遠藤周作『キリストの誕生』 現実のなかで無力であり・・・それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった

2020-01-19 | 本/演劇…など

『キリストの誕生』遠藤周作著 昭和53年9月25日発行 新潮社

p7~

 第一章 イエスの死

 イエスは同時代のすべての人間の誤解にとりかこまれて生きねばならなかった。みじかい生涯の間、民衆も敵対者も、弟子たちさえも彼をまったく理解していなかった。味方である者も勝手な夢と希望とをイエスに託そうとした。イエスは自分の意志とは根本的に違った大衆の期待のなかで孤独だった。庶民たちは彼に愛よりは現実的な効果を求め、大衆は彼をローマに蹂躙されたユダヤをふたたび「神の国」に戻す地上的な救い主(メシヤ)だと守立てようとした。こうした身勝手な期待と興奮は一時はガリラヤの春と呼ばれる熱狂的な人気を呼んだが、やがてイエス御自身に大衆の考えるような地上的救い主(メシヤ)の意志が無いことを知った時、彼等は反転してイエスから去っていった。十字架上のイエスの悲劇的な死はこの時からひそかに始まっていたのだ。
 以上が私の『イエスの生涯』の縦糸だが、この本が一部のキリスト教信者の顰蹙をかい、批判をうけたのは、私がイエスの現世的な人間像を「無力なる人」として書いたためである。そしてまた聖書に語られているイエスの奇蹟物語を彼の愛の行為や復活の意味よりは重視しなかったためでもあろう。だが私のこの考えは今日も変わっておらぬ。イエスは大衆の地上的メシヤとしての期待を裏切ったから、彼等の眼には無力な存在に映ったのである。弟子たちの大部分さえも彼(p8~)を見棄てた(ヨハネ福音書、6ノ67)のは、彼が自分たちの夢に値しない、何もできぬ師と思ったからである。
 だが聖書のふかい問題は逆にそこから始まる。無力だったこのイエスがなぜその死後、神の子とみなされたのか。彼が十字架にかけられた時、見棄てて逃亡したあの弟子たちがその後なぜ、命をかけてイエスの教えを広めようとしたのか。イエスはなぜ無力なるイエスから栄光あるキリストに変わったのか。弱虫だった弟子は何故、強い信念と信仰の持ち主になったのか。
 聖書が我々に突きつける深い疑問は、ここにある。もし最初からイエスがこの地上で人々に理解され、愛され、力ある存在だったなら、このような謎と課題と疑問は我々に起きなかったであろう。イエスがその生涯で人々の眼に無力な人間に見えたからこそ、この課題は重要な意味を持ってくるのだ。エリオットは『寺院の殺人』のなかでキリスト教徒の言葉には現世的な言葉と次元の違う意味があると語っている。たとえば地上的な意味での幸福とキリスト教徒のいう幸福の意味とは本質的に違うであろう。そして地上的な意味での無力も、キリスト教の世界のなかでは決して無力ではなかったのだ。イエスの死後、弟子たちが命をかけて証明しようとしたこの根本的な価値転換の過程を、これから私たちは追っていこう。

p223~
 それだけではない。我々は当時のユダヤという風土ではある人間を神格化することがいかに困難だったかという状況も第3に認識しておかねばならない。私が幾度もふれたようにユダヤ人はそのほとんどがユダヤ教の信徒であり、その唯一神ヤウエを信仰した。砂漠的宗教であるこのユダヤ教は汎神的なギリシャや日本とちがい、多くの神々を礼拝することを絶対に許さなかった。神(ヤウエ)はモーゼを通して、自分以外のいかなるものも信仰することをきびしく禁じたからである。
 ただ一つの神(ヤウエ)以外のいかなるものをも信仰することをきびしく禁じたこのユダヤで、一人の男が神格化されることはほとんど不可能に近い。その上、イエスの弟子たちもまた、私がくりかえしたようにユダヤ教の枠内でイエスを考え、ユダヤ教の思考の中で自分たちの謎を解こうとしている。彼等もまた唯一神ヤウエの信仰の持ち主だったのである。こうした弟子たちにたとえイエスに対する思惑がどのように深いものであれ、イエスを信仰の対象とまで高めるのはユダヤ教徒として大きな心理的抵抗があったにちがいないのだ。
 にもかかわらず、その心理的な抵抗は突破された。イエスは「人の子」「神の子」となり尊敬だけではなく信仰の対象として高められるに至った。それは唯一神を信仰してきたユダヤ人のなかでははじめてのできごとである。あのモーゼもエリヤもダビデも決してこのように神格化されなかった。なぜか。私にはわからない。しかしもしイエスにそれだけのXがなかったならば、いかに弟子たちといえども、このような瀆聖行為にひとしい冒険に踏み切れなかったであろう。
 イエスの死後、彼がキリストに高められるまでの短い歴史を調べた後、私たちがぶつかるのは結局、この「なぜか」であり、そしてイエスの持つXである。
p224~
 この「なぜか」を素直に、謙虚に、考える時、私たちは次のような結論に達せざるをえない。たしかにイエスをキリストまで高めたのは弟子たちと原始キリスト教団との信仰である。彼等の意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは「人の子」と言われ「神の子」となり、救い主(メシヤ)と呼ばれ、そしてキリストになった。
 だがイエスを神の子にしたのは弟子たちだけではなかった。イエスにも、それに相応しいXがあったからこそ、彼は他の預言者たちと違った次元におかれたのである。人間が彼を聖なるものとしただけでなく、彼にも聖なるものとされるに価いした何かがあったのだ。

