市橋達也著『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』幻冬舎文庫

2016-05-15 | 本/演劇…など

市橋達也著『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』幻冬舎文庫 平成25年9月5日 初版発行(単行本刊行;2011年)
*カバーイラスト;市橋達也
<筆者プロフィール>
 市橋達也
 1979年生まれ。2007年、千葉県市川市のマンションで英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)が殺害された事件で、殺人と強姦致死の罪で起訴され、現在服役中。

p5~
はじめに
 新聞を広げてみても、テレビをつけてみても、僕が生きていて、顔を変えて逃げていることを連日報道していた。
「もう逃げられない」と思った。
「島の小屋に戻るしかない」そう思った。
 小屋の中で餓死した自分の姿を想像した。
 それでいいと思った。
 僕は、その夜、沖縄へ出航するフェリーに乗るため、大阪のフェリーターミナルの待合所にいた。何時間も座って待っていた。気がつくと、外は真っ暗だった。
 突然、二人の制服警察官がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 僕のジーンズの両ポケットには、ピストル型の防犯スプレーがひとつずつ入っている。でも使う気持ちになれなかった。
p6~
「あきらめなさい」直感がそう言ってきた。
 二人の警官が座っている僕の目の前で止まり、「名前、聞かせてくれよ」と言った。
「あきらめなさい。あきらめなさい」直感が繰り返した。
「死に場所が変わっただけだ」そう思った。
 僕は「市橋達也です」と答え、そして逮捕された。

 僕は事件の後、怖くなって逃げ出した。警察官を振り切って千葉県市川市の自宅マンションから逃走した。そして2年7カ月の間、逃げ続けた。
 北は青森まで、そして四国、沖縄、関西、九州の各地を電車、バス、自転車、徒歩で転々と移動した。
 その間、いくつかの建築現場で合わせて2年以上働き続けた。アスベストや粉塵が舞う中での解体作業。汚物にまみれながらの労働。仕事が危険であればあるほど、きつければきついほど、汚ければ汚いほど、自分が彼女にしたことへの報いのひとつなんだ、償いのひとつなんだと思って働いた。
 でも、そんなものは結局、なんの償いにもなっていなかった。ひとつの報いにもなっていなかった。
p7~
「感謝」という言葉の意味がわかっていたら、あんなことはしなかったんじゃないか。逃げている時、ずっとそのことを思っていた。
 でも最後まで「感謝」の意味はわからなかった。

 僕は罪を犯し、怖くなって卑怯にも逃げた。逃げ続けてしまったことで、被害者の方だけではなく、さらにたくさんの人たちをもう一度傷つけることになってしまった。
 僕はもうすべてのものから逃げるのはやめよう、と心に決めた。
 2007年3月26日に警察から逃げて、2009年11月10日に逮捕されるまでの2年7カ月の間、僕はどこにいて、どのような生活をし、何を考えてきたか。
 自分が犯した罪の懺悔のひとつとして、それを記します。
 これによってどう批判されるかもわかっているつもりです。

第1章 裸足
p14~
 3月26日の午後9時か10時頃、千葉県市川市のマンションにいた僕は、外出しようと着替え、玄関のドアを開けた。目の前に背の高い私服の男が1人立っていた。
 その男が「おーい、いたぞ」と叫ぶと、非常階段の近くにいた紙幅の3人が駆け寄ってきた。その中には女性もいた。
 その場で男から警察手帳を見せられ、リンゼイさんについて何か知らないかと尋ねられた。
 瞬間、頭に父親の顔が浮かんだ。そして、
“僕のしたことは決して許されない。彼女の人生は彼女のものだった”
 そう思った時、怖くなって僕は逃げ出した。
 周りの4人の警察官を振り切って、僕は非常階段を4階から1階へ駆け降りた。降りる時、片方の靴が脱げた。
p15~
「下、行ったぞぉ」「絶対逃がさねえぞ!」という怒鳴り声が後ろから聞こえてきた。

