そして今、若葉の季節〈来栖の独白2017.5.1 Mon 〉

2017-05-01 | 日録

〈来栖の独白2017.5.1 Mon 〉
 5月となった。母が2月24日に亡くなり、暫くして気がつくと桜の季節となっていた。「ああ、私にも春は訪れた」と、幾度心に呟いたことだったろう。そして今、若葉の季節だ。
 母の死去に際し、様々な手続きに追われたが、それは母の人生を想うことであり、母と私の共有した来し方を見つめることでもあった。共有した事の中には、母に頼んで養子にして貰った死刑囚勝田清孝のこともあった。そして、その清孝の死後、国土交通省(運輸省=当時)から届いた文書、「藤原清孝さんに負の遺産・・・」というものもあった。昨日、次男と話したのだが、「今の私には、遺産放棄の手続きをする気力は、最早、ない」。
 振り返れば、清孝の死(刑死)の前から発症していた母のアルツハイマー病は、時を経るにつれ重度となり、大型買い物や家の修理に、私は成年後見制度の後見人を申請せざるを得なかった。審判により第2ランクの「保佐人」と登記されたが、報告など、その後の事務処理には骨が折れた。成年後見制度における弁護士の不正事件も相次いだことから、裁判所も神経質にならざるを得なかったのだろう。
 母の死後、様々に書類を取り寄せる中で、母が私に打ち明けなかったことも多い、と知った。その打ち明けなかったことの中に、母の根源的な「悲しみ」、人生観が刻印されていた。
 この世は悲哀の海なのだろう。母は今、その悲苦からやっと解放されているのだろうか。
 日々、私はカトリック聖歌を弾き、口ずさむ。#72が、痛切に胸に響く。

【なやむわがむね】(#72)
なやむわがむね いかになすべき (よろこぶこころ たれにぞつげん)
あめなるみかみ あいのみちちよ
主こそしりたもう わがおもいを

【やみじになやめる】(#102)
1 やみ路になやめる エワの子われらは
 すくいのみ光 したいてさまよう 
2 なみだの谷より いまぞ待ちのぞむ
 わがなぐさめ主 とく来たりたまえ 
3 日よ 月よ 星よ よろこび迎えよ
恵みにかがやく 晴れの日せまりぬ 
4 野よ 谷よ 山よ 主をたたえまつれ
荒れにしこの地に よき日 近づきぬ

〈来栖の独白2017.5.1〉追記
 先日、オルガン弾き仲間のNさんより来信。リウマチを発症、ステージ3とのこと。教会のオルガン奉仕も、ドクターストップ。日々、痛みと熱。
 どのように言葉を掛けてよいのか分からない。痛いのは、辛い。
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【宮崎勤死刑囚~家族の悲劇 被害者の陰、地獄の日々 父親自殺 改姓 離散】 2006,1,18 坂本丁次 
前段略
 〈来栖の独白〉
  宮崎勤氏の父親の苦しみは、私には、弟、藤原清孝(旧姓、勝田)の実父のものに重なる。
  清孝は逮捕から短期間で問罪されないうちに7人の殺害を自供しているが、自供を最後まで躊躇わせたものは「自供によって、自分の家族が自殺するのではないか」という不安であった。
  自供後、「大丈夫だ。家族は、元気だ」という捜査官の言葉に励まされ、率先して捜査に協力して ゆく勝田だったが、日々明らかになっていくわが子の罪状の陰で家族の苦しみは如何ばかりだったろう。
  勝田の父親は、清孝の少年時代の非行事件に始まって先祖代々営んできた農地を手放してきたが、113号事件逮捕によって住み慣れた家郷を後にした。清孝にも両親の居所は不明であった。
  宮崎被告の父親は、自裁したという。無残である。
  不謹慎に聴こえるかも知れないが、清孝の死刑執行に最も安堵したのは清孝の実父母ではなかったかと私は思う。被害者への心苦しさはもとより、少年事件以来、親は子の再犯に怯え続けた。親の不安に挑むかのように清孝は事件を累ねた。そんな歳月だったから、死によってやっと安堵したのではないか、私にはそのように思われた。
  けれど死によってもなお、被害者遺族同様、加害者親族にとっても、勝田事件は終わらなかった。2001年3月30日だったか、養母(私の実家、藤原)へ国土交通省から、以下のような書面が届いた。

 損害てん補金の回収について(照会)
  昭和57年8月18日の交通事故により、藤原(勝田)清孝殿は国に対して債務を負っておりましたが、同人が平成12年11月30日に死亡していることが確認されましたので、法定相続人である貴殿あて照会文を送付しますので、下記を参照のうえ、別紙回答書により回答してください。
  なお、平成13年4月6日(金)までに当方に回答が到達しない場合には、当方で法定相続人を確定し事務処理を進めます。(中略)
  今回の債務は貴殿にとってマイナスの相続であります。被相続人の財産を相続するしないは、貴殿の自由ですので比較検討し結論を出してください。 (以下略)

