山口 周南 連続殺人・放火事件 保見光成死刑囚が弁護士にも語らなかった“田舎暮らしの地獄” 2019/7/25 週刊新潮

2019-07-25 | 死刑/重刑/生命犯

山口「八つ墓村事件」、保見光成死刑囚が弁護士にも語らなかった“田舎暮らしの地獄”

 2019/7/25(木) 11:00配信 デイリー新潮 

   保見光成死刑囚 

田舎暮らしブームに警鐘
 最高裁は7月11日、保見光成(ほみ・こうせい)被告(69)の上告を棄却した。山口県周南市で5人を連続殺害し、2軒の民家を放火。殺人と放火の罪に問われ、死刑となった一審と二審の判決が確定した。これで「保見被告」は「保見死刑囚」となる。
『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)などの著作がある、移住アドバイザーの清泉亮氏は、この3年間、手紙や面会で保見死刑囚と交流を持ってきた。その知られざる素顔や、大手メディアが報じない事件の原因、何よりも事件が浮き彫りにした田舎暮らしブームの“盲点”を、清泉氏がレポートする。

 山口県周南市金峰にある保見光成・死刑囚の自宅の鍵は、現在、本人と相談し、私が保管している。今では、彼が守ってきた両親の墓を折々に供養しているのも私、ということになる。
 事件は2013年7月、周南市の金峰郷で発生した。住民は僅か8世帯14人の限界集落。1晩のうちに71歳から80歳までの女性3人と男性2人が殺害された。どの遺体にも鈍器で殴られたような外傷があり、頭蓋骨陥没や脳挫傷が死因だった。
 更に2人の被害者が住む家が全焼。捜査を行った山口県警は殺人・放火事件と断定。全焼した家の隣に保見死刑囚が住み、そこに「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の張り紙があったことなどから、家宅捜査を行い、重要参考人として行方を捜した。
 火災発生から6日目、保見容疑者は下着だけの姿で山道に座っていたところを県警の機動隊隊員が発見。任意同行を求めて事情聴取を行った上で、殺人と非現住建造物等放火の容疑で逮捕した。
 平成史に残る凶悪事件として、今も記憶に新しい。精神鑑定が2回も行われたことからも分かるように、裁判では保見死刑囚の責任能力が主要な争点となった。
 その一方で、保見死刑囚が5人を惨殺した動機については、3回の裁判で全容が明らかになったとは言い難い。事件直後から、集落をあげてのイジメがあったとの報道は少なくなかった。しかし公判では認められず、イジメはなかったとの結論に達している。しかし、そうだとすれば、なぜ彼が5人を殺害したのかという直接的な動機は失われてしまう。
 保見死刑囚は、多分に誤解を招きやすい人物である。事件後についた国選弁護人とは一審段階からまったく話が噛み合わず、自身の弁護方針や主張の論点についても、最初から最後まで弁護人らと信頼関係が構築された節はない。
 私のところに保見死刑囚から手紙が届いたのは、16年8月のことだった。高裁判決の直前というタイミングだった。
 面会に行くと、私に手紙を送った理由を「あなたの本を読んだ。真面目な人だと思った」などと説明した。それからの3年間、私の元には多くの手紙が送られてきた。段ボール箱から溢れるほどの量になった。
 事件のことだけでなく、内容は多岐にわたった。幼少期の回想、集団就職で東京に出てからの自分史。初恋や、その後の恋愛……。彼の手紙には、彼の人生が丸ごと記されていた。面会だけでなく、私が返事の手紙を書くことで、無数の“対話”を積み重ねてきた。
 最高裁に上告するまでは、保見死刑囚が他の報道関係者と連絡を取った形跡はなかった。唯一の例外が私だった。
 だが、弁護人と意思疎通が難しい状況に業を煮やしたのだろう。最高裁への上告を前に、それまでの沈黙から一転、地元山口県のテレビ局から、在京の週刊誌まで、一方的に自分の主張を書き連ねた手紙を送り始めた。
 保見死刑囚は、びっしりと主張を書き込んだ直筆の手紙を、私に送ってきた。「これをコピーして送り返してほしい」と枚数も指定した。マスコミ1社1社に手紙を書く時間が惜しかったのだろう。“基本形”となる手紙を書き終えると、後はコピーを各社に送付しようとした。
