「人間」は定義できない。 「文学」で描くしかないのである。 2019/7/1

2019-07-01 | 文化 思索

文学とは 粂川 麻里生(くめかわ まりお)

 紙つぶて  2019/7/1 Mon 中日新聞夕刊

 「文学」というものが昨今はなはだ旗色が悪い。各大学では「文学部」は続々と解体・改組に追い込まれているし、文芸雑誌はどんどん廃刊だ。文部科学省は国語教育から「文学」の要素は極力減らしてゆく構えだ。
 ディランがノーベル文学賞を受賞すれば大騒ぎになり「ハルキは?」とも話題になるが、大多数の方々にとって文学まるでいらないものなのだ。しかし、ちょっと待っていただきたい。皆さんは文学とは何か、おわかりの上でそういう態度をとっておられるのだろうか。
 文科省の役人は、国語科目から減らすべき「文学」とは「フィクション」であると説明した(苦笑)。優秀なる官僚がその程度であるから仕方がないが、本当は文学とは「人間」のことである。古代以来、欧州では文学こそ「神」や「国家」の前で「人間」を担保するものであり続けた(今は欧州人も忘れているヒシもあるが)。うそだと思うなら、「人間」を定義してみていただきたい。どうやっても「人権」とか「自由」の基礎になるような定義は出てこないはずだ。「人間」は定義できない。「文学」で描くしかないのである。
 もちろん、ちゃんと「人間」に挑んでいない現代文学にも責任はある。しかし人間不在の社会運営、高位の人々の言葉の貧困を見るにつけ、近い将来「文学」は立ち上がらなければならないと感じる。(『三田文学』副編集長)

 ◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)

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〈来栖の独白 2019.7.1 Mon〉
 上記事、悲しいが、全く同感である。各大学では「文学部」は続々と解体・改組に追い込まれている…恐ろしいことだ。国、存亡の危機だ。

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