「名張毒ぶどう酒事件の人々」2010/2/16~2/21中日新聞

2010-02-22 | 死刑/重刑/生命犯

名張毒ぶどう酒事件の人々
晴れぬ疑心、残る傷(1)現場 2010年2月16日
 奈良県境の山あいにある、三重県名張市葛尾地区。その一角に、のどかな集落とは不釣り合いな供養塔がある。住民は半世紀前に、この場所で起きた惨事を思い出すたびに今も心がささくれ立つ。
 1961(昭和36)年3月28日の夜。集落の宴会で、白ぶどう酒を飲んだ女性たちが次々に倒れた。「地獄絵図だった」と語り継がれた事件。舞台となった木造の公民館は現在、ゲートボール場になっているが、当時を知る人の記憶には、あの日の情景が鮮明に刻まれている。
 乾杯からわずか数分後、年に1度のうたげは修羅場と化した。
 「あかん、死んでる」。神谷武(72)は、苦しむ姉=当時(25)=を介抱している時、医師から告げられた一言が頭から離れない。
 男たちが慌てふためく中で、奥西勝(84)が座敷に横たわる妻チエ子=当時(34)=の近くでうなだれているのを見た。
 「みんなが倒れた人を助けたり電話に走ったりする中で、勝だけが座り込んでうつむいたままだった」。地元の区長として宴会に出ていた平井藤太郎(92)も、奥西を犯人だと思う理由に挙げる。
 神谷は「勝くんは率先して動く性格じゃないのに、あの日だけは積極的にぶどう酒を運んだ」と事件当日の奥西の行動を怪しむ。
 奥西を含む3人が事件直後から連日、警察の事情聴取を受けた。そのころ集落では、絶命寸前のチエ子が「夫にぶどう酒を飲むなと言われていたのに…」とつぶやいたという話が広まっていた。
 妻だけは助けようとしたのか。憶測を裏付けるように、奥西が犯行を自白。さらに記者会見で「罪の償いをしたい」と謝罪した。
 「殺していない人が、殺したなんて言うはずがない」。住民たちの確信は、山の斜面を縫うような道に沿ってできた集落で瞬く間に広がった。血縁も濃く全員が親せきのような狭い山村を覆っていた疑心は、奥西の逮捕で晴れたかにみえた。
 ところが1審の津地裁は「自白に疑問がある」と奥西を無罪にした。動揺が広がった。
 後に無罪は覆され、奥西の死刑が確定する。「やっぱり勝のほかに犯人はいない」。住民たちは、奥西が犯人と認められることでいったん落ち着きを取り戻した形になった。
 その危ういバランスは、2005年に名古屋高裁が裁判やり直しを認めたことで、再び崩れた。かさぶたを一気にめくられたような衝撃だった。
 「確たる物証がないと、だめなのか」。平井は話す。「真実は神様しかわからない。人が人を裁くなんて、かなわんわ」。そう漏らす住民も。
 神谷は「もう事件の話はしない」と言い、こう付け加えた。「でも絶対忘れてはいかん。忘れてたまるか」。集落を見渡す高台。そこに立つ供養塔に献花が絶えることはない。
      ◇
 無罪から死刑という例のない経過をたどった名張毒ぶどう酒事件。拘置所の暮らしが40年を超えた奥西の7回目の再審請求に対し、最高裁は今春にも判断を示すとみられる。発生から半世紀の節目を控えた今も、癒えぬ傷跡や消せぬ疑問を抱え、それぞれに闘う人々の軌跡を追う。  (文中敬称略)
 【名張毒ぶどう酒事件】 名張市葛尾地区の公民館で開かれた生活改善グループ「三奈(みな)の会」の宴会でぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡、12人に中毒症状が出た。三重県警は「妻、愛人との三角関係を清算しようと、ぶどう酒に農薬を入れた」と自白した奥西勝死刑囚を逮捕。公判では否認し「取り調べで怒鳴られたり肩をつかまれたりした」と主張した。1審の津地裁は1964年に無罪としたが、2審の名古屋高裁は69年に死刑を言い渡し、72年に最高裁で確定。奥西死刑囚は現在、7回目の再審請求中。名高裁刑事1部は2005年に再審開始を決めたが、同刑事2部が翌年、決定を取り消したため、奥西死刑囚側が最高裁に特別抗告した。
