本日は、亀山郁夫さんのドストエフスキー『謎解きカラマーゾフの兄弟』を聞きに行った。今月から半年間、月1回。受講者数は少ないだろうと思っていたが、120~130余人もいただろうか、盛況だった。亀山さんも勿論だが、ドスト・ファンには、特有の熱っぽさがある。他の文学では満足できない、飽き足らない、そう思わせる「文学」がドストにはある。また、聖書とかイエスといったワード抜きにはドストについて語れない(附けたりとして、「音楽」についても併せて語りたくなる)。
何年か前、亀山さんの訳でドストのカラマーゾフが出版されたが、私は書店でそれを見て、ついに購入することができなかった。何かしら、(従来のドストとは)違うものを感じたのだ)。その数年前の出来事を、本日の亀山さんのお話の中で思い出していた。「ドストの文学は、池に例えれば、水が不透明で底が見えない、そういう感じなのですが、私は敢えて透明に書こう(翻訳)、と考えました」と亀山さんは言われた。私が店頭でかなり時間をかけて手にとっていた中から感じたもの(違和感)は、それ(透明感)だったかもしれない。
それにしても、ドストについて思索することは、こんなにも愉しい。ドストの愛好者の語るのを聴くことは、こんなにも愉しい。それは、聖書の時と全く同じだ。ドストは、聖書という下地がなければ理解できない。