木曽川・長良川連続リンチ殺人事件 上告審弁論 / 遺族「真の謝罪に思えぬ」ため息、不信強く

2011-02-14 | 死刑/重刑/生命犯

3府県連続リンチ殺人:弁護側、死刑回避を主張 元少年3被告の上告審が結審
 大阪、愛知、岐阜の3府県で94年、男性4人が殺害された3件の連続リンチ殺人事件で強盗殺人罪などに問われ、2審で死刑判決を受けた当時18~19歳の元少年3被告の上告審弁論が10日、最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)で開かれた。弁護側は「更生可能性がある」と死刑回避を主張、検察側は上告棄却を求めて結審した。判決期日は後日、指定される。【伊藤一郎】
 被告は、愛知県一宮市生まれの当時19歳の男(35)▽大阪府松原市生まれの当時19歳の男(35)▽大阪市西成区生まれの当時18歳の男(35)。
 1審の名古屋地裁(01年)は、2件は殺人と認めたが、1件を傷害致死と認定し、「主犯格」と認めた一宮市生まれの元少年に死刑、他の2人に無期懲役を言い渡した。一方、2審の名古屋高裁(05年)は3件とも殺人と認め「役割に差はない」と全員を死刑とした。
 上告審で元少年側は「2審は、恵まれない環境で育ち、健全な発達を阻害された少年の精神的未熟さを十分に考慮していない」などと主張。「1件は1審の認定通り、殺人でなく傷害致死にとどまる」とも述べた。
 検察側は「4人の命を奪った責任は誠に重大。犯行時少年だったことが、死刑を回避すべき特別な事情にはならない」と反論した。
 2審判決によると、3被告は94年9~10月、大阪市内で無職男性(当時26歳)を殺害▽愛知県尾西市(現・一宮市)の木曽川堤防で型枠解体工の男性(同22歳)を殺害▽同県稲沢市で当時19歳と20歳の男性を連れ回し、岐阜県輪之内町の長良川河川敷で殺害--するなどした。
 ◇2審判決維持を--被害者遺族
 長良川河川敷で殺害された江崎正史さん(当時19歳)の父、恭平さん(66)は昨年10月8日夜、事件があったとされる時刻に合わせて、息子が連れ回された現場5カ所を妻のテルミさん(65)と初めて巡った。7月に上告審の弁論期日が指定された後、最初の命日だった。最後の裁判に臨む前に自らを奮い立たせたという。
 夫婦が河川敷にたどり着いたのは、9日午前1時ごろだった。「こんな冷たい地べたで、なんで殺されんとあかんかったのか」。恭平さんは改めてこみ上げてくる怒りに震えた。
 恭平さんは「最高裁が2審判決を維持しないと、私たち遺族は新しい一歩を踏み出せない」。最後の判決まで、息子の写真を携えて傍聴するつもりだ。
毎日新聞 2011年2月11日 東京朝刊
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連続リンチ殺人 上告審弁論 「真の謝罪に思えぬ」遺族 ため息、不信強く
中日新聞2011/02/11Fri.
 「年齢ではなく犯した行為で裁かれるべきだ」。閉廷後、遺族の1人はあらためて強く死刑を求めた。最高裁で10日開かれた連続リンチ殺人事件の弁論。3被告を死刑と無期懲役に分けた1審を覆し、全員を死刑とした控訴審判決から5年余。18~19歳で事件を起こし、名古屋拘置所で35歳となった元少年の被告たちは、取材に「償い」への苦悩ものぞかせた。
 「責任転嫁が多い。自分さえよければ、という主張は今回も変わらなかった」。事件で当時19歳の長男を奪われた愛知県一宮市の江崎恭平さん(66)は傍聴後、最高裁の門前で深くため息をついた。
 3被告の弁護人は「遺族に謝罪の手紙を出している」などと反省振りを強調。しかし、全員の死刑確を望む江崎さんは「真の謝罪に感じられない。とらわれの身なら、きれいな言葉も出る」と一蹴した。
 「被告からの手紙を受け取るのも、法廷での主張との違いを見つけるため」と断言した。未熟な少年には死刑を適用すべきでないとの主張には「法律で18歳以上の死刑はあり、回避の理由に当たらない。犯した行為で裁かれるべきだ」と語気を強めた。
 控訴審の後も裁判資料を読み続け、3被告の主張の食い違いに不信を強めてきたという江崎さん。この日、最高裁から判決日は示されなかった。「早くけじめをつける時が来てほしい。それを新たなスタートにしたい」
 「与えた苦しみ思う」「生きて償いを」
 2005年の控訴審で死刑判決を受けて上告した3被告は、最高裁弁論を前に、本紙記者との面会などで、それぞれ罪に向き合う日々を語った。
 「自分が与えた苦しみをいつも思う。自分のような存在も、被害を受ける側の人もつくってはいけない」
 キリスト教の支援者と毎週面会する愛知県一宮市生まれの被告は支援者に頼まれ、非行少年に激励の手紙を書く。こうした活動も「償い」と考えている。
 親しい人への手紙は「絆」の一文字で結ぶ。支援者は「家庭環境に恵まれなかった本人が、一番欲しいものだろう」と受け止めている。
 「自分にも家庭や支援者がいて、一方で被害者がいる。その真ん中にあるのが自分」。そう、遺族感情への配慮と上告して争うことの葛藤を打ち明けたのは大阪市西成区生まれの被告。「自分が犯した罪は認めるが、それとは切り離して争いたい事実関係もある」と強調した。
 弁護士の仲介で一部被害者遺族との面会を続ける大阪府松原市生まれの被告は、本紙への手紙で「生きて償いをさせていただきたいと思っている私に力を与えてくださる」と記した。ただ、死刑の確定を望む遺族からは、今も見舞金の受け取りを拒まれている。
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〈来栖の独白〉
 刑事司法は被害者感情に応えるためではなく、罪を犯した(人間としての道を踏み外した)人の立ち直りを探るためにある。立ち直り(更生)を目指す意味から、少年事件の場合、それは一層強調される。その主旨に異論を挟む余地は私にない。
 けれども、当該事件の報道に接する度に当初から、抗い難く、承服しがたい違和感を私は打ち消すことができないでいる。この違和感の因ってくる遠因に被告元少年を取り巻く「支援者」の姿がある。支援するキリスト者の姿があり、某事件の被害者遺族(H氏)の姿がある。
>キリスト教の支援者と毎週面会する愛知県一宮市生まれの被告は支援者に頼まれ、非行少年に激励の手紙を書く。こうした活動も「償い」と考えている。
 こんなものが、償いだろうか。被害者と遺族は、事件後、一度も会えていない。この世で「毎週」はおろか、永遠に会うことは叶わない。被告人は、しっかりとご遺族のこの悲しみを感じとらねばならぬ。活動(激励の手紙)や見舞金ではなく、人間の悲しみを感じることが最重要課題だ。私は鈍い者であるが、勝田との日々、ご遺族に勝田がもたらした苛酷な現実に思いを致さずに面会に臨んだ日は、なかった。
 被告人とこれら支援者によって、江崎氏たちがどれほど心掻き乱されたことだろう。“控訴審の後も裁判資料を読み続け、3被告の主張の食い違いに不信を強めてきた”といわれる江崎氏。深い深い苦悩、悲しみを思う。
「死刑でよい」 
 2007年、弟が刑死して、多分私は自分の人生のなかで、初めて、最大の悲しみを経験した。この上ない喪失感、空虚、寂寥感の中で、しかし弟の死の直後から敏感に気づいていたことがあった。
 それは、不謹慎に聞えるかもしれないが、軽くなったような脱力感だった。弟の生存中、被害者・遺族に対する絶えざる後ろめたさ、不調和のなかにいた私は、やっとその重石が幾分とり除かれたように感じた。「清孝は、命に対して命で詫びた。でき得る限りの詫びをした。この死には意味がある」、そう思った。この死には意味がある、その思いは、弟へ寄せる惻隠の淵で私を支えた。
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三人の元少年に2審死刑判決の「木曽川・長良川連続リンチ殺人事件」 あす最高裁弁論2011-02-09 