族思い、無念の独房(2)闘争 2010年2月17日
 宇宙船「アポロ11号」が人類初の月面着陸を果たした1969(昭和44)年、奥西勝(84)は名古屋高裁で逆転死刑判決を受けた。そのまま収監され、40年。支援者との面会で最近、独房から無実を訴え続けた半生をこう振り返ったという。長い沈黙の後、「残念。無念。悔しい。言葉にならない」と。
 「家族も大きな被害者。苦しみは私と同じ」。奥西は今年1月、支援者への手紙に書いた。無実を信じて他界した父母、疎遠になった長男、長女、その子孫たち…。捜査段階で犯行を認めた奥西は「捜査員に『苦しんでいる家族を救うために』と、うその自白をさせられた」と訴える。だが皮肉にも、その自白が有罪の大きな支えに。死刑囚の親族として生きる人々の慟哭(どうこく)が、いつも奥西の頭にある。
 母タツノは88年に亡くなるまで三重県内のアパートに独りで暮らした。月1回は内職で得た金を手に面会へ。毎週のように送った手紙には、死刑囚となった息子への励ましと苦悩がにじんでいる。
 「おとなしいのは、そんです。してない事はしたというな。しんでもしないというてけ」(72年の上告審判決で死刑が確定した直後)
 「ほしいものがあれば母がはだかになってもかってやるから手紙でおしえておくれ」(73年の第1次再審請求直前)
 「あんかを入れてねると勝は寒くないのかと心配で、勝のゆめを見るのです。びっくりしてとびだしてみると、うそ(夢)でした。ざんねんでなみだがでて目が見えませんでした。ゆめなのに本とうの事のように思えて」(亡くなる半年前)
 奥西は2005年、第7次再審請求審の意見書に書いた。「母は息子の無実の罪を晴らしてやりたい一心だった。元気なうちに晴らしてほしかった」
 逮捕の約7カ月後、手錠姿で現場検証に立ち会う奥西に、中学生の長男、小学生の長女が駆け寄る写真がある。「『お父ちゃん、お父ちゃん』と何度も叫び続けていた。その声は今も耳の奥に残っている。私はどうしてやることもできなかった」と奥西は述懐する。
 2人は今、故郷を離れてひっそり暮らす。それぞれに家族ができ、ここ数年はほとんど奥西と顔を合わせていないとみられる。家族に会いたいと切望する奥西を、支援者はこう励ましている。「まず再審を勝ち取ろう。そうすれば、きっと分かってもらえる」と。
 再審をめぐる特別抗告審で、最高裁の判断が近づいている。最愛の母が他界した年齢に達した奥西は「後にも先にもないヤマ場であります」と繰り返し、支援者の1人に「これが最後」と漏らす。期待とともに、残された時間への切迫感もまた、色濃くなっている。(文中敬称略)
◇名張毒ぶどう酒事件経緯
1961年 3月 事件発生
      4月 奥西勝死刑囚逮捕
  64年12月 津地裁で無罪判決、釈放
  69年 9月 名古屋高裁で死刑判決、収監
  72年 6月 最高裁で上告棄却、死刑確定
  73年 4月 名高裁に第1次再審請求
  77年 3月 第4次再審請求棄却
      5月 第5次再審請求。日弁連人権擁護委が支援開始
  87年12月 事件現場の公民館取り壊し
  91年 2月 奥西死刑囚支援の全国ネット結成
  97年 1月 第6次再審請求
2002年 4月 第7次再審請求
  05年 4月 名高裁が再審開始を決定
