ユダヤ人はなぜ、ナチス・ドイツの標的にされたのか
PHP online 衆知 2017年09月23日 公開 歴史街道編集部
画像:アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ強制収容所で、ナチス・ドイツが初めてのガス室実験
*今日は何の日 1941年9月23日
1941年9月23日、ポーランド南部アウシュヴィッツにナチス・ドイツが設けた強制収容所において、初めてガス室実験が行なわれたとされます。ユダヤ人を虐殺した惨劇として知られます。今回は、なぜユダヤ人がナチスの標的となったのか、また日本とユダヤ人との関わりについて、少し紹介してみます。
ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、実はナチス・ドイツに始まるものではありません。いわゆる「反ユダヤ主義」は宗教の問題に根ざすもので、イエス・キリストの死後まもなく始まりました。そもそもキリスト教はユダヤ教に起源を持ちますが、その後分離し、キリスト教徒はイエス・キリストを救世主として認めなかったユダヤ人を蔑みました。またイエスが磔にされた責任もユダヤ人にあるとします。
やがてキリスト教がヨーロッパに広がる中、ユダヤ人は「キリスト教を冒涜する存在」として、人々から憎まれました。 職業も自由に就くことができなくなり、やむなくキリスト教徒が嫌がる金融業に従事し、そのためさらに、キリスト教徒から蔑まれていきます。こうした「反ユダヤ主義」は20世紀に入っても根強く存在しました。それを先鋭化させたのが、第一次大戦の敗北で国家が破綻したドイツを、強力な国家へ変えることを謳って頭角を現わした国民社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス党首アドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーはユダヤ人を排除する政策を次々と打ちました。その狙いの一つは、明確な敵を作ることによって、ドイツ国民を一つにすることにあります。またヒトラーは「優生学」に関心を持ち、「優性民族」のアーリア人こそがドイツを支配し、ヨーロッパを統一すべきと考え、「劣等民族」のユダヤ人を迫害、国外に追放することを目指しました。
1938年11月、パリのドイツ大使館で、書記官がユダヤ人青年に射殺されました。 家族をナチスに迫害された恨みを晴らすためのものでしたが、この報せにドイツ国民は激怒し、国内のユダヤ教会堂やユダヤ人商店を襲撃し、90人以上のユダヤ人が殺害されます(水晶の夜事件)。ドイツ国内のユダヤ人追放が加速する中、翌年、ドイツはポーランドに侵攻しました。第二次大戦の始まりです。
ところがポーランドには、200万人以上のユダヤ人が暮らしていました。彼らを追放することは物理的に不可能であり、ナチスは方針を変えて、彼らを強制居住区「ゲットー」に隔離します。「居住区」とはいえ、ユダヤ人の身の安全は保障されておらず、外部との出入りを禁じられて強制労働に従事させられ、さらに極端に少ない食糧しか与えられず、多くの人々が命を落としました。その後、ドイツは1941年6月にソ連に侵攻、ゲットーのユダヤ人をソ連などの東方に追いやろうとしますが、戦線膠着のため頓挫。そこでユダヤ人を追放、隔離ではなく、「処理」することへ方針を転じます。アウシュヴィッツに代表される「絶滅収容所」の登場でした。
「絶滅収容所」は文字通り虐殺のための施設で、主にガスによる大虐殺(ホロコースト)が行なわれていきます。他にも餓死、銃殺刑、絞首刑などが行なわれました。第二次大戦中、総計およそ600万人のユダヤ人がナチスに命を奪われたといいます。ドイツと、ほぼ時を同じくしてソ連がポーランドに侵攻、ユダヤ人たちは必死に国外逃亡を図りました。そのうち北のリトアニアに向かった彼らが目指したのは、日本領事館です。
日本人はユダヤ人に対して何の偏見も持たず、むしろ日露戦争で、ユダヤ人資本家シフが戦時国債を購入してくれたことに感謝していました。 また第一次大戦後のパリ講和会議で、「人種差別撤廃条項」を提案した世界で唯一の国が日本です。日本人もまた、アメリカが排日移民法で日本人を排斥するなど、差別の対象とされていました。いわば日本人にとってユダヤ人は、親近感のわく存在でもあったのです。ただしこの時期、ソ連の共産主義に対する警戒から、日本はドイツと接近しており、あからさまなドイツの政策に反対する行為は、国として判断が難しい部分がありました。そうした中で、ポーランドからリトアニアに押し寄せたユダヤ難民が求めるビザ発給に対し、苦悩しつつも決断を下したのが、リトアニア領事代理の杉原千畝なのです。
◎上記事は[PHP online 衆知]からの転載・引用です
アウシュビッツで身代わりとなったコルベ神父・ポーランドと日本との絆とは
PHP online 衆知 2014年03月04日 公開 歴史街道編集部
『歴史街道』2014年3月号[総力特集]ポーランド孤児を救え!
悪名高きアウシュビッツ収容所で、博愛の精神と信仰を貫いたポーランド人がいた。マキシミリアノ・コルベ神父。彼は、伝道で日本とも深く結ばれた人である。同囚の元ポーランド孤児が目のあたりにした神父の姿とは。
■ポーランド孤児を救え!