 私は何度も「メディアは決して、あなたの思惑通りには動かない」と忠告した。だが、保見死刑囚の決心は固かった。孤独な獄中で、それで少しでも心が落ち着くのなら、と私は協力することにした。手紙を複写し、ノートや封筒を差し入れた。
 最高裁が上告を棄却すると、ネットメディアも含め、保見死刑囚の手紙や面会の内容を元にした多くの記事が掲載された。粗野で乱暴で、頭の中は“妄想”で満ちている――。そんな人物像を一部のメディアやジャーナリストは書きたてた。そうした記事を保見死刑囚に送ると、後悔の念や嘆きが手紙に記されて送られてきた。
 私は、こうした報道を否定するつもりはない。保見死刑囚が5人の命を奪った事実はあまりに重い。彼を擁護するつもりもない。
 とはいえ、保見死刑囚が持つエキセントリックな一面を、まるで全人格の象徴であるかのように取り扱った報道が行われたのは事実だ。それは正確な報道ではない。この原稿で私は、3年間の文通や面会で知った、保見容疑者の素顔を丁寧に記してみたい。

記憶を「被害妄想」と結論された無念
 先に述べたように、保見死刑囚は多分に誤解を招きやすい人物である。どちらかと言えば内気な性格で、コミュニケーションにおける表現力は乏しい。還暦を過ぎた男にしては、その性格はあまりに無垢で純粋だ。
 中学卒業と同時に集団就職。それから30年が経ち、両親の介護のため故郷にUターン。43歳の時だった。介護の日々を彼はこう振り返っていた。
「両親とも認知症です。そのほか色んな病気がありました。父に一番苦労しました。耳も聞こえません。ジェスチャーだけです。手を抜くことができません。母は痰を吸引しなければいけません。眠れませんでした。昼、デイサービスがくるので、その間、寝ていました。もちろん、おしめも換えます。慣れると簡単です。洗うことはありませんから」
 介護の経験は、彼の“死生観”にも影響を与えたようだった。
「毎日病人と一緒だと、私自身、人の手を借りてまで生きようとは思わなくなった。それと私は若い時から、死ぬ時は田舎で、と思ってました。両親を看取って、75歳くらいまで生きたら、父親の生まれた近くで穴を掘って入ろうと思ってました」
 田舎暮らしを重ねるにつれ、保見死刑囚の苦悩は深まっていった。20年近い故郷での生活の末、5人殺しの惨劇が起きた。
 今、田舎暮らしは、大変なブームになっている。移住者の数は増え続ける一方だ。保見死刑囚が体験した悲劇は、どんな移住者にも貴重な“教訓”を教えてくれている。誰もが同じ体験を味わう可能性がある。まさに「今、ここにある危機」だ。
 保見死刑囚に粗野で自己中心的な側面があるのは事実だ。弁護団は一貫して、彼を「妄想性障害」の持ち主として扱った。だが、その内面は実に繊細だ。そして、こちらが驚かされるほど相手を観察している。
 強い印象に残ったのは記憶力。彼は事件当夜から山中への逃避行の間――草木1本の位置や正確な時刻さえも――何から何まで鮮明に覚えていた。手紙や面会で詳細な証言に触れるにつれ、「本当だろうか?」と疑問が湧いた。
 私は殺害現場から任意同行された場所まで、GPSを片手に確かめて歩いてみた。結果から言えば、証言の全ては完全に正確だった。記憶力に関しては、ある種の特殊な才能を感じたほどのレベルだった。
 自分が殺害した5人の被害者とのやり取りも――帰郷して“田舎暮らし”が始まった約20年間分を――鮮明に覚えている。保見死刑囚にとって最大の無念は、その全てが「妄想性障害」と判断されたことだった。単なる被害妄想と片付けられてしまったのだ。
 彼が思い込みの強いタイプであることは否定しない。だが、彼ぐらいのレベルは、世間のどこにでもいる。さらに、思い込みが強いからといって、彼の話が全て嘘であるはずもない。必ず真実が含まれている。そこには注意が必要だ。
 例えば、高齢の方をインタビューする際、私たち取材者は何度も同じ質問を繰り返し、ゆっくりと事実関係を確認していくのがセオリーだ。こちらの呼吸と相手の呼吸が合わないと、誰も心情を吐露したりしない。私は保見死刑囚も似たアプローチが必要な人物だと考えていた。