  06年12月 名高裁が再審決定を取り消し
  07年 1月 最高裁に特別抗告
無実信じ
、広がる輪(3)支援 2010年2月18日
 名古屋拘置所では、午後4時に死刑囚の夕食が配られる。奥西勝(84)にはほぼ毎日、つましい献立に色鮮やかな添え物がある。支援者から寄せられる絵手紙だ。季節の花や風景の絵が、軟らかい筆致で描かれている。
 「最初は二日に1枚だったが、今は一日に2、3通を送れる。昨年は1000通を超えた」。取りまとめをしてきた特別面会人の稲生昌三(71)は、絵手紙の数に比例し、奥西支援の輪が広がった手応えを感じている。
 稲生が本格的に支援に加わったのは、冤罪(えんざい)問題などに取り組む人権団体、日本国民救援会愛知県本部の事務局長となった1997年。奥西が裁判のやり直しを求めた5回目の訴えが退けられた直後だった。
 絵手紙サークルを訪ね歩き「無実なのに孤立無援で独房にいる」と協力を求めた。死刑囚は原則、親族や弁護人以外と面会や手紙のやりとりができない。絵手紙は、当時唯一の特別面会人だった故川村富左吉を差出人として、奥西と世間をつなぐ工夫だった。
 稲生は97年7月28日、初めて名古屋・大須で奥西への支援を呼び掛けた。集まったのは16人の署名と「奥西がやったんだろ」という冷ややかな声。以来、毎月28日に大須へ。今では毎回100人以上が署名する。
 「継続の力。でも根本は『やっていない』という奥西さんの訴えだ」と言う稲生。支援活動先での食事まで心配してくれる奥西を「人のいいおじいちゃん」と形容し、無実を信じて疑わない。
 その根拠の一つが、証拠をめぐる司法判断が変わり続けた点だ。
 例えば、犯行を裏付ける唯一の物証とされた、ぶどう酒の栓に残された傷。奥西は捜査段階で「歯で開けた」と自白し、死刑確定判決は歯痕鑑定をもとに奥西の犯行と断定した。弁護団がこの鑑定を覆す新鑑定を出したところ、第7次再審請求審で名古屋高裁刑事一部は「栓の傷は人の歯でできたものでない」と判断したが、異議審で同高裁刑事2部が否定した。
 弁護団が物証を崩しても、奥西が「強要された」と主張する自白が有罪のよりどころにされていると感じる。「無実の人が死刑になっていいのか」。稲生を突き動かすのは、その思い。
 特別面会人は段階的に増員が認められ、現在4人に。早川幸子(67)もその一人だ。
 早川は、奥西が逮捕された直後に、複数の住民の証言が警察側に都合よく変わったことに疑問を感じた。
 「裁判をやり直すべきだ」。支援を始めて20年が過ぎた2008年秋、奥西に初めて面会した。奥西は緊張する早川に「初めて会った気がしない」と語りかけ、場を和ませた。
 奥西は早川に、泰然自若とした印象を与えた。しかし最近の奥西は、少し高揚しているように映る。昨年、足利事件と布川事件で裁判のやり直しが決まり、奥西は「次は僕の番」と繰り返すようになった。強まる期待を感じるだけに、早川は「逆の結果が出た時」を心配する。
 稲生が忘れられない奥西の手紙がある。奥西は「昼食を食べると『一日が終わった』と思う」とつづった。死刑の執行は午前10時ごろとされる。昼食は、生き永らえた証しだ。そして絵手紙とともに味わう夕食もつかの間。「食べると、明日の恐怖が迫ってくる」(文中敬称略)
疑問あれば改めよ(4)自白 2010年2月19日
 1961年4月3日の正午すぎ。当時35歳の奥西勝(84)が、刑事に付き添われ三重県警名張署の一室に現れた。心境を尋ねた記者に早口で答えた。
 「ちょっとした気持ちで…。心から罪の償いをしていきたい」
 名張毒ぶどう酒事件発生から6日後。犯人の逮捕に過熱した報道陣の強い求めを受け、捜査本部が認めた異例の記者会見だった。