第3章 お遍路
P79~
 お寺に入らずとも、遍路道を歩くことだって、それだけで意味があると感じた。リンゼイさんが何事もなかったように生き返る。それだけが僕の願いだった。そのことが起きるまでは、遍路道を何十周でもまわるつもりだった。
 最初の頃、歩いていると、おじいさんがいきなり話しかけてきた。
「あんた、お遍路かい」
 僕は無視して歩き続けた。事件を起こした僕は今、人と話してはいけない。怖かったが、でもうれしかった。人と初めて触れ合えた気がした。
 歩くのに慣れ始めたころ、自転車に乗ったおじさんが「がんばるね」と話しかけてきた時は、目立っちゃ駄目だ、ゆっくりあるこう、と思った。ずっと下を向いて歩いていた。
 雨の中、幹線道路を歩いていると、ラジオで「指名手配中の容疑者には、いずれ賞金がかかる」と言っていた。やがて僕もそうなるだろう。怖かった。
p92~
 もう人の住む社会の中では、生きることはできないだろうと思った。漁師町で過ごしたいと思ったことがあったが、漁師町で過ごすなんて自分勝手だと思った。
 自殺する勇気はなかった。自首する気もなかった。いったん指名手配をされると、自首しても減刑にはならないとラジオで聞いていた。
 逃げていたかった。それで思いついた言葉が「無人島」だった。無人島で一人で暮らそう。そう思った。

第5章 働く
p144~
 島では『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ。小屋の中でラジオを聴いていた時、「Born To Be Wild」が流れ、踊った。
 こうしていても、お金はいつかなくなる、と思った。(略)お金があるうちに本州に戻って仕事をしよう。
 西成で働こう、と思った。
 大阪の西成なら身分証なしで働ける仕事があるはずだ。そこしかない。
那覇で自分が経験した職工と同じ仕事をするだけだ。
 今度はやれると思った。
 手配写真にあった左ほおのほくろ二つをカッターで切り取った。
 バックパックに寝袋と服を入れて、ネコを連れて小屋を出た。残りの荷物は小屋の中に置いたままにした。
 隣島へ渡り、ネコを離した。
 これで元に戻った、と思った。
p145
 フェリー乗り場に向かった。
 それから逮捕されるまで、沖縄と関西の間を往き来する生活になった。

第7章 貯金
p189~
         *
 仕事が終わったある夕方、部屋に戻ってテレビをつけると、僕に関するニュースが流れていた。プロファイリングの手法を使って僕を調べていた。テレビに映った警察官は、僕について「自分を客観的に見られる性格で、三ヶ月と同じ場所にはいないだろう」と話していた。
 もし、逃げる前の僕を知る人がいたらどう思うだろう? 信じられないだろうな、と思った。僕は空気を読めない主観的な人間に見えたはずだから。
 逃げる前の僕は空気なんて読みたくなかった。自分のしたいことができればそれでよかった。
 ある朝、僕の新しい手配写真をニュースで見た。少なくともこれが三度目の僕の手配写真だったと思う。僕の懸賞金は百万円から懸賞金の上限の一千万円に上がっていた。
 一枚のポスターに三枚の写真が載っていた。上部に大きく一枚、大学生だった時の下を向いた顔写真。下の部分に小さく二枚あり、いずれも警察が加工していた。一枚はメガネをかけて、二枚目は女装したように加工した写真だった。
190~
 この女装写真がテレビに映ってすぐにテレビ画面が変わったので、一瞬、僕以外の女性の容疑者が載っているのかと思った。後から見れば、どうみても自分なのだが、この時には何が起こっているのか理解できなかった。仕事に出る時間だったのでテレビを消して部屋を出た。
 仕事中、もしかすると警察は僕の足取りがつかめないから僕が女装して逃げたとでも思ったのかなと想像してみた。懸賞金の金額が逃亡中の容疑者にかかる上限まで上がったことも、警察が僕の足取りをつかめていないことを示していた。
 いくら追い詰められても僕は女装なんてしない。そう思った。
 そんなことをするくらいなら死んだ方がましだ。
 逃げている容疑者を追えという趣旨のテレビ番組で僕のことが出ているのを、この飯場にいる時に二度見た。
 一つ目の番組は再現映像を流していた。自転車に乗ったリンゼイさん役の外国人に男が走りながらしつこく話しかけている。
 違う。
 事件後の映像では、千葉のマンションの通路を歩いてくる二人の制服警官に僕役の男が体当たりして逃げている。
p191~
 違う。
 実際には、玄関口で四人の私服警官が僕の周りを取り囲んでいた。
 超能力者という外国人女性が番組の中で、僕が事件後、自殺で有名な東尋坊に行ったと話した。僕は東尋坊に行ったことはない。再現映像で出てきた僕役の男の顔は醜かった。
 テレビは僕について自殺したことにしてあきらめたのかな、と考えた。この時にはもう、この手の番組もテレビも信用していなかった。怖いもの見たさで見ていた。
 二つ目の番組は、「新しい市橋容疑者の手配写真に中に女装写真があるのをご存知ですか」というナレーターの言葉で始まった。「実は犯人は事件後、東京都新宿区歌舞伎町のゲイの町に行き、そこで男相手に体を売り、お金をもらっていた」と説明した。そして「市橋を抱いた」と主張する男が顔を隠して、その番組に出ていた。その男は、僕のパンツを記念に持っていて、そのパンツを警察に持っていってDNA鑑定をしたところ、一致しなかった。パンツが臭かったから洗ったせいだと話していた。
 この番組を見て僕は部屋で固まっていた。とても混乱した。
 いったい、こいつら何を言っているんだ!?
 僕はそんなことはしてない!
 そんな所に行ってない!
p192~
 たとえ生きるためだって、そんなことをするぐらいなら僕はもうとっくに死んでる!
 テレビが放送したことはうそだ。僕はそんなことしてないって言いたかった。でも逃げいている僕が電話できるわけがない。やっぱり犯罪者に人権などないんだと思った。逮捕された自分の姿を想像した。こんなデタラメを全国に放送されて、逮捕されれば、人は僕を奇異の目で眺め、さらしものにするだろう。刑務所でどんな目にあわされるかわからない。
 想像することをやめた。絶対に捕まるわけにはいかない、と思った。誰がこんなシナリオを書いたのか。大声でしゃべり続けている番組の司会者が憎かった。
 僕は性的倒錯者じゃない。
 本当は、こんな話は口にするもの嫌だ。でもやってもいないことでさらしものになるのは耐えられない。

