『死刑弁護人 生きるという権利』と勝田清孝とロゼ・コンサート

2008-05-16 | 死刑/重刑/生命犯

 昨日(05/15)、ブラスアンサンブル・ロゼのモーニング・コンサートに行った。今週初めから安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』を読んでおり、その内容で頭が一杯で、正直コンサートの気分ではなかった。本の多くの箇所が私の胸に突き刺さり、烈しく動揺させている。悔恨させる。清孝の切ない心情に重なる。清孝だけではない。多くの重刑相当被告人に共通する切ない思いだろう。安田さんは、次のように書く。
“ 一般にこうした大きな事件では、最初から被告人の責任能力の欠如を持ち出す弁護人が多い。事実については検察の言うがまま、争わないのである。それにはいくつかの理由があるが、一つには、被告人が事実関係について語らないケースが多いからだ。語らないというよりも、あまりにも大きな犯罪を起こしてしまったという、結果の重大性に自分自身が圧倒されてしまっている。
「何でこんなひどくむごいことをしてしまったのか」と、痛恨の思いで烈しく自分を責め立てる。「すべての非難を受け入れ、いっさい反論や弁明をしない。そうすることがせめてもの自分自身の誠実さの証であり、責任の取り方である」---そういう思いから、警察・検察が作り上げた物語がいかに不自然でも、そのまま飲み込んでしまうのである。
 だからこそ、死刑事件にあっては、ことさら事実関係を徹底して吟味しなければならない。事実といっても、単に殺したか否かというだけではない。凶器を持って刺す行為、その一挙手一投足に至るまで「事実」であり、その間にめまぐるしく入れ替わる心の一つ一つの襞まですべて大切な「事実」なのである。これらの一つ一つに喰らい着いてはじめて事件の全体像が明らかになるし、明らかになった事実をじっくりと腹にためて、醗酵させてはじめて「真実」がわかる。もし責任能力論を持ち出すなら、このような真実の発見を経た後でないと、精神鑑定の前提となる事実がゆがめられてしまう。”
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 上記に重なる記述が勝田清孝の上告趣意書にある。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/modoshi-kiyotaka.htm
“ なにより大罪を犯した私でありますゆえ「悪く書かれてもしゃあない」といった自らを断罪すべく神妙な気持が存念し、純然たる悔悟の念がひたすら強かったものですから、真実を強調するにもおこがましさを意識してしまい、弁明の意欲すら見出し得ない心境だったからなのです。それほど深い自己嫌悪に襲われ良心の呵責に苦しめられていたのです。”
 こういう被告人であったから、私たちが出会った控訴棄却の時点で勝田は上告しないつもりでいた。せっかちな勝田は、「上告しないのだから、余命幾ばくもない」と判断して、領置金を消費してゆく生活であった。私は、上告するよう懇願した。「事件の真実、被害者との真実を明らかにしてください」と懇願した。やっと、上告趣意書を書いてくれた。以下(部分)である。
“ 上告した私は、自分の罪業を棚に上げて憐察と刑の減軽を求めたり、自分を有利に導きたくて申し上げているのでは決してありません。 これだけの大罪を犯した私ですから、自分に否認する資格のないことは重々わきまえているつもりです。否認なんかではなく、調書は迎合だから真実ではないと私は正直に訂正を申し上げているのです。是非とも判ってください。
 日々深い良心の呵責に囚われ、贖罪に徹するという使命を自覚しながらもその道を固く閉ざされて落胆する今の私に、虚言を弄して生き延びようなどとさもしい魂胆は天地神明に誓ってありません。”