 出席したのは新聞とテレビから記者とカメラマンが1人ずつの計4人。その1人で当時NHK記者だった柳川喜郎(77)は、疲れた表情で伏し目がちに話す奥西の姿に「犯人に間違いない」と思った。
 それだけに津地裁の無罪判決は「ぶったまげた」と振り返る。同時に「犯人ではないかもしれない」という疑念が芽ばえていた。
 奥西は後に死刑が確定し、40年以上、拘置所生活が続く。柳川は海外特派員や解説委員を経て1995年から3期12年、岐阜県御嵩町長を務めた。
 柳川は町長時代の96年、暴漢に襲われる。捜査で、警察官が見立てに沿う調書を作ろうとする姿を見た。
 「思い出せないことを『こうだったんじゃないの?』と誘導した。嫌なものだよ。あの時、ウソの自白はあり得ると思ったね」
 2006年に名古屋高裁が前年に認めた奥西への再審決定を取り消した理由の1つが、柳川が取材した記者会見。「会見のやりとりは真に迫っている。取調官でない人への発言という意味でも重い」
 柳川も一度は確信した奥西の犯行。だが今は、奥西を犯人と決めることにためらいがある。「自白に頼りすぎている。決定的な証拠がないなら、裁判をやり直すべきだ」
 こうした声を聞くたび、奥西の自白内容を確かめる実験に立ち会った元警察官は「奥西以外が犯人だと示す証拠はなかった」と反論したい気持ちになる。
 実験では「火ばしでぶどう酒の栓を突き上げたが開かず、歯で開けた」という自白の通り開栓できるかを試した。実際には、火ばしで突いた時に開いた。
 その時、奥西は「一度で開かなかったので歯で開けた」とあらためて説明した。「あれは真実の声。犯人と確信したんだ」
 奥西の供述調書は17通。このうち、15通が自白調書だ。「無実の人が、何度も殺人を自白するだろうか」。奥西の再審請求を退けた最高裁のある元判事も、そう考えた。
 「奥西が違うなら犯人は誰なのか、とも考えた。だが証拠から判断すると、奥西以外に犯人はいないと判事の意見が一致した」
 自分たちが出した結論に責任はある。だが必ず正しいとは考えない。「進歩した科学技術を使い、犯行に使った農薬に疑問があると今の判事たちが判断したなら、裁判をやり直せばいい。刑事裁判は絶対じゃないんだから」(文中敬称略)
 【供述をめぐる判断】 「私は犯人です」と自白し逮捕された奥西死刑囚は公判で否認したが、1審判決は「自白には多くの疑問がある」と無罪に。再審開始決定も「混入毒物は犯行に使ったと供述した農薬とは異なる疑いがあるなど、自白に不自然な点が多い」とした。同決定を取り消した決定は「極刑が予想される殺人事件で、やすやすとうその自白をすると考えにくい」と逆の判断を示した。
新証拠も崩せぬ壁(5)執念 2010年2月20日
 真犯人が命ごいするために、うそをついているのではないか-。1999年に奥西勝(84)の弁護団に加わった稲垣仁史(45)は当初、奥西が無実かどうか、半信半疑だった。
 その年の4月に弁護士になったばかり。先輩の誘いで弁護団に入り、疑いを持ったまま奥西と面会を重ねた。
 その稲垣が、奥西は無実と思うようになったエピソードがある。
 2000年ごろ、名古屋拘置所の収容者の間で死刑反対運動が広がった時のこと。参加を求められた奥西は「僕は死刑制度に反対じゃないから協力できない」と断った。
 「命ごいが目的なら、あらゆる手を使って死刑を回避しようとするはずだ。奥西の叫びは命懸けの訴えだ」。そう思い始めたころ、農薬を切り口にした新証拠を探す役が回ってきた。