第8章 病院
p210~
 大阪の飯場を出てから、新幹線で福岡へ向かった。
 サングラスをしていたので、シートに座っていてもさほど心配ではなかった。
 博多駅のそばにある病院に行った。
 事件前、この病院のホームページを自分の部屋のパソコンで何度かみている。ホームページの手術前・手術後の写真の中に、凹凸のない日本人の顔が手術後は西洋人の凹凸のある顔に劇的に変わっているひと組の写真があって、その変化に驚いて何度も見た。
 取り調べの時、僕が逃げている間、警察は実家の電話に逆探知を付けていたことや、僕の大学での卒論テーマが「東京ディズニーランドの植栽」だったというだけで、ディズ二ーランドの地下道まで捜したという話を聞いて、正直驚いた。でも僕は、逃げている間、知り合いや家族には一度も連絡を取らなかったし、職業や職場、生活する場所も以前の僕とはまったく関係のないものを選んだ。事件を起こす前に自分のパソコンでホームページを何度も見ていた病院に行くことが危険なことはわかっていた。
p211~
 警察はパソコンの記録をチャックして、その病院をマークしているはずだ。だから行かないでおこうと思った。
 それでも、大阪のマンガ喫茶でその病院のホームページを再び見ると、出っ歯を治す手術がほかの病院より安い。七十万余りでできることがわかった。
 ホームページの、劇的な変化を示したビフォー・アフターの写真がずっと頭に残っていた。
 この病院で手術を受ければ、まったく別の顔になれるんじゃないか。
 手持ちのお金でも、この病院なら手術を受けられる。
 事件から二年半が経ってまぁ大丈夫じゃないか、というそれまでにはなかった思いも広がっていた。もうどこにもいく所はなかった。
 早く楽になりたかった。
 大阪の現場を出た時点で決めていた。この病院なら手持ちの九十万円で手術を受けられる。職場に戻るつもりもなかった。
    *
 病院に入る時は。サングラスを取ってメガネをした。礼儀正しく。おどおどした感じでいた。 (p212~)男だから整形手術を受けるのは初めてだという感じで病院に入った。
 受付時に名前と住所と電話番号を書いた。希望の手術を伝えると、受付嬢が手術の流れを説明してくれた。でも、やはりすごく面倒だった。これまでの整形は一日で終わったのに、手術前に歯科医でかみ合わせの模型を作るなどと、面倒なことを言われた。
「それは困る、無理だ」と断った。受付嬢が僕の写真を撮ろうとしたのでそれも断った。
「先生に話だけでもしたら」と言われたので面談をした。
 先生からは「ご希望の手術は出っ歯の人がやるもので、かみ合わせが正常な君には必要ありません」と言われ断られた。
 この病院は、ほかの病院では行っていない眉間を高くする手術もやっていることをホームページを見て知っていた。
 それなら、眉間を高くする手術を受けようと思った。でも、口の手術を断られた後、すぐに眉間の手術をお願いするのは怪しまれると思って、その病院と同じ系列の名古屋の病院に行くことにした。
 今にして思えば、その病院に行ったのが逮捕されるきっかけとなった。偽名を使っていたが、僕が市橋達也である事がわかったのは、その名古屋の病院だった。
p213~
     *
 名古屋には高速バスで行った。バスの中ではサングラスをしていたが、病院に行く時はメガネに替えた。
 病院の受付では、福岡の病院で書いたのとは違う名前、住所、電話番号を言った。職業はフリーターと書いた。メールアドレスも書いた。前もってマンガ喫茶でフリーメールを作っておいた。マンガ喫茶のカードは、保険証なしで福岡の歯医者で治療した時の診察カードを提示して作っていた。
 病院では正面写真と横からの顔写真を撮られた。僕の手配写真には左ほおの二ヶ所に小さなほくろがあることが書かれていたから、沖縄から大阪に向かう時、自分で切り取っていた。そのほくろがある方の写真だけを何枚も撮られた。その時、おかしいなと思った。
 のちにニュースで、この名古屋の病院は僕の二ヶ所のほくろの切除痕を見て警察に通報したと話していた。
 医師から、説明を受けて手術料金の約四十万円を支払った。何日か後に手術を受けた。その間は名古屋のマンガ喫茶に泊まった。福岡と同じ系列のマンガ喫茶店だった。
p214~