 けれども原始キリスト教団史のもうひとつの問題はこうして弟子や信徒たちの信仰の対象になったキリストが必ずしも彼らの願い、要望に応えなかった点にある。
 弟子たちは突きつけられた「神の沈黙」という謎を解くためイエスの再臨を考えるに至った。彼等は十字架でみじめに死んだイエスがやがて栄光のキリストとしてふたたびこの地上にあらわれるのだ、と思うようになった。その希望はやがて彼等の信仰となり、彼等の結束の理由ともなった。
 だがそのキリストはあらわれなかった。弟子グループがユダヤ教徒に迫害され、ステファノが殺され、多くの信徒がエルサレムを棄てて各地に逃亡した時もあらわれなかった。ヤコブが神殿の城壁から突き落とされた時もあらわれなかった。ローマの大軍団がふたたびパレスチナを蹂躙し、エルサレムが恐怖と飢えとのなかで包囲された時もあらわれなかった。率直に言えば弟子たちの(p225~)願いはすべて裏切られたのである。
 脱落者が出た。既にのべたようにキリストの再臨をむなしく待つことに疲れた信徒たちはユダヤ教徒に戻り、残った者はエルサレムを出てペラに逃亡した。逃亡したものが、裏切られた自分たちの信仰を恢復させるため、何を心の拠りどころとしたか、それを書いた当時の資料はない。
 こうして「キリストの不再臨」と共に、「神の沈黙」という宿題も未解決のまま原始キリスト教団に残された。(略)

p226~
 (前半略)
 ガリラヤで育ち、エルサレム城外で殺された、手脚のほそい男。犬のように無力で、犬のように殺されながら、息を引きとるまでただ愛だけに生きた男。彼は生前、現実のなかで無力であり、ただ愛だけを話し、愛だけに生き、愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざし強いゴルゴダの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく、人間の永遠の同伴者と変わっていったのである。「世の果まで私はお前たちと苦しむだろう」(パスカル『イエスの秘儀』)。それは人間がいかなる思想を持とうと、実はその魂の奥では変わらざる同伴者をひそかに求めているからである。「我なくんば・・・」とパスカルはある夜、祈りつつそのイエスの声を聞いた。「我をもとめることなし」
 人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向き合うならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失ったものは、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
p227~
 だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
 原始キリスト教団のみじかい歴史を調べる時、私がぶつかるのは、いかにそれを否定しようと試みても否定できぬイエスのふしぎさと、ふしぎなイエスの存在である。なぜこんな無力だった男が皆から忘れ去られなかったのか。なぜこんな犬のように殺された男が人々の信仰の対象となり、人々の生き方を変えることができたのか。このイエスのふしぎさは、どれほど我々が合理的に解釈しようとしても解決できぬ神秘を持っている。その神秘こそ、今度も私の書きえなかった「彼とその弟子の物語」のXなのである。


『イエスの生涯』 弱虫だった弟子は何故、殉教をも辞さぬ強い信念と信仰の持ち主になったのか 

 
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遠藤 周作『死について考える』 あの人の百倍も強烈なのが私にとってイエスかもしれないと思うことがあります

  
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遠藤周作著『私にとって神とは』---聖書はイエスの生涯をありのまま、忠実に書いているわけではない---原始キリスト教団(書き手)によって素材を変容させ創作した

  
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遠藤周作著『人生の踏み絵』 … 一応、自殺は禁じられています… 2019.12.12

 
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