 奥西は、テップ剤という薬品を加工した農薬「ニッカリンT」をぶどう酒に混ぜたと供述した。しかし、事件直後に行われた飲み残しのぶどう酒の成分分析を見直すと、ニッカリンTに特有の不純物が検出されていなかった。「別のテップ剤の可能性がある」-。
 鑑定を依頼した学者には「未開封の瓶が数本必要」と言われた。稲垣の使命は、1960年代に製造中止になったニッカリンTと、弁護団が犯行に使われた可能性があるとみる農薬「三共テップ」を探すことだった。
 突破口は、趣味のインターネットにあった。「農薬掲示板」というサイトに「切実なお願いです」と情報提供を呼び掛け、JAで廃農薬を集めているという情報を得た。
 「無罪の人を死刑台から救うためにやっている。金のためじゃない」。福島県の農薬処分場にたどり着き、未開封の2つの農薬を手に入れた。
 鑑定の結果、犯行に使われた農薬はニッカリンTではない疑いが浮かび、審理中だった7回目の再審請求に滑り込ませた。05年、名古屋高裁刑事1部は再審開始を決めた。
 しかし、検察の異議を受けた同高裁刑事2部は翌年、「鑑定が示す疑いは抽象的な可能性にすぎない。自白を無視できない」と決定を取り消した。
 弁護団長の鈴木泉(63)は「名張事件は、自白がなければ有罪にできない、自白偏重の典型だ」と繰り返し訴える。
 学生時代、戦後の冤罪(えんざい)「八海事件」の元被告の話を聞いて弁護士を志した。
 1982年に弁護団入り。奥西に逆転死刑を言い渡した2審判決を読んだ時の怒りが原動力だ。「こんな判決で、人の命を奪うのは許されない」
 取り調べのあり方、移り変わる自白、「疑わしきは罰せず」の考え、再審開始基準-。名張事件には刑事裁判の問題点が凝縮されている。「最高裁は正面から答えるべきだ」と鈴木は語気を強める。
 「最高裁の判断に、日本の刑事司法の未来がかかっているのだから」(文中敬称略)
 【ニッカリンT】有機リン系農薬の一つで、事件後の1969年に生産中止。飲み残しぶどう酒の鑑定結果から弁護団は「ほかの毒物だった可能性」を主張し、第7次再審請求審で名古屋高裁刑事1部は「ニッカリンTでなかった疑いが生じ、奥西死刑囚が所持していた事実は犯人と推認する意味を弱める」と再審開始を決定。だが同高裁刑事2部は異議審で「ニッカリンTだった可能性は否定されていない」と再審開始を取り消した。
恨むよりも生きる(6)克服 2010年2月21日
 毎年、日記の最初のページには「もともとなかった命」と記す。浜田進士(48)が、くじけそうになった時に立ち戻る原点だ。
 名張毒ぶどう酒事件が起きた1961年3月28日、進士は母能子(78)の胎内にいた。「妊娠中だったが、年に一度の宴会。お酒も好きだったから」。能子は湯飲みで白ぶどう酒を一気に飲んだ。
 女性がバタバタと倒れる中、能子はなぜか軽症で済み、3カ月後に進士を産んだ。
 「あの時の子か」。周囲から「ぶどう酒さん」と呼ばれて育った。「嫌でしたねぇ」と振り返る。
 学生時代まで、三重県名張市葛尾の集落で暮らした。能子からは「私が死んでたら、あなたは生まれなかった」と言われ、事件の後、妊娠中絶も考えたと打ち明けられた。
 「今の自分があるのは当たり前のことじゃない。人の痛みを理解し、人の役に立つ生き方をしよう」。そう思うようになった。
 大学時代に国連児童基金(ユニセフ)ボランティアに参加した縁で、子どもの権利を守る仕事に携わり、今は大学准教授として自らの経験を若者に語る。
 「子どもには力がある。今の自分を大切にしてほしい。大人たちは、子どもを守る責任がある」
 奥西勝(84)の再審については「自分にとって犯人が誰かは大きな問題じゃない。もし無罪になっても感情に大きな波は起きない」と考える。だが、犯人は奥西だと聞かされて育った。人から「奥西は無罪」と言われると、とたんに心が穏やかでいられなくなる。「被害者の血」を感じる。
