<能楽お道具箱>世を忍ぶワキ方の笠
中日新聞2016/5/14 Sat.夕刊 4面【伝統芸能】
昨年五月にこの連載が始まり、一年がたちました。その間に、能の道具の作り手探しのプロジェクトがひとつスタートしましたので、番外編としてご報告します。
去年の夏、能楽師の御厨誠吾(みくりやせいご)さんから「能で使う塗笠(ぬりがさ)を作る職人さんをご存じでしょうか」という問い合わせをいただきました。楽屋などで笠の作り手について尋ねているが、よい返事がないとのこと。そんな折に、この連載を見て連絡をくださったというわけです。私のほうも複数の能楽師さんから笠で困っている、という声を聞いていましたし、御厨さんの誠実な気持ちにも心打たれ、本格的に動き始めることにしました。
笠の話に入る前に、ひとつ知っておいてもらいたい基本情報があります。能は他の演劇と違うところが多いのですが、舞台に立つ役者に、シテ方とワキ方という耳慣れない区分があります。完全分業制で、主役を演じるのはシテ方だけ。ワキ方は、シテの相手役という感じですが、専業でなくてはつとまらない大事な役割とされています。見た目の特徴は、面(おもて)をつけないこと(シテ方はほとんどの場合、面をつけている)。御厨さんはワキ方の宝生流の能楽師です。
笠はシテ方もワキ方も使いますが、それぞれで形や使い方、呼称も微妙に違っています。ワキ方の笠を理解するために、御厨さんの流派で所蔵する笠を見せていただきました。
まず材料ですが、細い竹を編んで形が作られており、表面には漆が塗られています。形は二タイプ。笠を真横から見たとき、山の稜線(りょうせん)がちょっと反っているものを僧笠、ふくらんでいるものを男笠と呼びます。登場頻度は男笠の方が多く「清経(きよつね)」「望月(もちづき)」「柏崎」などの演目で使われます。「笠をかぶっているということは、世を忍ぶ人物という印です。笠は手に持つ道具の中でも大きい方で、きれいに扱うのが難しいですね。お客さまに笠の裏側が見えないようにするなど、注意点も多く、緊張します」と御厨さん。
道具の継承については御厨さんも心配事が多いようですが「これからの時代は、能楽界だけでなく、さまざまな分野との情報交換も必要」と言います。外部の人間が関わりづらい世界ですから、能楽師自身からの意思表示や発信は重要です。
さて、笠の作り手探しですが、心当たりがありましたので、そちらに依頼し、試作品を作成中です。能楽師からは細かな要望が出ていますので、それを作り手に的確に伝えることや、値段の落としどころなどに苦心しています。少し時間がかかりそうですが、まずはひとつよい笠を完成させたいと思っています。 (田村民子=伝統芸能の道具ラボ主宰)
■「下掛(しもがかり)宝生流 能の会」 御厨さんが所属する流派の主催公演。メインの舞をワキ方が担当する珍しい演出の能「紅葉狩(もみじがり) 鬼揃(おにぞろえ)」など、ワキ方の活躍が楽しめるプログラム。8月10日に東京・宝生能楽堂で開催。
■「三人の会」 若手能楽師による自主公演。能「望月」にワキ方の男笠が登場。御厨さんは能「養老 水波之伝(すいはのでん)」に出演。他に「熊野(ゆや) 村雨留(むらさめどめ)」など。6月25日に東京・国立能楽堂で開催。
■写真「下」 御厨誠吾さんが愛用していたワキ方の笠(左が男笠、右が僧笠)
◎上記事は[中日〈東京〉新聞]からの転載・引用です