犯罪とゆるし 「報復」という言葉が支配的な時代に アーミッシュ 光市事件・・・

2009-07-08 | 死刑/重刑/生命犯

「犯罪とゆるし」朝日新聞オピニオン2009/07/08Wed.
 自動車や電気を拒み、非暴力を貫く米国のキリスト教の一派、アーミッシュ。06年秋、彼らの学校を男が襲い、女児5人を射殺した。惨劇の直後、彼らは自殺した犯人の家族を訪ね、「ゆるし」を伝える。不寛容が襲う世界を驚かせた行動は何を教えるのか。ノン・フィクション作家、柳田邦男さんと、米国の研究者、ドナルド・クレイビルさんが語り合った。

 柳田 凶悪な犯罪でも即座にゆるす。我々の文化では考えられないが、それがアーミッシュの最も本質的な部分と知って、大変驚きました。「報復」という言葉が支配的な時代に、宗教的な「ゆるし」の信念がしっかり根づいているアーミッシュの存在は、刺激的です。
 クレービル 米国の心理学的研究によると、ゆるし(フォーギブネス)には二つの段階があります。まず、被害者が苦しみや憤りをできるだけ自分から語ることによって、痛みを心の中から追い出してしまう。次いで、報復行為を総てあきらめるのです。いずれもとても苦しい仕事ですが、被害者にとって利益につながると最近わかってきました。幸せな気持になれ、血圧まで下がるという。
 重要なのは、「ゆるし」は、罪を犯した者を捕まえて償わせる司法とはまったく違うということです。アーミッシュは厳格に区別します。学校銃撃事件の犯人は自殺しましたが、「もし生きていたら」と彼らに聞くと「刑務所に行くべきです。でないと、またほかの子どもが撃たれる可能性がある」とみんな言いました。「私たちは犯人をゆるすが、それでも彼は司法により裁かれて刑務所に入るべきだ」というアーミッシュの区別はとても重要です。「ゆるし」と司法的な観点を混乱させている人が多いが、「ゆるし」は赦免ではない。
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 柳田 ゆるすことによって自分の心が癒され、解放される。アーミッシュの人たちは、もしゆるさなかったらいつまでも悲しみを引きずり、あるいは健康を損なうほど悲しみをためて、恨みが続いていくと考えているのでしょうか。
 クレイビル もしゆるさなければ、自分たちが神様にゆるしてもらえない、という宗教的な理由があります。永遠の救いは「ゆるし」に関係しているという、とても強い動機づけがあるんです。
 柳田 銃撃事件の際、米紙の論説委員が、自分の子どもが殺されても、犯人をゆるして平気でいられる社会に我々は住めるのか、という論説を書きました。
 クレイビル 覚えています。
 柳田 日本の社会でもまったく同じです。山口県光市で99年に起きた母子殺害事件では、第1審、第2審は、犯行時18歳だった被告を無期懲役にしました。被害者の夫は、死刑でないのはおかしいと裁判所や社会に訴え続け、世論やメディアもそれを後押しした。最高裁は審理を高裁に差し戻し、昨年、差し戻し控訴審で死刑判決が出ました。裁判所は正義を貫いたと夫は納得し、メディアも当然の判決と歓迎した。
 この事件は、凶悪犯に対して一般の日本人がどういう感情を持つかを象徴的に示しました。でも、悲惨な生い立ちが被告の人格形成をゆがめたことを考えれば、被告が人生をやり直せるような道を開くべきではなかったかという観点からの意見も、少数ですが、あるんです。
 柳田 日本では小中学校いじめを受けた子が、卒業後に出身校へ押し入り、子どもや職員を殺傷する報復事件が少なからずあります。国際社会における報復と同じようなものです。そういう凶悪犯をただ責めるだけでは本質的な解決にならない。生きづらい競争主義、優勝劣敗の社会や価値観そのものを変えないと、こういう事件を根本的に防ぐことはできないのではないか。そういう意味では、アーミッシュから学ぶべきことは大変多いと思います。
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 クレイビル アーミッシュは、宗教は復讐ではなく、「ゆるし」であり、心の平安なのだということを示している。では、そうした価値観をどのように子どもに教えていくのか。アーミッシュに「なぜゆるすのですか」と聞くと、「我々の社会の中でそう決まっているのです」と答えます。独特の服装や言語、文明の利器を選択的に使う生活習慣という強いシンボルに特徴づけられた社会の中で子どもたちは育ち、教師や親たちから社会的な価値を教えられていくのです。
 柳田 子どもの頃から宗教的倫理や生活習慣を養っていく意味は、現在の日本社会でもとても大事だと思います。それは、仏教とかキリスト教とか特定の宗教の中で育つということではなくて、もっと日常の心の習慣を養うことにかかわることです。「ゆるし」は、それを生む基盤となる社会なり文化が問われる。しかし、現代は非常に合理主義的で、規則やマニュアルに支配されていて、「ゆるし」が生まれたり、被害者と加害者が折り合いをつけたりすることが難しい時代ではないか。「ゆるし」の問題を考えることは、我々が生きている社会の文化を考えることでもあるかもしれません。

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4 コメント

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Unknown (rice_shower)
2009-07-09 08:56:35
http://www.youtube.com/user/manon2011
アーミッシュ、キリスト教右派(福音派)の実態などを撮った、アメリカの(日本未公開)ドキュメンタリー(『Devil's Playground』『Jesus Camp』)も観られる、私が今一番注目している東京ローカルのTV番組です。(ご存知かも、ですが) 
因みに司会の町山さんはアメリカ在住の元(?)在日コリアン。