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 勝田の「痛恨の思いで烈しく自分を責め立てる」姿勢は、厳しかった。「大罪を犯しながら生き延びたいのか」と社会から見られることを強く恐れ、死刑廃止運動体の接触も固く拒んだ。そのため、私も神経過敏となって運動体との接触を忌避するようになり、安田さんたちを色眼鏡で(やったこと=犯罪を棚に上げて、生きる権利を主張するのかと)見るようになった。・・・今になって、深い悔いが私に残る。しかし、あの頃は、あのようにしか生きられなかった、とも言い訳のように振り返る。
 アンサンブル・ロゼの演奏。2曲目は「目覚めよと呼ぶ声あり」(J.Sバッハ)だった。普段聴いているオルガンの調べではなく、ブラスの演奏であったことから、私には、覚醒を呼びかけられているような気がした。目頭が熱くなった。こんなことは、珍しい。いつも、音や演奏を愉しむのに・・・。
 古い古い記憶が蘇ったのは、音楽物語「100万回生きたねこ」である。清孝がまだ未決の頃、Sr.Kが「清孝さんに読んで貰いたい」と、この絵本を差し入れしてくださったことがあった。綺麗で可愛い本であった。しかし、清孝はこの本を突っ返した。「何や、書いてあることの意味がわからん。何で、俺に読ませたいんや」と立腹した。何を勘繰ったのか、何に猜疑を募らせたのか、何が辛かったのか、悔しかったのか、私には解らなかった。そんな記憶を蘇らせながら、演奏とナレーションに耳を傾けた。
 芯からの悪人、極悪人なんて、いないのではないだろうか、と清孝を見ていて痛感した。清孝は、終に悪(ワル)を演じきることが出来なかった。宅間死刑囚は、ワルを演じきって逝った。小林薫氏は、ワルに徹しきれないで揺れている。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/narajoji.htm 
 安田さんが『死刑弁護人 生きるという権利』のなかで描く被告人の姿は、どの人も似通っていて、切ない。逮捕後は、この世へ対する極端なまでの遠慮を抱えている。
 藤原清孝が逝って7年が経った。安田さんたちの深い愛に教えられ、やっと私は言える。「死刑は、いけない」。「死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う」と。
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/tegami9.htm
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 M神父からお頼まれして、月1~2回、T教会の主日のミサでオルガンを弾くことになった。本年4月から修道院のミサに与っており、私としてはこの生活が精神安定上申し分ないので一旦はお断りしたのだが、再度要請され、恐縮してしまい、お引き受けした。5月11日、初めて行ってみたが、オルガンの音色が頗る悪い。


2 コメント

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場と感性から出た言葉 (ゆうこ)
2008-05-19 08:55:30
akiraさん。コメント、有難うございます。akiraさんのほうの
>沖縄米兵ー軍法会議で有罪
のエントリ、拝見しました。取り紛れて、この新聞記事、気になりながら読んでなかったので、有難かったです。ありがとう。

>私の背景を
>私はきっと、死ぬまで考え続けて行くのでしょう。
 読ませていただきました。人は誰しも、死ぬまで考え続けて行く、そういうものをもって生きているのかもしれませんね。

>「人を叩いてはいけない」と言って子どもを叩いても、その子に伝わるのは「理由があれば人を殴っても良いのだ」ということだけです。
>暴力の連鎖を止めたい。が私の悲願です。
 思わず、そうだ!とつぶやいていました。仰るとおりだと思います。
 死刑制度も、それを是とする「理由」も「例外」も存在しないと思います。
 akiraさんのおっしゃることは、建前とか理屈を超えて、akiraさん御自身の場と感性から出た真実だろうと思います。だから、正しいのでしょう。

>オルガンの音、調整できたらよいですね。
 昨日ミサの前後で、あっちこっちいじりまして、何とか設定できました。限界はありますけど。
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つながってる (akira)
2008-05-17 01:58:04
先日は、丁寧な返信ありがとうございました。
ひょっとすると私のblogを読んで頂いたかもしれませんが、私の背景を書かせて頂きますね。

時系列は前後していますが、簡単に言うと・・・。
幼少時より親からの虐待を受けて育ちました。その後、我が子を虐待してしまいました。
20年ほど前に、当時のパートナーから殺されそうになり何もかも捨てて逃げました。
その1週間後に同じような事件で親友が殺されました。

加害・被害両方の体験を持つものとして自助グループを主催し、現在は両方のケアに当たる(心療内科勤務)カウンセラーを職業としています。

リンクを含めて記事を読ませて頂きました。
ただただ、涙が溢れてきます。

「人が人を殺めるのは良くないこと」そんな単純なことが私の倫理観です。
それがたとえ国家であったとしても。

「人を叩いてはいけない」と言って子どもを叩いても、その子に伝わるのは「理由があれば人を殴っても良いのだ」ということだけです。
暴力の連鎖を止めたい。が私の悲願です。

加害者として、また、被害者として何が出来るのか。
私はきっと、死ぬまで考え続けて行くのでしょう。

追伸:オルガンの音、調整できたらよいですね。
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