死刑制度と裁判員制度を問う東海テレビ制作『罪と罰』 2009-04-15 
  旅行先のホテルで、東海テレビ制作『罪と罰』を見た。後味の悪さが残った。口中でザラザラするような不快感はどこに由来するのだろう、と本日まで考え続けた。刺さった棘に苦しむように私は『罪と罰』を考え続けた。まるで10年余り前にかえったかのようだ。
 やっと、微かに分かった。それは、「人間」を追及した過去のシリーズとは違い、安易に「制度」を問うているに過ぎないということだった。登場した被害者遺族の一人H氏の見ているものは「人間」ではなく、死刑「制度」に過ぎなかった。死刑制度廃止以外は、眼中に無いようだった。
 H氏は、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件の被害者遺族江崎恭平氏に「お会いさせて戴き、忌憚なくお話ししたい」旨、メールを送る。いまだ裁判係争中でどんなにか傷つかれたことだろうと拝察するが、江崎氏は良識的、抑制された文面を返されている。その返信メールも映し出された(諦めて苦笑いでもされながらの諒解だろうか)。江崎氏の深い苦悩のまえに、H氏の論理は如何にも浅薄である。
 生前、藤原清孝も私も、所謂死刑廃止運動体の人たちの独善に悩まされ続けた。死刑廃止という理想のためには虚偽をも辞さず(手段を選ばず)、メディアを従えて手放さない手法。
 この制度闘争に魅入られて、向き合う相手を取り違え、虚偽という罪科から回心できずに逝った死刑囚もいた。受洗もしていたというが。
 イエスは、次のように云う。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マタイ16,26)
 ここで云う「命」とは、必ずしも肉の命ではないだろう。イエスは、次のようにも云っているから。
 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ10,28~)
 死刑廃絶された「世界」を手に入れても、おのが命(良心)を失っては何にもならない、と言っている。
 命がけでおのが罪と向き合うべき死刑囚をそそのかしてはならない。死刑囚が命がけでおのが罪と向き合うのでなければ、被害者は浮かばれない。「世界」(死刑制度廃止)に眼を向けている余裕など、ないのではないか。制度ではなく、人間を見ないでどうするか。
 イエスの次の言葉は、さらに厳しい。「命」を得るために厳しい。
 わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかるほうがよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、(略)。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐりだしなさい。(マルコ9、42~)
 私は、死刑でよい、などと言っているのではない。制度を論じるのと人間を論じるのとは別次元だ、と言っている。その故に、制度を論じたに過ぎない今回のドキュメンタリーは、何の感動も得られなかった。
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