 名古屋に来た目的は顔を変える事だけだった。病院に行く以外は、名古屋駅周辺のマクドナルドのソファに座って、本を読んで時間をつぶした。
 夏目漱石の「坑夫」や村上春樹の本を読んだ。話題になっていた『1Q84』や他の本も読んだけど、『海辺のカフカ』という小説が面白かった。小説の主人公の少年の「頭がかっとすると・・・考えるより先に身体(からだ)が動いていってしまう」というせりふを読んだ時、自分と重なった。
 手術後は眉間付近に血がたまる。それを抜くためにチューブを顔に付けて、管に血がたまるようになっていた。看護師から「その状態で過ごして下さい。管とチューブを取るために、もう一度来てください」と言われた。
 どこに泊まっているかを聞かれ、「ラブホテルなんかに一人で泊まっている」と答えた。実際はマンガ喫茶だった。
 管とチューブをニット帽とメガネで隠した。
 もう一度、病院に行くと、「明日、もう一度来てください」と言われた。変だと思って「今日中に血抜きの管とチューブを取って欲しい」と言うと、では、今日の午後、来てください」と言われた。その日の午後に病院で管とチューブを抜いてもらった。
 看護師から「これからどこに行くのか」と聞かれ、僕は「わからない」と答えた。
p215~
 彼女は「紅葉なんかを追いかけるのも楽しいかもね」と話した。抜糸のために一週間後に来るように言われたが、抜糸は自分でやろうと思った。
 福岡に戻り、抜糸までの一週間、ビジネスホテルでゆっくり過ごそうと思った。
    *
 博多では、ビジネスホテルやマンガ喫茶に泊まった。
 眉間には石こうの保護シートと絆創膏が貼られていた。腫れは引いたので、ホテルで知らない人が見ても、けんかをしたのかな程度ぐらいにしか見られなかったと思う。
 一週間ほど経ってから、ホテルの部屋で、自分で抜糸した。
 まだお金はあったので、もう少しゆっくりしようと思った。
 福岡の病院で先生から口の手術を断られた時、僕はがっかりしたけれど、うれしくもあった。僕だって好きで自分の顔を変えたいわけじゃなかった。もう自分でできる整形はこれで終わったと思った。手術の痕がなくなったら、熊本かどこかで仕事を探そうと思った。サングラスをはずして、ホテルの部屋で壊した。サングラスの代わりにメガネをかけた。
 口ひげとあごひげをはやしていたが、口のひげは剃った。
p216~
 ホテルの部屋や、マクドナルドで本を読んだり、中洲の街を歩いたり、市の温水プールで泳いだりした。焼き鳥でお酒を飲ませる店があって、少しのお酒と焼き鳥を食べた。
 ある夜、博多駅の博多口から駅に入ろうとした時、その出入り口付近で、制服警官が大きく拡大した僕の手配写真だけを足元に置いて立っていた。
 おかしい。
 何かおかしい。
 そう思いながら、警察官の前を通り過ぎた。
 駅構内を通って、筑紫口から駅を出た。宿泊しているホテルはすぐ近くにあった。
 ホテルに戻るべきかどうか迷いながら、帰宅帰りの人たちの中を歩いた。結局、周りを確認した後、ホテルに入った。部屋の鍵はその日限りのカードキーで、外出する時もそのカードキーを持ち歩くので、フロントでホテルの従業員と会うことはなかった。
 エレベーターに乗って部屋がある階に着くと、非常階段から下に見える車の動きやバス停の人の動きを確認して部屋に入った。
 ドアを閉め、ドアののぞき穴から外の様子をしばらく見ていた。
 少し経つと、スーツを着た若い男二人と女性一人が楽しそうにしゃべりながら部屋の前の廊下を通り過ぎていくのが見えた。新入社員のように見える彼らを見て少しほっとした。
p217~
 ドアから離れ、部屋の小さな冷蔵庫から買っておいた食べ物を食べて眠った。
       *
 その翌日だと思う。
 朝、部屋を出ようと荷物をまとめていると、つけっぱなしのテレビの画面に、テロップが白文字で流れた。
「二年半前に千葉県で起きた英国人女性死体遺棄事件で指名手配中の市橋達也容疑者が福岡、名古屋の病院を訪れていたことが判明した」
 見た瞬間に固まった。
 心臓がバクバクいっていた。
 画面はすぐCMに入り、僕は部屋のベッドに腰掛けて震えながらCMを見ていた。
 番組が始まると、朝のワイドショーだった。僕の指名手配の写真が画面に出て、僕についてのニュースが始まった。
 逃げるようにチェックアウトした。

