麻原彰晃死刑執行2018/7/6 「極秘テープ」に残されたオウム真理教の真実【前編】

2018-07-06 | オウム真理教事件

麻原彰晃死刑執行 「極秘テープ」に残されたオウム真理教の真実【前編】
NHKスペシャル未解決事件取材班 
source : 文春ムック 昭和・平成「怪事件の真相」47
genre : ニュース, 社会

 7月6日、オウム真理教の教祖・麻原彰晃(本名・松本智津夫)の死刑が執行された。NHKスペシャル「未解決事件File.02 オウム真理教」取材班が入手した700本を超す教団の極秘テープ。そこには、麻原の素顔と、麻原の“教え”によって極秘裏に武装化計画を進めるオウム真理教の真実が記録されていた。(初出:「文藝春秋」2012年8月号)

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■若いスタッフは「麻原って魅力ありますよ」
 取材を進める中で、今回NHKは、独自に700本を超す教団の極秘テープを入手することができた。その入手先については詳細を述べることはできないが、元々は教団のある幹部が、“教祖”の言葉を個人的に収集するために録音していたものだ。1995年の地下鉄サリン事件のあと、教団幹部が次々に逮捕される中、テープは元幹部の関係者の家に預けられ、さらに十数年の時を経て第三者の手に移っていた。その第三者も「これを持っていることで変なトラブルに巻き込まれたくない」と、たまたま取材に訪れた取材班のディレクターに「NHKで預かって欲しい」と託したのだった。
 テープは主に以下のような内容に分けられる。
 (1)麻原の説法(一般信者向け)
 (2)麻原の説法(出家信者向け)
 (3)麻原と側近の会話
 (4)麻原の完全オフレコ発言