 保見死刑囚の誕生日、私は自宅で「お誕生日おめでとう」とのプレートをホールケーキにつけ、火をともしたキャンドルを載せたところを写真に撮って送った。彼は「誕生日をお祝いしてもらったのは人生で初めて」と、いささか大仰な返礼の手紙を送ってきた。
 彼の要望に応じて自宅に足を踏み入れ、衣類などを拘置所に届けたこともある。そして、飼っていた犬の供養も――。
 山中で県警の機動隊員に発見され、任意同行を求められた1分後、彼の愛犬は突然に心臓発作で死亡している。不思議な偶然と言っていいだろう。名前はオリーブ。犬種はゴールデンレトリーバーだった。
 私はオリーブの墓前に食べ物や花、たっぷりの水を供えて線香をあげた。そして保見死刑囚に送ろうと写真を撮った。見ると線香の煙の中にオリーブの輪郭がくっきりと現れていた。心底驚かされた。心霊写真の類であり、目の錯覚と言われれば返す言葉はない。
 それでも拘置所の面会室で、私たちを遮るアクリル板越しに写真を見せると、保見死刑囚は滂沱の涙を流した。私もつられて泣いた。何と“監視役”として面会に立ち会っていた拘置所職員でさえ、その目にはうっすらと涙がにじんでいた。
 保見容疑者は、両親の介護に半生を捧げた。独身で、妻も子供もいない。愛犬が我が子そのものだった。そして彼は裁判で「愛する犬を集落の人間に毒殺された」と主張していた。オリーブの前に飼っていた犬で、名前をチェリー。本当に毒殺されたのなら、保見死刑囚が復讐を誓った心情は理解できる気もした。
 裁判では他にも「草刈り機を燃やされた」、「母親の介護でおむつを交換していると、自宅の中に入ってきた住民に『うんこくせーな』と暴言を吐かれた」といったイジメの事実を主張した。自分だけでなく、母親も侮辱されていた。しかし保見死刑囚は、介護に集中しようと、嫌がらせや暴言に耐えていたという。
 こうした保見死刑囚の訴えを、裁判は「妄想」と一蹴した。だが私の取材では、同じ集落の中でもイジメの事実を認める証言が多数ある。
 例えば、都会で施錠しない家は稀だ。しかし田舎では、カギをかけないどころか、窓をカーテンで覆っただけで不興を買う。「カギなんかかけやがって」、「カーテンなんかしやがって」と強烈な陰口を叩かれる。
 戸締まりを厳重にし、カーテンでプライバシーを保護することは、田舎では「隣人を信用していないサイン」と見なされてしまう。だから、他人が突然、無施錠の玄関を勝手に開けて家の中に入り、居間に出現することは決して珍しくない。
 保見死刑囚の「自宅に勝手にあがりこみ、おむつの件で母親と自分に暴言を吐いた」という証言は、だからこそ私は信憑性を感じる。だが、おそらく都会で生まれ育った裁判官は、そんな状況は想像すらつかなかったのだろう。
 面会に訪れた私に、保見死刑囚は「死刑になるのは、さほどこだわってはいません。ただ、負けるわけにはいきません」と繰り返し語っていた。
 
心臓付近を刺された死刑囚 
 保見死刑囚の20年に及ぶ田舎暮らしの中で、03年に大きな“事件”が発生している。集落の古老による“殺人未遂”事件だ。彼の手紙から当時の状況を紐解く。
《母が12月26日に亡くなり、S(今回の事件で殺害した男性)が顔を出しに来たので、1月3日にお礼の挨拶に行きました。Sもよく来たといって酒をすすめ、私はビール、Sは焼酎に牛乳を入れて飲んでいたら、酔ってもいないのに台所の下から牛刀2本を出して『おまえケンカができるか』と聞いてきた。いい年してこの男、何を考えているのかと思いました。私が田舎に帰ってきて、はじめて話らしい話をした日です。
 1本の牛刀をアゴの下にあて、もう1本は左胸に。私は本気で殺る気かと聞くと、殺っちゃると言ったので、体をひねりました。その時心臓の外側を刺されました。刺されたあと、私も頭にきたのだと思います。胸に手をやりながら殴りつけてます。
 女(Sの妻)が電話をしていたので119番にしていると思い、帰りました。チェリー(筆者註:保見死刑囚が毒殺を主張した上記の愛犬)が心配して私から離れようとしなかった。私が死んでいたらチェリーがどうなるのか、私は急に悲しくなりました。血止めをしてチェリーと寝ました。
