“虚構”はマスコミを通じて大音響となり、首相からおばちゃんまで皆が「政治とカネ」と言う

2011-01-10 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア

ニュースの匠:「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎
 正月期間中、箱根駅伝以外ほんとうに見るべきテレビ番組はありませんでした。しかし、まったくなかったわけではありません。2日NHK衛星第1で午後8時から2時間放映された「アメリカ同時多発テロから10年 歴史学者J・ダワーが“テロとの戦い”の真相に迫る▽世界は平和を実現できるか」は十二分に見応えがありました。
 ダワー氏は、アメリカの現状は極端なナショナリズムを“愛国主義”に置き換えイスラム教徒を排除しようとしていると指摘したうえで、「イラク戦争は間違いだった」と断言しました。しかし、愛国主義一色でアメリカが染め上げられていたとき、アメリカで「イラク戦争に反対」と言うことには勇気のいることも事実なのです。社会が雪だるまのように転がり始めたとき、「NO」と言ってその前に立ちふさがるのは困難です。私は番組を見ながらそう強く思うと同時に、日本で今起きている現象に思いをはせました。
 「政治とカネ」。このキーワードは菅直人首相はじめ与党議員から自民・公明の野党議員、さらに新聞・テレビ・雑誌の全マスコミ、そして一般市民の7割以上が普通に使い、小沢一郎氏に説明責任を迫っています。小沢氏への追及が始まった西松建設違法献金事件、そして資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件。私自身はこの二つの事件を巡る東京地検特捜部の動きとマスコミの連動を当初から検証していますが、特捜部が見立てをし、その通り捜査を行ったものの、結局はその見立ては何ら証明されず、最後は不起訴に終わった、いわば“巨大な虚構”に過ぎませんでした。
 しかし、“虚構”は転がる過程でマスコミを通じて大音響のこだまを生じさせ、首相から大阪のおばちゃんまで、何かといえば「政治とカネ」というようになりました。小沢氏のどこが、なぜ問題なのか? きちんとした検証抜きのレッテル貼りは、言葉のファシズムではないのでしょうか。
毎日新聞 2011年1月10日 東京朝刊


マニフェスト撤回の『民主党』と、小沢叩きに血道をあげる『記者クラブメディア』への抗議デモ 
市民デモ 「記者クラブ解体・国民の生活第一」田中龍作ジャーナル
 政権交代を勝ち取ったマニフェストを国民に断りなく変えようとしている民主党と「小沢叩き」に血道をあげる記者クラブメディアに対して、市民たちが10日、都心で抗議のデモを行った(主催:「1・10 国民の生活が第一デモ」実行委員会)。
 一昨年夏、「コンクリートから人へ」を掲げて総選挙に臨んだ民主党を有権者は支持した。小泉・竹中以降の自民党政権でガタガタにされた国民生活が少しでも良くなればとの思いからだった。
 ところが民主党政権になってもちっとも生活は上向かない。そればかりか菅首相は参院選で有権者から「ノー」を突きつけられた消費税増税を性懲りもなくマタゾロ言い出す始末だ。
 国民の窮状などお構いなしで権力闘争に明け暮れる政治に市井の人々は絶望し、さらには憤慨している。
 それもそのはず。政治家が向いているのは国民ではなく記者クラブだからだ。庶民の生活は一顧だにされないのである。官邸や霞ヶ関と利害を同じくする新聞・テレビは連日連夜の「小沢バッシング」だ。最近では「増税やむなし」を当たり前のように唱え始めた。
 「菅政権」「記者クラブメディア」「霞ヶ関」の利害が重なり合っていることは、これまで拙ジャーナルで幾度もリポートしてきた。
 10日の東京はこの冬一番の寒さとなった。身もすくむような冷たい風が吹くなか関東一円から約1,000人がデモに参加した。愛知県 みよし市から駆けつけた会社員の男性(50代)も。男性は「マスコミの報道が許せない。じっとしておれなくて来た」と肩を揺すりながら話した。
 筆者は片っ端から参加者にインタビューした。参加者全てと言ってよいほど共通していたのは、記者クラブメディアの報道に対する怒りだった。都内在住の男性(50代)は「小沢さんの事件の経緯をたぐると記者クラブ問題に行き着く」と目を吊り上げる。
 ほとんどの参加者は、総務省記者クラブがフリージャーナリストを排斥しようとしていることを知っている。
 幽霊よろしく白装束をまとった男性(50代・練馬区)の姿もあった。世論は死んだというアピールだ。男性は「マスコミは真実を伝えていない」と淡々と語った。
 デモを見る限り新聞・テレビ離れが進んで当然の状況があった。既得権益を守るために記者クラブで徒党を組み、小沢氏を政治的に屠ろうとしているのである。国民はそれを見抜きつつある。
 「民主党は政権交代の原点に帰れ」「記者クラブを解体せよ」・・・晴れ着の女性が行き交う六本木交差点にシュプレヒコールが響いた。
 成人の日のデモとなったが、日本の政治とマスコミが大人になる日はまだ遠いようだ。

ニュースの匠:「市民の力」は正しいか=鳥越俊太郎
(毎日新聞 2010年10月4日 東京朝刊)
 大阪地検特捜部をめぐる証拠改ざん事件の報道は、朝日新聞の鮮やかなスクープでした。今回の事件は単に過去の事実が明るみに出たということにとどまらず、今後の検察の捜査やメディアの報道のあり方に影響を与える、それほど強烈なものでした。
 その朝日新聞の9月19日付朝刊の社説で私が実名入りで批判の俎上(そじょう)にのせられているのもちょっとした驚きでした。政治家や団体の責任者など公的立場の人間ではなく、メディア関係者とはいえ一民間人の私の名前を取り上げるのは社説の中では異例です。まあ察するに、私が当コラムで取り上げた朝日新聞の社説「あいた口がふさがらない」についてのカラシがちょっと効きすぎたのか、社説子にはお気に召さなかったんでしょうね。
 社説の関係部分を引用します。
「市民の力を信じる--。ごく当たり前の話なのに、それを軽んずる姿勢が、社会的立場の高い人の言動に垣間見えることがある。
 裁判員と同じく一般の市民がかかわる検察審査会制度について、小沢一郎氏が『素人がいいとか悪いとかいう仕組みがいいのか』と述べたのは記憶に新しい。ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は新聞のコラムで『“市民目線”と持ち上げられてはいるが、しょせん素人の集団』と書いた」

 私は市民の力を信じてはいない。
 市民、世論、民衆、大衆--こうした存在こそ、実は一番恐ろしいと思っています。日本という国は“世論”という名の下に、一方向にぶれやすい“文化”を抱え込んでいます。その最たるものが、「一億総火の玉」で突き進んだ日中戦争から太平洋戦争に至るプロセスです。
 検察審査会といえども「市民の力」という言葉だけで信じるわけにはいかないのです。正しい市民もいれば、間違いを犯す市民もいる。それをチェックするのが私たちメディアの仕事なのですから。

品位欠く「朝日社説」の鳥越氏批判2010-11-10 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。