「49頭まだ生かしている」49頭によだれなど口蹄疫特有の症状は出ていないという

2010-05-22 | いのち 環境

東国原知事「殺処分の49頭まだ生かしている」
 感染拡大が収まらない宮崎県の口蹄疫(こうていえき)問題で、県が揺れている。
 特例で家畜移動制限区域外に避難させた主力級種牛に感染が判明した22日、東国原英夫知事は突然、いったんは殺処分にしたと説明していた種牛49頭がまだ生きていることを明らかにした。
 種牛として残すよう国に正式に要望するという。防疫体制の確保か、宮崎牛ブランドの維持か。政府の対策本部は難しい判断を迫られそうだ。
 東国原知事は22日、同県西都市に避難中だったエース級種牛「忠富士(ただふじ)」の感染判明を受けて記者会見し、主力の種牛6頭が特例を認められたように、49頭についても「協議の余地はないだろうか」と述べた。知事は忠富士以外の5頭にも感染の可能性があることに触れ、「このままだと宮崎県から種牛がいなくなる。49頭についても遺伝子検査をするので、経過観察を認めてほしい」と険しい表情で語った。
 49頭はもともと忠富士など主力級6頭とともに、県家畜改良事業団(高鍋町)で飼育されていた。県は6頭を避難させた後、49頭について、殺したり埋めたりする過程に入っていると発表していた。
 ところが、この後、埋却地や殺処分に当たる獣医師が足りない問題が浮上。農家側から「県の施設の牛より、農家の殺処分を優先すべきだ」などの声が寄せられ、処分を後回しにしていた。
 県によると、49頭によだれなど口蹄疫特有の症状は出ていないという。
 宮崎入りしている政府現地対策チーム本部長の山田正彦・農林水産副大臣は22日、これについて、今週中にも知事の意向を赤松農相に伝え、協議する意向を示している。
 一方、県の主張に対し、協議を受ける立場の農林水産省内からは早くも異論が出ている。
 ある省幹部は「6頭の避難を認めたのが異例中の異例なのに、さらに49頭の殺処分を取り消すなど、特例を乱発すれば、日本の家畜衛生行政は世界の信頼を失う」と指摘。「宮崎県側の“気持ち”は分からないでもないが、あくまでも省は、情緒ではなく科学的見地から判断すべきだ」と語った。(2010年5月22日22時34分  読売新聞)
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〈来栖の独白〉
 生かしてほしい。人間の勝手、欲望に翻弄されるだけの牛、豚たち・・・。知事も農家の人たちも、どんなに辛いだろう。

夕歩道 牛は古来人間の友だちだった。人も食べる麦を食べに来て、家畜化されたのは新石器時代のころ 
中日新聞2010年5月21日
 牛は古来人間の友だちだった。人も食べる麦を食べに来て、家畜化されたのは新石器時代のころ。文明のゆりかごであるメソポタミアやインド、少し遅れて中国では黄河流域で始まったそうだ。
 その中国の故事に、牛のあえぐに逢(あ)う、というのがある。ある宰相が、春なのに牛が暑さにあえぐのを見つけ、季節の異変を知り、民の暮らしを心配したという。古今、政治家はかくあるべし。
 牛は口蹄(こうてい)疫にかかると体温が約四〇度に上昇、歩かなくなる。今や防疫的殺処分。畜産家は身を切る思い。牛の最初の小さな異変に役人、政治家は敏感だったか。何より民のため心配できるか。
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夕歩道「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」
中日新聞2010年5月18日
 さすがに詩人は物事の本質をずばりと言い当てる。一昨日、本紙のCOP10のシンポジウムに登壇の谷川俊太郎さんは、ややこしい生物多様性をこう述べた。「つまり、いただきます、ですね」 いただきます、は日本語特有の言い方だと谷川さんは言う。試しに和英辞典を引くと、食事を始める前のいただきますは英語では言わない、と書いてあった。神への感謝の祈りはまた別のこと。 壇上で彼は詩を朗読。「うし/しんでくれた ぼくのために/そいではんばーぐになった/ありがとう うし…」。生きものへ、生産者の人たちへ、父母へ、みんなに感謝しつついただきます。
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五木寛之著『人間の運命』(東京書籍)より
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。