春霞さんの所でもコメントしましたが、私が脳死について「(脳死状態に陥った場合)死は、ある瞬間ではなく、脳死から心臓死に至る、一定の時間を有する(時には何年にも及ぶ)プロセスである。 家族に残酷な選択を強いぬためにも、どこで生と訣別するかは、生前に自分で決めておく。 私自身、科学的に脳死は相当怪しいと思ってはいるが、ドナーカードには全ての臓器提供と記載している」という考えに至ったのは、柳田邦男さんの『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』を読んだことが切っ掛けになっています。
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Unknown (hiroko)
2009-07-09 21:50:26
ずっと昔、どこかでコメントさせていただいた者です。

「死刑」と「被害者遺族感情」を関連させて語られることは世に多いような印象があります。しかし、「加害者に課せられる刑罰の重さ」と「被害者遺族のグリーフワーク」は本当に関連しているのだろうか、と常々思っています。

加害者が死刑判決を受けた事件の被害者遺族のグリーフワークの達成の程度は、加害者が死刑判決を受けなかった事件の遺族と比べて、明らかに高くなるか・否か、という研究・調査があったら、とても興味深いものだと思います。


被害者への支援を「国」として行っていくことはとても大切なのはもちろんですが、その支援の最終目標は、「応報感情」を爆発させることではなく、「心身の癒し」であるべきでしょう。

「被害者遺族の訴え」に耳を傾けるのは重要には違いありませんが、ただ単にその要求をのむことがグリーフワークの達成に直結するわけではないでしょうに、そのあたりの混同が世間では著しいように思います。

被害者のグリーフワークにおける「ゆるし」の効果が語られている点、この記事はとても興味深いものでした。

ただし、多くの人にとって「ゆるし」はアーミッシュの方々が成し遂げたように、簡単ではないものです。

私にも、どうしても「ゆるし」に至らない相手がいますが、ゆるせたらどんなに楽だろう、と思いながらも、もう何年も、怒り・憎しみが心を支配し、辛かったりするのです(笑)

「ゆるし」に至らなくても、哀しみが癒されるには、さて、どうあれば良いのでしょう、とも思うものです。
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Re:rice_showerさん (ゆうこ)
2009-07-10 17:51:00
コメント、有難うございました。
 脳死については、HPのほうへファイルを作ろうとしているところです。私自身「全ての臓器提供」を記載していますが、事は、そう簡単ではないと思っています。
 昔、柳田さんの『犠牲(サクリファイス)』を読みました。感動したものですから、清孝にも差し入れして読ませたものです。読書好きで、しっかり読み、感想をあれこれ言った後、「そやけど『犠牲』って言葉、嫌いや」と。なんとなくわかるような気がしました(笑)。
 あえて「追伸」として
 脳死を、とりわけ小児の長期脳死を死と認めるのはどうなのか。「みとり」の医療は、どうなのか。「臓器ツーリズム」「自給自足」、これら、言葉のニュアンス・・・。死刑制度を有するこの国で、A案は、ちょっと怖いような・・・
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Re:hirokoさん (ゆうこ)
2009-07-10 18:06:49
コメント、有難うございました。
>「被害者遺族の訴え」に耳を傾けるのは重要には違いありませんが、ただ単にその要求をのむことがグリーフワークの達成に直結するわけではないでしょうに、そのあたりの混同が世間では著しいように思います。
 まったく同感です。
>ただし、多くの人にとって「ゆるし」はアーミッシュの方々が成し遂げたように、簡単ではないものです。
 永遠のベストセラーですし、聖書は読んでいらっしゃるでしょうが、柳田さんでさえ
>もしゆるさなかったらいつまでも悲しみを引きずり、あるいは健康を損なうほど悲しみをためて、恨みが続いていくと考えているのでしょうか。
 と問います。それに対しクレイビルさんは、
>もしゆるさなければ、自分たちが神様にゆるしてもらえない、という宗教的な理由があります
 と、説明しています。クリスチャンは、日々、主祷文を祈ります。主イエスが教えてくださった祈りです。(マタイ6,9~13  ルカ11,2~4)

“天にまします我らの父よ
願わくは
み名の尊まれんことを
み国の来たらんことを
み旨の天に行わるる如く地にも行われんことを
我らの日用の糧を今日我らに与え給え
我らが人に許す如く我らの罪を許し給え
我らを試みにひきたまわざれ
我らを惡より救い給え
アーメン”

 キリスト者は「我らが人に許す如く」或いは「わたしたちも人をゆるしますから」「我らの罪を許し給え」と祈るのです。人をゆるさねば、「私」もゆるされない。それが、キリスト教の「倫理」です。
>アーミッシュに「なぜゆるすのですか」と聞くと、「我々の社会の中でそう決まっているのです」と答えます。
 アーミッシュの方々にとっても、ゆるすことは、決して簡単に成し遂げられることではないでしょう。しかし、主イエスは「許しなさい」とおっしゃるのですから、ゆるす、ゆるそうと目指すしかないのです。そう決まっているのです。クレイビルさんの「もしゆるさなければ、自分たちが神様にゆるしてもらえない」という発言はクリスチャンには日常的で単純すぎる説明ですが、聖書の精神風土に身を置かない人には、理解は難しいかもしれません。
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