p238~
おわりに

 逮捕された後、僕は14日間、何も食べなかった。
 でも死ねなかった。
 死体遺棄の時効が3年だったことは、逮捕されて取り調べの中で初めて知った。その時効の前に捕まってよかった。
 逃げている間、感謝ってどういうことなんだろうってずっと考えていた。
 事件を起こすまで、僕は親や周りの人たちからたくさんのチャンスをもらってきた。でもそのことに気づかなかった。それが恵まれた状況だということを、僕は全然考えようともしなかった。
 逃げていて、そのことに初めて気がついた。
 感謝ということの意味がわかっていれば、自分はあんなことをしなかったのではないか。
 でも結局わからなかった。
p239
 僕は許されないことをした。逃げる前も逃げた後も、僕は結局自分のことしか考えていなかった。
 僕は事件を起こし、怖くなって卑怯にも逃げた。
 逃げることで、もう一度リンゼイさんのご家族、僕の両親、たくさんの人たちを深く傷つけた。
 本当に申しわけありませんでした。

  *リンクは来栖
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〈来栖の独白〉
 市橋達也受刑者がなぜ死と隣り合わせのような逃亡生活を続けたのか、疑問だったが、裁判書類を読み返すことで、私なりの理解を得ることができたように思う。被害者遺族の筆舌に尽くせない辛さ、苦しみに対する「想像力」の欠如だろう。それが知りたくて、裁判書類を読み返した。
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リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件 市橋達也被告 公判 URL 
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職質に「道」あり 「市橋です」市橋達也容疑者の身柄が確保された瞬間だった 2009/11/10
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事件後、市橋達也受刑者の両親とも医師を辞め、姉も嫁ぎ先から離縁 『週刊女性』2015/5/12・19号

        

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ディーン・フジオカ(『I am ICHIHASHI 逮捕されるまで』)を大抜擢した敏腕プロデューサー

   

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吉田修一著『怒り』 書いたきっかけは、市橋達也の事件(リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害)
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