五木寛之氏の『親鸞』 ③ 幼児期との別れ(5)

2008-10-29 | 仏教・・・

2008/10/29 【57】
 幼児期との別れ(5)
(前段 略)
「よいか、タダノリ。そなたは、もう子供ではない。童の姿をしていても、心は一人前の大人。そして、われら、石つぶてのごとき者たちの兄弟じゃ。わしがいなくなっても、世間には仲間がたくさんいることを忘れるな。そなた、名はタダノリでもタダモノではない。笑わぬか。これがわしの最後の駄洒落じゃでのう」
 忠範は笑った。笑いながら泣きじゃくった。(略)
 なにかが変わった、と、そのとき忠範は感じた。自分は一人ではない。不遇な貴族の家の子でもなく、埒の外に放りだされた童でもない。今様に切なる思いを託して、石ころ、つぶてのごとく生きている無数の人びとの兄弟であり、家族なのだ。そう思うと急に気持ちが明るくなった。
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〈来栖のつぶやき〉

なにかが変わった、と、そのとき忠範は感じた。自分は一人ではない。不遇な貴族の家の子でもなく、埒の外に放りだされた童でもない。今様に切なる思いを託して、石ころ、つぶてのごとく生きている無数の人びとの兄弟であり、家族なのだ。そう思うと急に気持ちが明るくなった。

 これが、親鸞という人の思想の真骨頂なのだろう。キリスト・イエスの思想に酷似している。五木さんが惹かれ、私のような者をまで魅了してやまない思想だ。
 ところで、イエスは、次のように言う。

そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(マタイ18,19~)

 釈迦は、次のように言う。

「一つの道を二人して行くな」「犀の角のようにただ独り歩め」

 ここには、人間存在の孤独への究極の認識がある。この見極めなくして“無数の人びとの兄弟であり、家族なのだ”という思想は、支えられない。

「あらゆる生きとし生けるものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、子女を欲するなかれ、況んや朋友をや、犀の角のようにただ独り歩め」常に弟子たちに説かれる世尊の言葉がその背から、ひしひしと聞こえてくる。  瀬戸内寂聴著『釈迦』新潮文庫

 今、私は、ショスタコーヴィチの第5番を聴きながらこれを書いている。この楽曲は、私の抱える「孤独」や獏とした「不安」に深いところで響き、揺さぶって絶妙である。人間存在の孤独の中で致命的な何かが襲ってくるのではないか、という不安。亀山郁夫氏は、ショスタコーヴィチの音楽の本質を「不意の暴力」と評されたが、これも中っている。静謐なアダージョを突如つんざく荒々しい音塊。美しい旋律の流れに割って入り、咆哮する不協和音。轟然と威嚇する管。悲鳴をあげる絃-----。
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