「兵藤大使、これをご覧いただけますか」
平成7年(1995)10月、日本大使公邸に招かれた元孤児の老人の1人が、兵藤長雄大使に腕をまくって見せた。皺だらけの腕に、なおもハッキリと刻まれていたもの、それは
「16658」という番号の入れ墨であった。
「私は政治犯としてオシフィエンチムの収容所(アウシュビッツ収容所)に入れられていました。そこで、あのコルベ神父と一緒だったのです。コルベ神父の囚人番号は私と12番違いの16670でした」
実は、抵抗運動に身を投じてナチスに捕まったこの孤児は、マキシミリアノ・コルベ神父と偶然同じ日に、ワルシャワの刑務所からアウシュビッツに移送されていたのだった。そしてこの悲劇の地で、コルベ神父の気高い姿の一部始終を目撃していたのである。
ワルシャワから移送される日、この孤児やコルベ神父はじめ多くの囚人が、鉄道貨車に詰め込まれた。中は真っ暗で臭気も強く、息が詰まりそうだった。すると傍らのコルベ神父が静かに讃美歌を歌い出したのだという。貨車の中はいつしか、讃美歌の合唱となった。元孤児は、この時の歌声が忘れられないと兵藤大使に語った。
そして、アウシュビッツで事件が起きる。1941年7月末、この孤児やコルベ神父と同じ号棟の囚人が脱走したのである。1人脱走者が出ると、同じ棟の10名が処刑される決まりだった。しかも処刑法は陰惨を極めた。座ることもできないような狭い懲罰牢に押し込められ、食べ物も水も一切断たれ、餓死させられるのだ。その苦しみは、言語に絶する。
この時も、無作為に10人が選ばれた。1人ずつ番号が読み上げられていく。すると番号を呼ばれた1人が自らの不運を嘆き、「ああ妻や子供に会いたい」と泣き叫んだ。
その時、コルベ神父が進み出た。何をするのかと息を呑む周囲の人々の面前で穏やかに、しかし毅然と、こう申し出たのである。
「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、あの方の身代わりになりたいと思います」
そして、懲罰牢の中に消えていったのだった。
コルベ神父は一緒に処刑される餓死刑者のためにひたすら祈り、讃美歌を歌った。1人、また1人息絶えていく中で、なお彼は意識を失わず生き続けた。2週間後、さすがに見かねた収容所の医師により薬剤を注射され、天に召される。その時、彼はなおも祈り続けながら自らの手を差し出したという。1941年8月14日没。47年の生涯だった。
実はコルベ神父は、1931年から36年まで日本の長崎で伝道活動を行なっていた。コルベ神父と共に布教活動を行なったゼノン・ジェブロフスキ修道士(ゼノ修道士)は、その動機をこう語っている。
「孤児を助けるために一番よく働いたのは日本の赤十字です。そのとき、ポーランド人は初めて日本の国を知りました。ポーランドの司教さまは、日本の国のため祈るようすすめました。コルベ神父さまは、日本人に聖母マリアを知らせたいと思いました」(小崎登明『長崎のコルベ神父』聖母の騎士社)
日本に関心をもった大きなきっかけは、日本のポーランド孤児救出にあったのである。そのことを、元孤児の方はご存じであったろうか…。
長崎でコルベ神父は『聖母の騎士』という雑誌を発行した。6年間の布教活動で、同誌の発行部数は6万3500部に達したという。
彼は日本をこよなく愛していたが、ポーランドの修道院の院長への就任を命せられ、帰国したのだった。
ゼノ修道士はコルベ神父の離日後も日本で活動を続けた。長崎の原爆で自らも被爆しながら、なお被爆者救護に当たり、戦後も「ゼノ、死ぬ暇ないね」と口癖のように語りつつ、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽力した。1982年4月、永眠。
平成14年(2002)7月、ポーランドを公式訪問された天皇陛下は、ポーランド大統領夫妻主催晩餐会でのお言葉の中で、とくにコルベ神父とゼノ修道士に言及され、2人を讃えられたのであった。
「貴国と我が国の交流の歴史の中で、1931年から数年にわたって、我が国の長崎で人々のために力を尽くされたコルベ神父を忘れることはできません。その生涯は、コルベ神父に従って我が国を訪れ、その後50年以上にわたって、終生を我が国の戦災孤児の救済などに捧げたゼノ修道士の一生とともに、今も、折に触れ、日本の人々に思い起こされております。人生の最後の瞬間まで博愛の精神を貫いたコルベ神父や、当時の筆舌に尽くし難い苦難の中で命を失った数知れない人々に思いを致す時、あのような悲劇が、人類によって、二度と再び引き起こされてはならないとの切なる思いを新たにいたします」
◎上記事は[PHP online 衆知]からの転載・引用です
◇ コルベ師は「最も大切なお仕事をして下さっている人の部屋です」と云って、或る病人の部屋に案内した〈来栖の独白2017.9.14〉
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