市橋容疑者の「懸賞金」の行方
新聞案内人. 田中早苗(弁護士)2009年11月20日
市橋達也容疑者が逮捕された。逮捕後、1000万円の懸賞金がどのように配分されるかについて注目されるようになった。
特に、個人的な興味が持たれるのが、市橋容疑者を整形手術したという名古屋のクリニックが懸賞金を受け取るかどうかである。
そもそも整形手術をしたことや、整形後の顔写真は、患者の重要なプライバシー情報である。しかも、自分の患者が逮捕されることに役立つ情報を警察に提供したという点で、弁護士である私にとっては、このクリニックの行動について多少の違和感を持っているからだ。
○整形クリニックの行為は守秘義務違反?
弁護士であれば、このようなことをすれば、守秘義務違反を問われ、少なくとも弁護士会から懲戒を受けると思われる。
守秘義務は、弁護士にとって、依頼者に対する最も重要な義務のひとつである。
守秘義務を負っているからこそ、依頼者は安心して、有利不利を問わず、全ての事実を打ち明けられ、弁護士はそれに基づき依頼者のために最も効果的な仕事をすることができるようになるのである。
弁護士の守秘義務は厳しく、たとえば、弁護士倫理の解説書にも「法廷で無罪を主張している刑事被告人がひそかにその有罪を弁護士に告白した場合、弁護士は、この秘密を堅く保持する義務がある」などと解説されている(注釈弁護士倫理[補訂版]・日本弁護士連合会弁護士倫理に関する委員会編87頁)。
以前、米テレビ局CBSが制作した、弁護士の守秘義務に関するドキュメンタリー番組をみたことがある(「CBSドキュメント」TBS・水曜日放送中)。
それは、2人の弁護士が依頼者の刑事被告人から別件の殺人事件を告白されたが、別件の殺人事件は、既に他人が捕まり、死刑判決が出ていたというものだ。弁護士は依頼者への守秘義務があるので、それを秘密にしていたが、依頼者が死亡したため、別件の殺人事件の犯人は依頼者であることを告白。死刑囚は無実であると主張し、それが認められ、死刑執行を回避できたというものである。
○依頼者が死んでも「守秘義務」は続く
この弁護士たちは、毎日、死刑が執行されないでほしいと願っていた、依頼者が死亡したので、守秘義務が解除されたと考え、真実を告白したと語っている。しかし、アメリカの地元弁護士会は、彼らを懲戒手続に付し、彼らは懲戒されるかもしれないというところでこのドキュメンタリーは終わっている。
地元弁護士会が彼らを懲戒手続に付したのは、弁護士の守秘義務は、一般に事件が終了しても続くので、依頼者が死亡したとしても守秘義務が継続する余地があるとも解釈できるからなのだと思う。
このように、弁護士の守秘義務は厳しいものだが、守秘義務も絶対ではない。たとえば、「合理的に確実な死又は重大な身体の傷害を防止するため」であれば、依頼者の秘密を開示してもよいとされている。しかし、市橋容疑者の場合は、死体損壊容疑での逃亡であり、逃亡中に殺人や傷害事件を引き起こしていたという情報もないので、弁護士の場合、守秘義務は解除されないことになる。
また、刑法の秘密漏示罪は、医師や弁護士だけでなく、聖職者も対象になっているが、仮に、教会に懺悔にやってきた市橋容疑者から罪を告白された聖職者が警察に届け出をしたら、その聖職者は社会的非難を受けるのではないだろうか。
このように、「警察への通報」という正当な行為でも行ってはならないという、一般人とは別の倫理や義務が課された専門職が存在しているのである。
○刑事責任は問われないだろう
ただ今回、名古屋のクリニックに対し、批判めいた話はあまり聞かない。反対に、11月16日、テレビ朝日「スーパーモーニング」でコメンテーターの松尾貴史さんも、<一部、医者の守秘義務違反をとやかく言う者がいるが、警察に情報提供することは「正当な理由」によるものなので、守秘義務違反にはならない>ということを発言されていた。
専門職といっても、専門職ごとに、求められている守秘義務が異なるといえるのだろう。
過去の裁判例でも、医師が患者に対し必要な治療をする過程で、患者が違法薬物を使用していることを知った場合、これを警察官に通報しても、医師の守秘義務に違反する違法な行為として非難されることはないとし、医師が採取した尿検査の結果などの証拠能力は問題がないとした裁判所の決定もある(最高裁平成17年7月19日)。
したがって、今回の事案でも名古屋のクリニックは刑法の秘密漏示罪には問われないと思われる。 ただ、この決定について、山田耕司最高裁調査官は、この決定は通報を義務付けるものではないし、本決定の「射程」(効力の及ぶ範囲=あらたにす編集部注)をあまり広く解するのは相当ではないように思われると述べ(ジュリスト1308号204頁)ている。
また、佐久間修・大阪大学教授も、本決定が、そのまま医師の捜査機関に対する通報・届け出一般にも妥当するかは疑問であるとし、証拠能力は肯定されても損害賠償請求の理由としては別途守秘義務違反を追及する可能性は否定できないと述べている(ジュリスト1303号69頁)。
○懸賞金、受け取ってほしくない
そうなると名古屋のクリニックの行為も今後どのように評価されるか予断を許さない。
想像するに、今回、クリニックは、苦渋の選択として警察への届け出をしたのではないだろうか。そうだとすると、懸賞金を受け取ることは差し控えるのではないだろうか……。
少なくとも、私としては「受け取ってほしくないなあ」と思っている。