(1)と(2)は、多数の信者に対する説法であり、麻原がどのように信者たちを引き付けていったかが明らかになる。様々な宗教からの文言を引用し時事ネタを随所に取り入れた説法はむしろある種の説得力さえ感じられた。このテープを連日のように聞いて文字におこしていた20代の若いスタッフたち。オウムの事件を詳しく知らなかった彼らが「麻原って本当に悪い人なんですか?」「麻原って魅力ありますよ」と口を揃えたほどだ。
 一方で、テープは“教祖”という神格化された存在とは程遠い滑稽な姿も映し出した。
 例えば麻原は説法で、繰り返し信者たちに「性欲」を抑えることを求めていた。オウムでは、出家の際に婚姻関係や恋愛関係にある男女は、それを解消するよう求められたし、教団内でも恋愛や男女間の行為は「破戒」と呼んでご法度だった。テープには89年、麻原が、「破戒」した幹部の降格を宣言する様子が記録されていた。
【幹部G、それから女性信者Fは、それぞれ19歳、21歳というかなり若い年齢だから、まぁ普通でいったら当然であると。しかし、やはり成就者としては、成就者らしき対応をしてほしいわけだ。どういうことかというと、実際にセックスまではいっていないと。しかしまぁそれに近い行為を行っていたと。彼らを信徒に格下げするのか、あるいは破門するのか】(以下、【 】内はテープより)
sika性欲の塊だった麻原
 教団内の風紀の乱れを厳しく指弾する麻原。それでも、「破戒」は続いた。麻原は、「破戒」した信者をさらし者にすることを宣言する。
【大師がね、性的な戒を破った場合、いいですか。大師のタイトルではなく、「戯忘天人」ね、戯れ忘れる天人ですね、というタイトルに変わります。例えば、例をあげるならば、ね、麻原彰晃戯忘天人というタイトルになると。それ略して、天人と。だから、ね、大師がここに名札をつけていて、天人という名前がついてるとしたならば、あ、この人は性欲の戒を破ったんだと】
 ところが、その裏側で、麻原は自らが気に入った少なくとも2人の女性信者と「破戒」していたのだ。麻原は“ダーキニー”と陰で呼んだ愛人たちに、あわせて5人の隠し子を産ませ、愛人の妹と別の女性信者に世話をさせていた。その元信者はNHKの取材に対し「警察の強制捜査の情報が入るたびに、旧上九一色村のオウムの施設から、静岡県内や都内に隠し子を避難させていた」と証言。さらに地下鉄サリン事件の後、10代の女性信者の妊娠が判明したことも明かした。“性欲の塊”なのは、他ならぬ麻原自身だったのである。
■衆院選で全員落選、麻原がもらした不満
 ただ、700本のテープの中でも、(3)や(4)に分類されるテープとなると、かなり様相が変わってくる。麻原が社会の破壊をいつから、どのようにして企図したのか、その謎を解明する上で重要な発言ややりとりが含まれているからだ。
 取材班がまず注目したのは1990年の衆院選翌日のテープ。この選挙でオウムは麻原以下25名が「真理党」を名乗って立候補したが、全員落選した。麻原が選挙結果について激しく不満を抱き、社会への敵対を宣言する様子がテープに刻まれている。
【今回の選挙の結果ははっきり言って惨敗。何が惨敗なのかというと、それは社会に負けたと。もっと別の言い方をするのならば国家という物に負けたということに尽きると思います。(略)私は初めは狐につままれたような状態で結果の推移を見ました。そして、それが決定されたあと、私の長女や三女は「お父さんトリックがあったんじゃないの?」と、つまり「選挙管理委員会を含めた大がかりなトリックがあったんじゃないの?」と言った訳です。で君たちも知っているとおり、真理教の基礎票というのは1万数千票(※信者数を指す)はあったはず。ところがこの1万数千票が票になって出てこなかったと。そしてわずか千数百票と。(略)だから考えられることは選管がらみの大きなトリックがあったかもしれないと今考えている。つまり国家に負けたと】
【オウムは反社会・反国家である。なぜならば、今はロッキードでも分かるとおり、リクルートでも分かるとおり、あるいはパチンコ疑惑でも分かるとおり、そういう人たちが社会を牛耳っている世の中である。そして、大企業の主たちも同じように、自己の利益のために働き、そして自己の私腹を肥やし、餓鬼の世界・地獄の世界へと落ちていく。この社会の中にあって、美しく咲く蓮華のように、ドブ川の中で美しく咲く蓮華のようにあり続けるためには、反社会でなければならない。よって、国家・警察・マスコミ、これ全て、これからも敵に回っていくであろう】
■オウム武装化の新事実
 テープの分析をさらに進めると、これまでの“定説”を覆すような会話も録音されていた。オウムが本格的に武装化に突き進み始めたのは90年の衆院選の後だとされてきた。ところが、麻原は衆院選よりも前にすでに社会の破壊を企図し、武装化を進めようとしていたことが分かったのだ。
 1988年11月、麻原と、教団最高幹部の上祐史浩、そして当時出家したばかりでのちに“厚生大臣”としてサリンの製造を行う遠藤誠一(死刑確定)とのやりとりである。
【麻原:もし、政治というものが一切宗教を禁止して私たちに従えと、力で、どうするか。
遠藤:我々がですか?
麻原:お前が持ってる知識を、その細菌兵器を作って、働けと。
遠藤:国に対する帰依心がないから、僕は。多分拒否しますね。
麻原:殺されるとしたらどうするか。
遠藤:いやー、明確な答えはないですね、なんか。僕の場合だったらそのまま流されてしまうかもしれません。
麻原:マイトレーヤ(上祐のホーリーネーム)どうだ。お前は工学やってるから、工学系の分野で例えばマイトレーヤを徴兵制でとって、従わせると。
上祐:その前に逃げたいですね。永住権をとって。
麻原:永住権をとってさよならというわけか。三つあるよな。一つはそういう圧力に対して戦うと、もう一つは逃げる、もう一つは従うと。遠藤どうだこの三つの中で。
遠藤:僕の場合はそうですね。逃げるという道があったら逃げるかもしれませんね(笑)。
麻原:第一は逃げるか。第二は?
遠藤:そうですね、そういう反抗というのは僕は余り好きじゃないですから、仕方がなく従うという道をとるかもしれませんね。
麻原:そうか、従うか。
遠藤:はい。日本としてはそういう風な方向になりつつあるんですか?