 朝、警察から電話が入り、私が悪いと思われていたので、刺された事を話した。病院に行って診断書をもらって来いと言われ、1月4日、あっちこっち病院を探し、縫ってもらって周南署に行った。
 右、左、前と写真を撮られ、取り調べ室で刑事に「Sも自分が悪かったと言ってるから大事にするな」と言われた。「これからあなたも田舎の人と付き合って行かなければいけない。仲良くして暮して行くように」と言われ、私もそうかと思った》
 以上が手紙の引用だが、本来ならSは殺人事件で立件されてもおかしくない。だが警察は何も動かなかった。保見死刑囚も今後の生活を考え、捜査を要望することはなかった。診断書も取らず、被害届を出さず、示談もしなかった。表沙汰にすることを避けた。
 しかし私との面会では、「これが逆効果だった」と保見死刑囚は嘆いた。「この後、周りの人からなめられるようになったと思います」
 保見死刑囚が自宅にいることを知りながら、「こんなあ、なにもできゃせんに」と暴言を吐きながら玄関を叩かれたこともあったという。
 心臓付近を刺されるというのは極めてレアケースだろうが、近隣住民とトラブルになりながらも矛を収めると、かえって人間関係が悪化したというケースは、昨今の移住ブームでもしばしば見受けられる事例だ。
 例えば、私のデイリー新潮に掲載した記事「憧れの『田舎暮らし』なんて真っ赤な嘘 女性が直面する“移住地獄”とは」(19年1月4日掲載)でも、似たような例を紹介した。山口県だけでなく、全国にいくらでも散見できるのだろう。
 
死刑囚を“差別”した集落
 保見死刑囚は周南市で、高齢者が住む居宅のリフォームを請け負ったり、頼まれれば高齢者を車に乗せ、買い物に付き合ったりするなどしていた。そのため、逮捕後でも密かに彼を慕う高齢者がいた。
「保見容疑者には助けてもらっていた」と語る老女が、私に以下のようなことを明かしたことがあった。
「保見さんが裁判で主張した嫌がらせは、すべて本当のこと。集落の人から刃物で切りつけられ、胸に大きな傷を負った時も、私は『殺人未遂でしょうに。なんで警察に行かんの』と言ったくらい。集落でイジメられて、カレーを食べて苦しくて死にそうになったことも聞いています」
 ある日、保見死刑囚は外出から帰宅すると、作り置いていたカレーを食べた。次の瞬間、息が止まらんばかりに嘔吐し、床にのたうち回った。
 食中毒ではないかと保見死刑囚は考えた。「誰かがおそらく農薬か化学物質を混ぜたのでは」と判断した。それ以来、彼は自宅の周辺に過剰とも思える監視カメラを設置し、自宅のベッド脇のモニターで画像を確認できるようにしていたという。
「保見さんが言っていることは、全部本当ですよ。集落の者も分かっているはずです。でも誰も口には出さんでしょうけどね。保見さんが住んでいた金峰地区だけでなく、あの集落はどこでも、後から来た者はみんなイジメられている。やっぱり保見さんは親が亡くなったら、さっさと集落を出るべきだった……」
 そう言うと、老女は涙声になった。保見死刑囚の親族は、彼の献身に現在でも感謝の念を忘れない。
「父親は肩の骨が折れたりもして、歩けないことはなかったけど、心臓のほうも悪くなっていた。母親も足が悪く、身体がままならない。誰かが介護しなければというところに、あれ(筆者註:保見死刑囚)が『じゃあ自分が』と帰ってきて、面倒を見てくれることになった。あれが両親を見てくれたから、きょうだいはみんな働いたり、どこにでも行けたりしたんです」
 保見死刑囚はコワモテの面ばかりが誇張されて報道されるが、慣れてくると、いささか無骨なブラックユーモアも交えて、ウィットに富んだ表現も繰り出す。《でも、今はもう田舎はダメです。骨は海です。竜宮城に行きたいと思ってます》
 イジメられた背景についてやりとりをしている中で、こう書き送ってきたこともある。
《私の場合は、よそ者扱いとか無視されるとかではありません。(私は無視された方が生活しやすい)私は田舎の人に迷惑をかけないから、みんなも迷惑をかけるなと話したこともあります。私が黙っていたから調子に乗った。田舎を捨てて出て行った人間が帰ってきてでしゃばるな、こんなことだと思います。しつこい嫌がらせが続きました。それにしても、命まで危なかった。犬も殺された》
