藤木、君は僕を愛してはくれなかった。そして君の妹は、僕を愛してはくれなかった。僕は一人きりで死ぬだろう。

2021-02-28 | 日録

〈来栖の独白〉
 訪問して読ませていただいているブログがある。最近の記事に、「寂しさ」について書かれてあった。
 私は、「孤独」について考える。福永武彦。若いころ読んで以来、氏は私の裡で、不動の位置を占める。或る人は、氏の作品を「センチメンタル」などと言ったが。

 福永武彦著『草の花』より

 しかし、一人は一人だけの孤独を持ち、誰しもが閉ざされた壁のこちら側に屈み込んで、己の孤独の重味を量っていたのだ。

 ----僕は孤独な自分だけの信仰を持っていた、と僕はゆっくり言った。しかしそれは、信仰ではないと人から言われた。孤独と信仰とは両立しないと言われたんだ。僕の考えていた基督教、それこそ無教会主義の考え方よりももっと無教会的な考え方、それは宗教じゃなくて一種の倫理観だったのだろうね。僕はイエスの生き方にも、その教義にも、同感した。しかし自分が耐えがたく孤独で、しかもこの孤独を棄ててまで神に縋ることは僕には出来なかった。僕が躓いたのはタラントの喩ばかりじゃない、人間は弱いからしばしば躓く。しかし僕は自分の責任に於いて躓きたかったのだ。僕は神よりは自分の孤独を選んだのだ。外の暗黒(くらき)にいることの方が、寧ろ人間的だと思った。
 孤独というのは弱いこと、人間の無力、人間の悲惨を示すものなんだろうね。しかし僕はそれを靭いもの、僕自身を支える最後の砦というふうに考えた。傲慢なんだろうね、恐らくは。けれども僕は、人間の無力は人間の責任で、神に頭を下げてまで自分の自由を売り渡したくはなかった。

 ---ピアノコンチェルト一番、これ、前の曲ね。これはワルツ集、これはバラード集。どうしたの、これ?
 ---千枝ちゃんにあげるんだよ。千枝ちゃんがショパンを大好きだって言ったから、それだけ探し出した。向うものの楽譜はもうなかなか見付からないんだよ。

 僕の書いていたものはおかしな小説だった。(略)全体には筋もなく脈絡もなく、夢に似て前後錯落し、ソナタ形式のように第一主題(即ち孤独)と第二主題(即ち愛)とが、反覆し、展開し、終結した。いな、終結はなく、それは無限に繰り返して絃を高鳴らせた。

 僕はそうして千枝子を抱いたまま、時の流れの外に、ひとり閉じこもった。僕はその瞬間にもなお孤独を感じていた。いな、この時ほど、自分の惨めな、無益な孤独を、感じたことはなかった。どのような情熱の焔も、この自己を見詰めている理性の泉を熱くすることはなかった。山が鳴り、木の葉が散り、僕等の身体が次第に落ち葉の中に埋められて行くその時でも、愛は僕を死の如き忘却にまで導くことはなかった。もう一歩を踏み出せば、時は永遠にとどまるかもしれない。しかしその死が、僕に与える筈の悦びとは何だろうか、・・・・僕はそう計量した。激情と虚無との間にあって、この生きた少女の肉体が僕を一つの死へと誘惑する限り、僕は僕の孤独を殺すことはできなかった。そんなにも無益な孤独が、千枝子に於ける神のように、僕のささやかな存在理由の全部だった。この孤独は無益だった。しかしこの孤独は純潔だった。

 孤独、・・・いかなる誘惑とも闘い、いかなる強制とも闘えるだけの孤独、僕はそれを英雄の孤独と名づけ、自分の精神を鞭打ちつづけた。

 支えは孤独しかない。

 僕の青春はあまりに貧困だった。それは僕の未完の小説のように、空しい願望と、実現しない計画との連続にすぎなかった。

 藤木、と僕は心の中で呼びかけた。藤木、君は僕を愛してはくれなかった。そして君の妹は、僕を愛してはくれなかった。僕は一人きりで死ぬだろう。

* 「Chopinと福永武彦と」


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