麻原:なる。間違いなくなる。そしたら警察が何人か来るよね。警察を壊しちゃえばいい。つまり、警察ごと壊せばいい。
遠藤:でも簡単にはできませんよね。例えば3人の警察官が死んだと、そしたらもっと多くの……。
麻原:そうじゃないよ。その3人の警察だけじゃなくてその本署ごと消しちゃえばいいんだから。
遠藤:はい?
麻原:本署ごと。
遠藤:本署ごと消しちゃう?
麻原:ポアしちゃえばいいんだよ】
 麻原は、本来は魂を高い次元へと移すことを指す宗教用語「ポア」を、殺人を正当化する言葉にすり替えて使っていた。この会話を分析すると、引き気味の幹部たちに対して、麻原は一貫して議論の方向を武装化、暴力による社会の破壊に向けようと誘導していることが分かる。
 88年1月、教団発足間もない時期のテープにも麻原の「破壊願望」が刻まれていた。当時、表向きの説法では、「核戦争を回避して世界を救済するためには、隣人への『愛』こそが必要である」と説いていた麻原。テープには、表向きの説法が終わったあと、ごく一部の側近たちと交わした内部の会話が偶然収録されていた。
幹部:今生で救済の成功って言うのは核戦争の回避なんですか。
麻原:違う。今生で救済の成功は核戦争を起こさせないことではない。変なこというぞ、資本主義と社会主義を潰して宗教的な国を作ることだ。本当の意味で。この世をもう一回清算すべきだ。
幹部:(核戦争が)起きた時点でやっぱり今のオウムのスタッフはみんな一度死にます?
麻原:ほとんど死なないと思うね。私はオウム以外は生き残れないからと考えているから】
 700本の極秘テープからは、麻原が言葉巧みにエリートたちを破壊活動や殺人へと駆り立てる様子が浮かび上がってきたのだった。
■「殺人」を正当化する言葉
 では、麻原は、どのような言葉で「殺人」という行為を正当化し、幹部たちに最後の一線を越えさせていったのか。700本の極秘テープには「ヴァジラヤーナ」という言葉を信者たちに繰り返し語る麻原の様子が記録されている。88年7月、インドから帰国した麻原は一部の幹部に向け次のような説法を行っている。
【ここで一つあなた方に秘儀の伝授をしよう。これはオウムの大変な秘密の部分に属するから、これを口外したものは、一番長いと言われている、小乗では阿喚地獄、大乗では無間地獄に至ると考えなさい。グルの言ったことは絶対である、あるいはグルのためには殺生ですらしなければならない、たとえばここで500人の衆生が殺されるんだったら、その殺す人を殺しても構わない。これがヴァジラヤーナだ】
 この説法の2カ月後、教団内で信者の死亡事件が起きる。麻原と側近たちはその信者の遺体を焼き、事件を隠蔽。さらに、事件に関わりながら教団を脱会しようとした信者を殺害した。麻原は、殺害に関わった幹部たちに、繰り返し「ヴァジラヤーナ」の教えを説いていた。
【例えばAさんを殺したという事実をだよ、人間界の人たちが見たならばね、これは単なる殺人と。客観的に見るならば、これは殺生です。しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです】
「ヴァジラヤーナ」とは、もともとはサンスクリット語で広義の「密教」を指す言葉だ。これを麻原は、救済のためなら殺人や破壊を行ってもいいとする独自の「教え」にすり替えていたのだ。
 今回、教団のナンバー2だった上祐史浩がNHKのインタビューに応じた。現在は、自らの宗教団体の代表である上祐。麻原に「ヴァジラヤーナ」の教えに基づく武装化計画に参加するよう迫られた、と語った。
「『このヴァジラヤーナの計画(殺人兵器の開発)に協力するか、在家に戻るか、どっちかにしろ』と。麻原の世界の中にいると、ポアする側かポアされる側かどっちか選択しろということなわけですよ。こういった秘密の計画を打ち明けられた以上、要するに、麻原とその集団は日本全体のポアに向かうのであって、お前がこれに協力せず、例えば教団をやめるということになれば、お前はポアされる側に回るんだと。悩んだ挙げ句、最終的には麻原に協力することにした……」
 このようにして、幹部たちを巻き込み、社会の破壊をもくろむ「ヴァジラヤーナ計画」が極秘裏に進められることになった。
 オウムは90年に、熊本県阿蘇郡波野村(当時)に教団施設を建設する計画を立て、同村の土地を取得している。上祐は次のような事実を明かした。
「波野村の90年。波野村というのは、実は集団移転のためだけに取得したのではなくて、あそこに麻原がヴァジラヤーナの教団武装化の拠点を作ろうとした。あそこで要するに軍事兵器を開発しようとしていたんです」
 当時、兵器開発に携わっていた元信者によれば、時限発火装置や風船爆弾を数千個単位で製造。上空で空き缶を爆発させ毒ガスを散布する実験も行われていたという。これまでオウムの武装化は93年頃、旧上九一色村など富士山麓で進められたとされていたが、さらに早い段階でしかも別の場所で行われていたという衝撃的な新事実だった。
 波野村の施設は、90年10月、国土利用計画法違反の疑いで熊本県警の強制捜査を受けることになる。ところがオウムは、夫が熊本県警の警察官だった女性信者から、強制捜査に入るという情報を一週間前につかんでいた。
 上祐はこの時の隠蔽工作についても次のように証言した。
「(強制捜査の情報を受け)隠した主なものは、軍事研究の痕跡ですね。国土法違反の証拠とか、そういうものはそんなに熱心に隠していないと思いますよ。そういうことには教団は全く関心がなくて、塩素ガスだとか、何とか研究とか、そういった(兵器開発の)痕跡が強制捜査で分からないようにということに集中してましたね」
 オウムのその後の暴走を防ぐことができたはずの最初の大きなチャンスを、警察が逸した瞬間だった。
「ヴァジラヤーナ計画」の舞台はその後、山梨県旧上九一色村に移る。ここで、遠藤や筑波大学で化学を専攻した土谷正実(死刑確定)らが中心となって化学兵器サリンの開発に着手する。麻原が指示したのは70トンのサリン製造。それは少なく計算しても70億人分の致死量に当たる信じ難い計画だった。

 ◎上記事は[文春オンライン]からの転載・引用です
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