五木寛之著『天命』幻冬舎文庫
p64~
 ある東北の大きな農場でのことです。
 かつてある少女の父親から聞いた話です。そこに行くまで、その牧場については牧歌的でロマンティックなイメージを持っていました。
 ところが実際に見てみると、牛たちは電流の通った柵で囲まれ、排泄場所も狭い区域に限られていました。水を流すためにそうしているのでしょう。決まった時刻になると、牛たちは狭い中庭にある運動場へ連れて行かれ、遊動円木のような、唐傘の骨を巨大にしたような機械の下につながれる。機械から延びた枝のようなものの先に鉄の金輪があり、それを牛の鼻に結びつける。機械のスウィッチをいれると、その唐傘が回転を始めます。牛はそれに引っ張られてぐるぐると歩き回る。機械が動いている間じゅう歩くわけです。牛の運動のためでしょうね。周りには広大な草原があるのですから自由に歩かせればいいと思うのですが、おそらく経済効率のためにそうしているのでしょう。牛は死ぬまでそれをくり返させられます。
 その父親が言うには、それを見て以来、少女はいっさい牛肉を口にしなくなってしまったそうです。牛をそうして人間が無残に扱っているという罪悪感からでしょうか。少女は、人間が生きていくために、こんなふうに生き物を虐待し、その肉を食べておいしいなどと喜んでいる。自分の抱えている罪深さにおびえたのではないかと私は思います。
 そうしたことはどこにいても体験できることでしょう。養鶏にしても、工場のように無理やり飼料を食べさせ卵をとり、使い捨てのように扱っていることはよく知られたことです。牛に骨肉粉を食べさせるのは、共食いをさせているようなものです。大量生産、経済効率のためにそこまでやるということを知ったとき、人間の欲の深さを思わずにはいられません。
 これは動物を虐げた場合だけではありません。どんなに家畜を慈しんで育てたとしても、結局はそれを人間は食べてしまう。生産者の問題ではなく、人間は誰でも本来そうして他の生きものの生命を摂取することでしか生きられないという自明の理です。
 ただ自分の罪の深さを感じるのは個性のひとつであり、それをまったく感じない人ももちろん多いのです。(中略)
 生きるために、われわれは「悪人」であらざるをえない。しかし親鸞は、たとえそうであっても、救われ、浄土へ往けると言ったのです。
 親鸞のいう「悪人」とはなんでしょうか。悪人とは、誠実な人間を踏み台にして生きてきた人間そのもです。「悪」というより、その自分の姿を恥じ、内心で「悲しんでいる人」と私はとらえています。(中略)
 我々は、いずれにしろ、どんなかたちであれ、生き延びるということは、他人を犠牲にし、その上で生きていることに変わりはありません。先ほども書いたように、単純な話、他の生命を食べることでしか、生きられないのですから。考えてみれば恐ろしいことです。
 そうした悲しさという感情がない人にとっては意味はないかもしれません。「善人」というのは「悲しい」と思ってない人です。お布施をし、立派なおこないをしていると言って胸を張っている人たちです。自信に満ちた人。自分の生きている価値になんの疑いも持たない人。自分はこれだけいいことをしているのだから、死後はかならず浄土へ往けると確信し、安心している人。
 親鸞が言っている悪人というのは、悪人であることの悲しみをこころのなかにたたえた人のことなのです。悪人として威張っている人ではありません。
 私も弟と妹を抱えて生き残っていくためには、悪人にならざるをえなかった。その人間の抱えている悲しみをわかってくれるのは、この「悪人正機」の思想しかないんじゃないかという気がしました。(中略)
 攻撃するでもなく、怒るでもなく、歎くということ。現実に対しての、深いため息が、行間にはあります。『歎異抄』を読むということは、親鸞の大きな悲しみにふれることではないでしょうか。

五木寛之著『いまを生きるちから』(角川文庫〉より
 いま、牛や鳥や魚や、色んな形で食品に問題が起っています。それは私たち人間が、あまりにも他の生物に対して傲慢でありすぎたからだ、という意見もようやく出てきました。
 私たちは決して地球のただひとりの主人公ではない。他のすべての生物と共にこの地上に生きる存在である。その「共生」という感覚をこそ「アニミズム」という言葉で呼びなおしてみたらどうでしょうか。


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