 さらに、今でもはっきりと覚えているという。集落の人間から言われた恫喝の言葉である。「わしの言うことが聞けんかったら、田舎では生きちゃーいけんどー」
 そう言ったとされる人物も、今回の事件の犠牲者となった。保見死刑囚に、「田舎の人」と「都会の人」はどう違うと思うかと訊ねた時のことである。彼はこう答えた。「田舎の人は無神経です。都会の人は無関心です。私は都会に長く居すぎた……」
 彼は故郷で自分が疎まれた原因についても、冷静に分析していた。「A、B、C、D、E(殺害された被害者らの名前)、みな自分の味方につけようとしたけど、私が相手にしなかった。それで、多分ですが、みんなで組み敷こうとしたけどダメだった」
 表向き一枚岩に見える小さな社会でも、必ず人間関係の軋轢や心情のもつれは存在する。保見死刑囚が帰郷直後、内心では微妙な集落の人間関係の中で、それぞれの住民は保見死刑囚を自分だけにより近い者として取り込もうとしたという。
 しかし、それが叶わないとみるや、一転して集落全体で保見死刑囚を「組み敷こうとした」というのが、自身の扱いをめぐる保見死刑囚の分析である。おそらくその辺りの機微を経て、保見死刑囚は「村八分」同然となっていったのだろう。
 保見死刑囚とは、戦後に起きた過去多くの出来事や事件についても言葉を交してきた。なかでも強く反応したのが、1997年に奈良県月ヶ瀬村(現:奈良市)で発生した「女子中学生殺人事件」について話をしていた時だった。
 当時25歳だった村の青年(のちに拘置所内で自殺)が、村内の女子中学生を殺害したかどで逮捕された事件である。保見死刑囚はその青年が、出自や家庭環境によって村内で幼少期から差別を受けてきたという話に、鋭く反応したのである。
 保見死刑囚は差別について、「言葉には出さなくとも、される人間は体で感じるものです」という。
 
絶望の地と化した故郷
 保見死刑囚の育った金峰の集落には「オキへ出る」という言葉がある。オキとは集落を離れ、「町」へ出て行くことを指すのだ。付近の集落の者がこう話したことがあった。
「オキへ出て行った者は、郷里を捨てた者。都会でいい思いをして戻ってきたからといって、山の中でずっと耐えてきた者の気持ちなどわからん」
 そんな言葉もまた、素直なものだろう。進学、就職というかたちで、金峰の集落から皆、オキへ出て行った。その中で、故郷に残り、過疎地となり日本全土の発展からは置き去りにされ、不便さに耐えてきたという意識が、留まり続けた者の心にはある。
 それはともすれば、オキに出て“楽”をしている者たちの“犠牲”になったという意識につながりえないだろうか。それが同じ郷里の者でありながらも、一度オキに出て行って戻ってきた者に対する、どこか素直には受け止めきれない、気持ちのねじれ、付き合いのゆがみにつながってはいまいか。
 保見死刑囚が辿った人生の顛末は、経済成長の果てが生んだ地域格差の、極めつけの悲劇であるようにも思えてならない。
 彼が比較的、心を赦したと思しき知人の1人は、声を潜めて「保見死刑囚に差し入れてやってくれ」と言って、ある時、1冊の般若心経を私に託した。その知人もまた、若い頃に集落の外で働き、理由があって帰郷した。いわゆるUターン住民の1人だった。私との会話で彼は、「殺された者の名前を聞いて、ああ、やっぱりな、やっぱりやられたか、と思ったよ、正直」と振り返った。
「俺みたいにあくまでも下手下手に出て、要はゴマすって生き続けるしかねーんだよ、こういうところでは。ここじゃあ、人間関係は上か下かしかねーんだから。『あなたがいなければ』、『あなたがいてこそ』って、声を掛けなきゃ。でも、そこまでやったって、向こうが挨拶を返してくるかどうかはわかんねえ。その時の向こうさん次第だ。でも、とにかく向こうが気づく前に、こっちからゴマすって、挨拶をしなけりゃダメなんだ。保見はそれができないから、嫌われたんだよ。ゲートボール場とかでも言われてたんだよ。いろいろ噂して。だから、殺された者を見てね、ああ、やっぱりな、と思ったわけよ」
