争の舞台を作り上げるという懐の深い自由闊達さが「文藝春秋」の特徴であったはずだ。少なくとも執筆者のひとりであった筆者はそう感じていた。
 だが、最近の「文藝春秋」はそうした部分で変質したと指摘せざるを得ない。
 一方の政治的な意見ばかりを扱い、世の中に反対意見のあることを事実上無視してしまっているような形での編集パターンが少なくない。
 かつては違った。筆者が田中真紀子氏の批判キャンペーンやNHK海老沢体制への批判的な論を寄せたとしても、一方では田中氏を擁護し、NHKの立場に応える論文をきちんと同じくらいの扱いで載せるような度量があったものだ。
 それによって「文藝春秋」の読者は、この世の中には、さまざまな価値観と見方のあることを知り、議論そのものを楽しむことができたのである。
 また、そうした余裕があったからこそ「文藝春秋」自身も、日本の言論界のオピニオンリーダーとしての役割を担うという自負もあったのだろう。
 だが、いまや政治に限っては、そうした役割を果たそうとする余裕は消えてしまったようだ。
自己批判もない与謝野氏らの勝手な使命感
 今月号の『「たちあがれ日本」結党宣言』(与謝野馨/園田博之)こそ、まさしくその典型だ。引用する必要もないので、小見出しだけを列挙してみよう。
〈自民党に蔓延していたしがらみと馴れ合い〉
〈あまりにも露骨な小沢翼賛体制〉
〈民主党に複雑な方程式は解けない〉
〈新党結成は我々の最後のご奉公である〉
 なるほど、これだけを読んでいると違和感はない。それに、新しい政治を構築しようとする者が自らの政治主張を「文藝春秋」に載せるのはよくあることだ。細川護煕元首相の日本新党結党直前の論文などがその好例だろう。
 だが、今回は違う。新党に参画した政治家に新鮮さがないというだけではなく、古い自民党政治の中にどっぷりと浸かり特権を享受してきた者たちばかりだという点で、まったく共感できないのだ。 本当に、日本のためを思って「たちあがる」のならば、なぜ与謝野氏は自民党時代に立ち上がらなかったのか。総選挙が終わって下野し党内が苦しい状況にある中、なぜ脱党するように逃げだしたのか。自民党政治のどこが悪いから新党を作ったのか。
 彼らは、そうした説明を省き、自己批判もなく、勝手な使命感を伴って「文藝春秋」に登場しているのだが、なぜか「文藝春秋」もそれを許し、重宝し続けている。
いつから「諸君!」のような編集方針になってしまったのか
 かつてならば、こうした政治宣言の後にも平気で与謝野氏らの主張に相反する論文を載せるのが「文藝春秋」のお家芸であったし、懐の深さでもあった。それは自由な言論を守ろうという健全性の顕れでもあったように思う。
 だがいまやそうした余裕はない。いつから「文藝春秋」は、意図的にひとつの政治勢力に加担する、「諸君!」のような編集方針になってしまったのだろうか。もちろん「諸君!」ならばそれでよかった。そもそも「諸君!」は左翼伸張の70年代、保守のための意見発表の場を提供するという目的で発刊されたものであった。
 一方で「文藝春秋」は違う。在野精神を是とし、森羅万象さまざまな事柄を、遠慮なく掲載することで、論争の場を作ろうという菊池寛の精神を体現するものとしてスタートした雑誌ではなかったか。
 最近の「文藝春秋」はまるでその精神を忘れてしまったかのように政治的だ。
 結果、自己延命をもくろんでいるに過ぎない野党政治家たちの策略にまんまと乗っかってしまっている。
 野党から新党が成ったとしても所詮それは野党に過ぎない。野党には強い遠心力が働くものなのだ。それはメディアが忌み嫌う小沢一郎が、新進党という壮大な実験を失敗させることで実証されている。
 政治も、雑誌も、恃(たの)まれていない使命感ほど厄介なものはないのである。

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