 事件があったから、今の自分がある。その思いは、母親の北浦ヤス子=当時(36)=を事件で亡くした幸彦(58)も同じだ。
 「犯人を恨むことに費やすエネルギーはなかった。とにかく自分が生きることで必死だった」
 貧しかったが、苦しみや痛みは感じなかった。父は事件の3年前に病死し、祖父母に育てられた。「収入源もないのに、僕にふびんな思いをさせまいと大変だったと思う」
 家計の負担を軽くしようと、中学を出て就職。高校に進む仲間がうらやましかったが、悔しさをバネに今は名張市内で鉄工所を経営するまでになった。
 家族や周囲の人と支え合うことの大切さを痛感した幸彦は「人に迷惑をかけてはいけない」という思いを強くしてきた。「もし、両親が生きていたら、また違う生き方になっていたと思う」
 再審請求の行方に、それほど関心はない。「奥西が無罪になっても、自分の人生は変わらないから」
 世代を超え、形を変えて残された名張毒ぶどう酒事件の記憶。それぞれの立場で闘いと葛藤(かっとう)が続く中、再審開始の是非を決める最高裁の判断が迫る。(文中敬称略)=おわり(福田要、北島忠輔、赤川肇、川合正夫、河北彬光が担当しました)
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名張毒ぶどう酒事件異議審決定 唯一目をひいた記事2006-12-27
 柳川善郎岐阜県御岳町長の話。柳川さんは、事件当時NHKの記者で、この会見で奥西氏にインタビューした。
 《「大きな事
件を、自分のちょっとした気持ちから・・・。何とお詫び申し上げてよいか分かりません」ぼさぼさの頭、落ち窪んだ目。奥西死刑囚は終始、うつむいたまま、ぽつりぽつりと語った。わずか三分間の短いやりとりだった。1961年4月3日の正午過ぎ、三重県警名張署の宿直室で、異例の容疑者の記者会見が行われた。事件発生から7日目。自白の模様はテレビ中継され、新聞各紙にも載った。「はめられた」。奥西死刑囚は45年経った今も、このインタビューを悔やむ。「警察から『家族を救うために会見して謝罪しろ』と言われ、取調官が書いた文を(暗記して)読んだだけ」と裁判官にあてた手記でも訴えた。
 柳川さんは当時、NHKの三重県警担当キャップ。記者クラブの代表取材の一員として、奥西死刑囚の話を聞いた。柳川さんによると、会見は「報道陣が警察に押し込む形で」実現した。その前日、県警幹部が「奥西の妻」犯行説を明らかにしたばかり。一晩で犯人が一転したことに「記者たちはいきり立っていた」という。
 待ち構えた容疑者の第一声。「ちょっとした気持ちから・・・」。冒頭の言葉に柳川さんは「真犯人」と直感したという。うなずける。本当の動機はそんなものだろう。単純に困らせてやろうとしたのだ。「うーん」。迫真の受け答えに次の質問が思い浮かばなかった。
 ただ、その後の司法判断は無罪から死刑に、そして再審開始決定から取り消しに。この取材を機に、「人は判断を誤る」と、死刑廃止論に傾いた。自身は十年前、暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負う被害者になった。それでも、いくら犯人が憎くても、死刑はいけないと思う。柳川さんは、奥西死刑囚に呼びかける。「お互い生きているうちに、もう一度会ってみたい。無実を訴えるなら、今度は目と目を合わせて」》


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