 保見死刑囚は“妄想”に駆られて、見境なく無差別殺人を犯したかのようなイメージが流布している。だが実際の被害者は、冷静に“選別”されていたことが分かる。イジメに加担しなかった家は素通りされ、被害に遭っていない。
 私が保見死刑囚の自宅を管理するため、金峰を訪れていた時のことだ。あの般若心経の知人と再会すると、彼は「俺だって、犬2匹、殺られたからな……」。
 そして不穏な言葉も口にした。「俺もよ、いつ手縄がかかることになっちことをしかねないか、わかんねえからな。俺だって、明日は保見死刑囚と同じになっちまうかしれねえからな」
 18年、拘置所にいた保見死刑囚のもとに、彼がかつて住んでいた神奈川県川崎市に住む少年から1通の手紙が届いた。
 差し出し人は何と11歳。まだ小学生だった。授業で戦後の集団就職を学ぶ中で保見死刑囚の存在を知り、手紙を送ったのだった。保見死刑囚は「金の卵」ともてはやされた集団就職世代の1人だった。
《高度経済成長を支えて、今ある豊かさを創った保見さんのようなひとが、なぜ故郷に戻って悲しい想いをしなければならないのかわかりません》
 少年はそう保見死刑囚に問いかけた。保見死刑囚はこう返信した。
「私は、故郷を捨てた者とされてしまったということです。それに気づい時に、早く村を出るべきだった」
 夏休みを利用し、少年は広島の拘置所を訪れ、保見死刑囚と面会も果たした。11歳の少年に向かって、彼は次のような“助言”をしたという。
「(もしイジメに遭ったら)逃げろ。逃げるんだよ。それが勇気なんだよ。逃げることは恥ずかしいことじゃない。逃げる勇気が大事なんだよ。君はいい目をしている。立派に生きるんだよ」
 しかし、保見死刑囚は逃げなかった。そして今、彼は獄中にいる。家計を助けるために集団就職で都市圏に出た世代が、懐かしきふるさとに戻った時、「故郷を捨てた者」と見なされて、謀反者さながらに扱われてしまう。それに気づいた瞬間、保見死刑囚にとってふるさとは絶望の地となったのかもしれない。
 
山梨県で始まる「移住コンシェルジュ」
 地縁血縁がない土地に移り住む「Iターン」に対し、自身が生まれ育った場所や家族の故郷に戻る「Uターン」――移住には大きく2つの流れがある。
 自治体の移住振興策は、Iターンを対象にしたものであることが多い。トラブルも、Iターン移住者による地元文化への不理解や不慣れを原因とする指摘が多い。
 しかし移住ブームの蔭で、実は地域の機微に詳しいはずのUターン移住者が抱える、物心両面での苦悩も潜在化している。Uターン移住者は逆に、地元に縁が深いために遠慮と気後れが先にたち、悩みや不満が表沙汰になりにくいのだ。
 ただIターンであっても、Uターンあっても、定住後のケアが最重要課題であることは言うまでもない。保見死刑囚も両親の没後、東京や神奈川といった首都圏に戻ることを何度も考えた。だが、「やっぱり両親の墓を守れるのは自分しかない」という気持ちが、再度の移住をためらわせたという。
 Uターン移住者の精神状態が逼迫する大きな原因が、この躊躇だ。再び都会で生活する事を希望しながらも、実行には踏み切れない。結局、故郷での生活が続いてしまうというケースだ。
「田舎は特に、第1次ベビーブーム世代で“きょうだい”の数が多い。7人きょうだいや8人きょうだいも珍しくない。そして全員が、『実家や墓を放りっぱなしにするわけにはいかない』と考えている。でも、姉妹は全員が嫁ぎ、そちらの生活があるから故郷には帰れない。そうすると、男兄弟の中で独身という者が、Uターンするというのが最も多い」(山間地域に詳しい長野県警の警察官)
 Uターン移住者は長期間の定住を果たしていても、住み心地に満足しているわけではないことがある。その点は、行政も注意が必要だろう。保見死刑囚のように「やむなく」故郷に住んでいる者も多いのだ。表向きは地域に溶け込んでいるが、内心では大きなストレスを抱えている。そして長年の鬱屈が溜まり、心身症に陥るケースも少なくない。
 Uターン先の役所に勤務する職員にとっても、「移住後相談」は精神的負担の重い仕事だ。人間関係が濃密な田舎ほど、行政の指導や仲裁は難しい。