 私に思い当たることがあった。清孝の遺品の中に、運輸省(当時)から送達されたこの種の過去の書面が何通もあり、「一体、これは何だろう」と不審に思ったものだった。
  昭和57年8月18日といえば、エポック山科北店店員美馬幸雄氏(45)を襲った京都エポック強盗致傷事件の日である。事件に関連するものなのか、或いは単なる交通事故ででもあるのか。残債務額が1,676,674円。それに履行期限昭和59年8月1日からの年5分の遅滞金が加算されている。
  2001年3月には、私の母には既に認知症が発症していた。国交省からのこの種の文書にも無頓着であった。たまたま春休みで帰省していた私どもの次男が発見し、電話で知らせてきたのであった。
  相続順位は、第1位が妻子で、父母は第2位である。私は家庭裁判所へ出向き、遺産放棄の手続きについて教えてもらった。取り寄せねばならない書類は多く、期限は限られていた。
  母の放棄のための手続き中、私へも照会文が届けられた。私自身の放棄手続きに入って驚いたことは、相続順位第2位の「父母」と第3位の「兄弟」の間に、「祖父母」が存在することだった。私は、藤原家の祖父母、母の実家の祖父母、そして勝田家側の夫々の祖父母の死亡を証明できる書類を取り寄せねばならなかった。インターネットに随分助けられたが、地名も変わっており、勝田家側についての作業は中々困難であった。
  一連の手続きの中で私は、勝田のお父様がどんなに難儀しておられるだろうと思わないではいられなかった。息子が養子に入った藤原家は、お父様には遠く岡山の地である。その見知らぬ土地の役所の住所を調べて、必要書類を取り寄せねばならない。岡山のことはすべて書類を揃えてお送りして差し上げたかったが、私にはお父様の住所が判らないのだった。情けない思いがした。
  死してなお、老いた親を奔走させ、痛めつくす。不安、恐怖、失望の中に永い歳月生きることを強いられたお父様お母様の嘆きが、私を泣かせた。
  二度だけだが、死刑確定直後に電話で言葉を交わしたことがあった。お父様は「一日も早く死刑にしてもらいたいと思っています。そう、清孝に伝えてください」と云われた。戴いた手紙には「このような愚息を育てた責を痛感・・・」と、苦しすぎる胸中が綴られていた。確かに、清孝の養育環境には、大いに問題があった。両親の責任は免れ得ないと思う。
  事件の周辺に痛ましさが満ちている。
  私どものこのHPは死刑制度乃至その是非を論じたりするものではない。私どもはその立場にない。人間存在の悲しみの傍らに居たいと思うものである。
  来栖宥子 2006,1,19 up 
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「遺言書」藤原清孝 ■ 最期の姿 ■ プロフィール 
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2 コメント

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春のおとづれ (あやか)
2017-05-01 19:34:35
お母さまが、さる二月に昇天された事、当時のブログで拝読しました。
あれから二ヶ月たったのですね。御家族の、お心も、ほんの少しだけ落ち着かれたかもしれません。
天国におられる御母さまも、爛漫な花園のなかでお暮らしになっておられるにちがいありません。
引用されている聖歌は、深く心の琴線に共鳴いたします。
栗栖さまの、お幸せをお祈りします。

☆ところで、栗栖さまのお母さまは、死刑囚の人を養子になさっていた事、よませていただきました。本当に勇気のいることだったと拝察します。(もっとも、死刑囚も刑死したら、もはや死刑囚ではありません。刑法による死亡者です)
そのかたも、罪の重みを背負い、深い心の悲しみを抱いていたのでしょう。
犯罪を犯した人が、その罪を償うのは当然ですが、その犯罪者の家族までが世間から不当な誹謗を受けるのは、きわめて理不尽なことです。そういう事を聞きますと、やるせない思いになります。
未だに、我が國には、そういう不条理な連帯責任を負わせるような、陰湿な風土が残っていることを悲しく思います。
慈悲と愛にみちた、公正な造り主の、救いにすがるしかありません。。。
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Re:春のおとづれ (来栖宥子 )
2017-05-01 22:04:51
あやかさま
 コメント、ありがとうございます。
>公正な造り主
 聖書は、公正とか平等といった概念・思想を有していない、と私は思っています。実に依怙贔屓の強い神である、と受け止めています。カインとアベル、エサウとヤコブ(イスラ・エル)の例、然りですね。
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