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正義のかたち:死刑・日米家族の選択/6 連合赤軍死刑囚支えた母
毎日新聞 2009年2月20日 東京朝刊
◇「月に一度の面会」36年
房総半島の自宅から約2時間半。月に一度、東京・小菅の東京拘置所に足を運び、息子と向かい合った。
連合赤軍事件の坂口弘死刑囚(62)の母菊枝さんが、昨年9月17日に他界した。93歳。72年の夏、長野刑務所に拘置中の息子を訪ね、世話をすると伝えた。以来、36年間にわたって約束を果たす。
◇
4人兄弟の末っ子は、65年に東京水産大(現東京海洋大)に入学すると、学生運動に突き進んだ。2年後に中退。銃砲店に押し入り散弾銃などを奪って逃走し、最後にあさま山荘事件を引き起こした。東京地裁が死刑を言い渡した翌日の82年6月19日。菊枝さんは東京拘置所を訪れた。息子が、普段の「おふくろ」ではなく「お母さん」と呼びかけると、「そんな言葉使うな」とはね付けた。 控訴審が始まると、菊枝さんは長野や東京まで被害者や遺族に謝罪して回った。だが、93年3月に死刑が確定。その月、後藤田正晴法相(当時)が、3年4カ月ぶりに死刑執行を再開する。翌日、菊枝さんは不安をのぞかせ拘置所を訪れた。
坂口死刑囚が師事する歌人の佐佐木幸綱さん(70)に短歌を届け、歌作を支えたのも菊枝さんだった。「自分の責任を感じておられたんじゃないか」。息子に献身する母の姿を、佐佐木さんは振り返る。仕事、家庭。兄3人は、それぞれの生活を抱えている。「ほかの子(兄)はできないので、私がやってやらなくちゃ」とも言っていたという。
坂口死刑囚は支援者を通じ、毎日新聞に母の死去について「所感」を寄せた。
<無私の恩愛に、私は在り来りの言葉では言い尽くせぬ深い感謝の気持ちを抱いています。母の存在抜きにして今の自分があることは考えられません>
◇
奥深く拒まれ いまも実家にて吾の名禁句と 母は嘆けり
坂口死刑囚が詠んだ歌である。
「犠牲者の方に何とおわびして良いか分からず、私も妻も死ぬ気でおりました」。千葉県の実家で母親と暮らしていた長兄(76)は、86年1月に東京高裁で、そう証言した。当時小学生だった2人の子供を守るため、自殺を思いとどまる。「子供が将来も犯罪者の家族だと言われては。親として、防波堤にと思って必死でした」
父親は54歳で他界。坂口死刑囚が子供のころは、長兄が面倒を見ていたという。ただ、記者に先月届いた手紙には、母親との「温度差」ものぞかせた。
<罪を犯した子供の為に生涯を尽くした母はそれなりに本望だったと思いますが(略)私は、40年来取材の度に世間の人に好奇の目で見られ話題にされて過ごして参りました>
母と子、兄と弟。家族の思いは錯綜(さくそう)する。
明日21日は、菊枝さんがあさま山荘前で息子に銃を捨てるよう呼びかけて37年に当たる。【武本光政】
■ことば
◇連合赤軍事件
連合赤軍の幹部らが71~72年、「総括」と称して群馬県内の山岳アジトで仲間12人を死亡させるなど、武装闘争の名の下、計17人の命を奪った。中央委員だった坂口弘死刑囚は、長野県軽井沢町のあさま山荘に72年2月19日から10日間立てこもり、警察官2人、市民1人を射殺した事件の主犯とされた。一連の事件で、元最高幹部の永田洋子死刑囚(64)の死刑も確定している。
(あさま山荘に立てこもった息子を説得するため、長野県軽井沢町を訪れた坂口菊枝さん(手前左)=1972年2月21日)=毎日新聞2009年2月20日東京朝刊
◆ 正義のかたち「重い選択・日米の現場から」「死刑・日米家族の選択」「裁判官の告白」
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◆ あさま山荘事件40年 / 「生の声 残したい」元活動家 / 坂口弘死刑囚 支援者に反省の手記