今日はEaster 「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20・2) 2021.04.04

2021-04-04 | 日録

2021年04月04日  復活の主日(白)   
主が墓から取り去られました (ヨハネ20・2より)

     冒頭画像;  空の墓と復活したイエス オーストリア クロスターノイブルク修道院の祭壇画 1331年

 ウィーン郊外クロスターノイブルクにあるアウグスチノ祭式者会修道院にある祭壇画である。この絵で興味深いのは、キリストの復活の図としての二つのタイプが組み合わされている点である。一つは(向かって)左側、棺の向こう側に描かれる三人の女性と天使がいる場面、いわゆる「空の墓」という画題の部分、そしてもう一つは復活したイエスの足元にすがりつこうとするマグダラのマリアに、イエスが振り返って「わたしにすがりつくのはよしなさい」(ヨハネ20・17)と告げる場面で、その言葉のラテン語「ノリ・メ・タンジェレ」がそのまま画題とされる部分である。復活にまつわる本来二つの場面が一場に合成されているために、マグダラのマリアが二度同時に登場している。白い被りものをし、赤い衣を着た女性である。マグダラのマリアがこのように独特な仕方でクローズアップされている意味を聖書と照らし合わせながら確かめてみよう。
 復活の主日・日中のミサの福音朗読で読まれるのは毎年ヨハネ福音書20章1-9節だが(ただし各年の復活徹夜祭の福音を朗読することも可能)。ヨハネでは、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(ヨハネ20・1)とマグダラのマリアが単独で行ったと述べる。それに対して、マタイでは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ28・1)、マルコでは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」(マルコ16・1)、ルカでは「婦人たち」(ルカ23・56)が墓に行ったことをまず述べ、あとで彼女たちは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(同24・10)と説明される。これらによってまず女性たちが墓に行き、天使からイエスの復活を最初に告げられること、複数の女性たちのことを記すマタイ、マルコ、ルカでも必ずマグダラのマリアが筆頭に挙げられていることがわかる。ちなみに、天使についても、マタイでは「主の天使」(単数形 マタイ28・2)、「白い長い衣を着た若者」(単数形 マルコ16・5)、ルカでは「輝く衣を着た二人の人」(ルカ24・4)、ヨハネでは「白い衣を着た二人の天使」(ヨハネ20・12)となっている。この図ではマタイ、マルコに添った一位の天使であることにも留意しておきたい。
 主の復活を最初に単独でマグダラのマリアが知ったと告げる箇所に続いて、ヨハネ福音書は、絵の右側に描かれている復活したイエスとマグダラのマリアの特別な出会いを物語る(ヨハネ20・11-18)。その感動的な経緯はよく知られていよう。とりわけ中世後期からの絵画で愛好される内容である。ヨハネの語る内容が、その後にも深く影響を及ぼし、マグダラのマリアの姿を際立たせていくことになる。このことと並行していると考えられるのは、復活したイエスの描き方の発展である。墓の場面では女性(たち)と天使との出会いによって、主の復活がいわば暗示されることが主流だったのに対して、中世後期からは、イエスを身体的にも具体的に描き出し、墓から出てくるところや墓の横に立っているところを描くことが多くなる。その場合、イエスが勝利の旗を携えるという描法も出てくる。それは、復活が死、罪に対する神のいのちの勝利を意味することを示す形象として一つの伝統的な画像要素となっていく。この祭壇画でも、イエスは左手に旗を携えており、右端のこの旗がひらめく様子が場面全体にアクセントを与えている。
 なによりもマグダラのマリアの描き方が感動を誘う。ひざまずいているというよりも、ほとんど身を投げ出すようにして、イエスの足元にすがりつこうとしている。その両手が真っ直ぐに伸ばされているところに、彼女の感情を想像し、共感しつつ描いている趣が伝わる。イエスが小高い岩山にいるように描かれているのには、その姿が地上よりも高みにあることの表現でもあることが示されているのだろう。その姿はすでに神の次元にある。イエスとマグダラのマリアの間に伸びる樹は、新しい生命の象徴である。棺が都市の建物のようであるのは、古い人間世界を暗示しているものとも感じられる。そして、背景を埋め尽くす金色は、まぎれもなく神の栄光の輝きである。新しいいのちの充満の中に女性たちはすでに浸されている。その神秘を語る天使が向こうを向き、復活の姿を全身で示すイエスがそれよりも手前にいる。この出来事を二つの場面で描くことにより、救いの神秘の奥深さまでも感じさせてくる。我々は深くその中に招かれるのである。
 ちなみに、2016年から7月22日の「マグダラの聖マリアの記念日」は昇格して祝日として祝われるようになっている。このことを定める典礼秘跡省の教令(2016年6月3日付)では、教会が西方でも東方でも「主の復活の最初の証人であり最初に福音を告げた者である」として最高の敬意をもって崇められてきたことを述べている。主の復活を、間近で体験し、告げ知らせていった彼女の歩みと、その感動を、キリスト者すべての根本体験として味わうのもよいだろう。 

 ◎上記事は『オリエンス宗教研究所 聖書と典礼』からの転載・引用です
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 〈来栖の独白 2021.04.04〉
 主の復活については、わからないことも多い。私自身、長年、様々に考え、揺れてきた。しかし、主のご復活がなかったなら、私は生きてゆけない。生きる意味が見出せない。主は十字架にかけられ、そして復活された。私にとって、生きる根本。主の復活なくして、ペテロたち、弟子があれほどに強くなれるわけがない。心弱く、主の十字架刑のまえに三度も「知らない」と否定したペトロ。その彼が逆さ磔になった。教会の創設者パウロも、然り。すべて「復活」なくしてできないことだ。


ルカによる福音書22章
33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。 
34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 
35 そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。 
36 そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。 
37 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。 
38 弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。 
39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。 
40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。 
41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、 
42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。 
43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。 
44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。 
45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 
46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。 
47 イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。 
48 そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。 
49 イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、 
50 そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。 
51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。 
52 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。 
53 毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。 
54 それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。 
55 人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。 
56 すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。 
57 ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。 
58 しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。 
59 約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。 
60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。 
61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。 
62 そして外へ出て、激しく泣いた。 


『新約聖書を知っていますか』 阿刀田高 著

    

p190
 いずれにせよ、イエスの公生活の後半に、マグダラのマリアはイエスのそば近くにいて、親しく接していた。イエスの恋人、という説もある。安息日が明けるのを待ってイエスの墓に走り、遺体のないのを知って、泣きながらうろたえている様子には、わけもなくそんな女のリアリティが感じられる。(略)
 声の主がイエスだとわかったときの彼女の驚きと喜び。とびついてすがりつこうと

p191~
 したが、イエスは、
「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへものぼっていないのだから」
 と制する。
 復活はまず天上の神に報告すべき重要事項であり、それをしないうちに女と愁嘆場などを演じてはいけなかったらしい。


 


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