豚コレラ 高森の2養豚場、殺処分を終了
信濃毎日web 9月20日
県は19日、豚コレラが発生した下伊那郡高森町の養豚場で進めていた飼育豚全頭の殺処分を終えた。町内2カ所の養豚場で飼育されていた計112頭が対象。22日朝までに埋却や消毒といった一連の防疫措置を終える予定だ。
県は19日午前、同町の養豚場での感染が確定したことを受けて殺処分を開始。午後3時半に終了した。 この養豚場は、14日に豚コレラ発生が確定した県畜産試験場(塩尻市)と同じ中信地方の民間食肉処理場を利用しており、11日が同じ出荷日だった。車両などによる間接的な感染の可能性があるとして14日、豚の異常の有無を県に毎日報告することなどが求められる「監視対象農場」になっていた。 ただ感染経路は分かっておらず、農林水産省は19日、疫学調査チームを現地に派遣し、調査を始めた。 (9月20日)
◎上記事は[信濃毎日web]からの転載・引用です
秩父でも豚コレラ 関東に拡大、670頭殺処分
埼玉県は十三日、同県秩父市内の養豚場で飼育する豚から家畜伝染病「豚(とん)コレラ」の陽性反応が出たと発表した。この養豚場から山梨食肉流通センター(山梨県笛吹市)に出荷された四頭からも確認された。豚コレラは昨年九月に岐阜県内で確認されて以来、愛知、福井、大阪など計七府県で確認されているが、関東では初めて。
埼玉県は、この養豚場が飼育する全六百七十八頭の殺処分を始め、養豚場から十キロ圏内にある別の養豚場二戸の豚の移動を制限。一カ月後の終息宣言を目指し、被害の拡大防止を図る。十六日までに家畜のふんなどの汚染物を処理・消毒。制限区域内の四カ所に消毒ポイントを設け、家畜や飼料を運搬する車両を通らせる。十七日以降、野生イノシシを捕獲し検査する予定。
県によると、山梨県から十二日昼にこの養豚場から出荷された豚三十七頭のうち四頭に異常が認められたとの連絡があり、養豚場に立ち入って遺伝子検査をしたところ、十九頭から豚コレラの陽性反応が出た。
埼玉県の大野元裕知事は庁内の緊急対策本部会議後、「封じ込めを図るのが第一。そこに全力を注ぐ」と述べた。
県畜産安全課によると、県内には深谷市や熊谷市など計八十五戸で計約九万頭飼育されている。豚コレラは豚やイノシシに感染する伝染病で、国内では昨年九月に二十六年ぶりに確認された。人には感染せず、食べても影響はない。感染経路は不明という。 (飯田樹与)
◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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◇ 「牛は処分を察してか悲しい顔をする。涙を流した牛もいた」担当者ら、悲痛~心のケアを 2010/5/25
◇ わが子を死なせる思い。これまで豚に食わせてもらってきた。処分前に せめて最高の餌を
◇ 電気を流した。「豚は一瞬、金縛りのように硬直して、聞いたことのない悲鳴のような鳴き声を上げた」
◇ ハイチの“マザーテレサ”須藤昭子医師(クリストロア宣教修道女会)に聞いてみたい、牛や豚のこと。
◇ 「子牛もいた。何のために生まれてきたんだろう」処分用薬剤を140頭もの牛に注射し続けた獣医師
* どんぐりと「いのち」 われらを養ってくれるいのち 2010/1/13

〈来栖の独白〉
1月11日、実家のお墓参りと掃除をした。夥しい落葉が重なっている。それらを掃き集める。枯葉とともにどんぐりも、いっぱい転がっている。
どんぐりの形の可愛らしさに、つい一つを手に取ったとき不意にホームページに書いた一節を想い出した。私は次のように書いている。
勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。
「喪われた命」と、私は簡単に書いている。裁判所も、被害死者の数を判示する。勝田事件の場合、被害死者数は8名である。
ところが、どんぐりを手にしたとき私はなぜか唐突に「8名ではない」と強く心に呟いた。勝田事件被害者のなかには、婚約中の女性がいた。彼女が事件に遭わず結婚していたなら、お子さんが生まれたのではないか。そして、その子は、また子どもを生んだかもしれない。そのように考えるなら、勝田の奪った命は8名どころではない。いにしえから連綿と続き、被害者に受け継がれた命、そして被害者から更に広がっていっただろう命を思うとき、勝田の奪った命は数字で表されるようなものではなかったろう。続いて来、さらに将来へ広がるはずの命の営みを、勝田は途絶えさせたのである。
さらに考えるなら、一人のいのちは、人間以外のあまたのいのちによって養われてきたものである。
五木寛之氏は『人間の運命』(東京書籍)のなかで次のように言う。
p171~
真の親鸞思想の革命性は、 「善悪二分」の考え方を放棄したところにあった。 「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
彼の言う「悪人正機」の前提は、 「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」という点にある。
人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。
〈来栖の独白〉続き
食糧となって人間を養ってくれる(人間に奪われる)いのちもあれば、薬品や化粧品等の実験に供されるいのちもある。それらのどれ一つとして、人間が創造したものは無い。人は、奪うだけだ。
私は、深い畏れに囚われざるを得ない。「いのち」に対する深い畏れに囚われないわけにいかない。
司法は、8名を殺害したとして死刑を選択する。髪の毛1本すら造れない人間の、人間らしい有限・物理的な決着・・・。足の竦む思いがする。
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