「私が小さい頃から面倒を見てくれたおじいさんに、『あなたの移住者に対する態度はイジメです。もう現代では通用しないんです』などと言おうものなら、私がつまはじきにされるだけでなく、妻や子供にもとばっちりが及びます」(山梨県内に住む、ある自治体の職員)
 保見死刑囚も事件前、警察署や市役所を訪れ、相談に乗ってもらえないかと何度も訴えていた。しかし、根本的な仲裁や解決策は得られなかったという。
 こうしたトラブルを、地元の人間が解決するのは無理だとも言える。トラブルの当事者から心理的にも物理的にも遠い場所に立ち、地域の人間関係から自由な第三者が相談や仲裁に乗るのが理想的だ。
 とはいえ、沖縄の地域トラブルを、東京の人間が解決するのも不可能だ。距離は必要だが、当該地域の事情や心理的な機微を知り抜いている者でなければ務まらない。近すぎず、遠すぎず、という距離の者が必要になる。
 山梨県では近く、こうした移住者の精神的ストレスを解決するため、県主導による「移住コンシェルジュ」制度の運用を開始する。
 市町村の移住トラブルに対し、県の相談員が仲裁に入るわけだ。地域固有の人間関係に束縛されることなく、しかし、県レベルの地域性を把握しながら、客観的な見地からアドバイスするのが目標だ。県がケアすることで、市町村より強いリーダーシップを発揮することも求められている。
 取材・文/清泉亮(せいせん・とおる) 移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)
週刊新潮WEB取材班
2019年7月25日 掲載    新潮社
 
 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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山口・周南5人殺害 保見光成被告の死刑確定へ 最高裁 上告棄却 2019/7/11
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* 「山口 周南 連続殺人・放火事件」 飼い犬の『オリーブ』、保見光成容疑者身柄確保の1分後、死ぬ 
死刑と無期の境〔下〕「仮釈放がほぼ認められない現状から絶望し、自殺したのでは」
(抜粋)
  1997年5月、奈良県月ヶ瀬村(現奈良市)の道路を車で走っていた男が、帰宅中の中学2年の女子生徒(当時13)に声をかけ、返答がないことに腹を立て、車ではねて連れ去った。三重県の山中で首を絞め、石を頭部に数回投げつけて殺害した。
 捕まったのは丘崎誠人元受刑者だ。「表情の変化が乏しく、激高することもない。暗く、沈んでいるような顔つきだった」。大阪高裁での2審の裁判長を務めた弁護士の河上元康さん(72)は、法廷での印象をよく覚えている。
 1審の奈良地裁では無期懲役の求刑に対し、懲役18年の判決が出ていた。河上さんは法廷で語る反省の言葉を聞くうち、心から出てきた言葉なのか疑問に思ったという。  00年6月に河上さんは1審判決を破棄し、無期懲役の判決を言い渡す。「罪の重さを深く自覚してほしかった。自覚するにはより時間が必要だと思い、無期懲役を選んだ。有期懲役よりズシッと重みがある」
 だが、上告を自ら取り下げて無期懲役を確定させた丘崎元受刑者は、2審判決から1年3ヵ月後、大分刑務所の窓付近にシャツをくくりつけ、首をつって自殺した。「被告の更生を願って刑を言い渡したのに・・・むなしい」。河上さんは、そう振り返る。
 「仮釈放がほぼ認められない現状から、一生、刑務所から出られないと考えて絶望したのではないか」。この自殺について調べた桐蔭横浜大の河合幹雄教授(法社会学)は、こう考える。
 そのうえで、終身刑の創設論議について「裁判員制度のなかで終身刑という選択肢が与えられれば、量刑に悩んだ市民が『社会から隔離して刑務所に閉じこめておけばいい』という安易な選択に雪崩をうつ危険があり、刑務所内の秩序維持だけでなく、犯罪者の更生にも大きな影響がある」と懸念する。
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