刑訴法292条の2に、被害者の意見陳述は量刑の1資料にはできるけれども事実認定の証拠にはできない

2007-10-22 | 光市母子殺害事件

「凶悪犯罪」とは何か http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/kyouaku2.htm

 日本で犯罪被害者問題がクローズアップされたとき、日本の被害者対応は欧米から20年遅れていると言われ、2000年にいわゆる犯罪被害者保護関連二法が作られました。犯罪被害者の意見陳述も、このとき導入されたものです。日本で犯罪被害者への対応が遅れた要因には、被害者の人権に対する意識が低かったということが、我々研究者も含めてあったとは思います。しかし、我々研究者の中には「被害者の人権」を強調することは、日本の場合は被疑者・被告人の人権の切り下げになるのではないかという危惧感がかなりあって、それで避けていた部分もあったと思います。被害者の意見陳述なんか日本でやって大丈夫なの、おかしな方向に行くんじゃないかという危惧感はあった。犯罪被害者保護関連二法の立法の過程でも、被害者の意見陳述が事実認定をゆがめることが危惧されて、刑訴法292条の2に、被害者の意見陳述は量刑の1資料にはできるけれども事実認定の証拠にはできないという趣旨の規定が置かれました。しかし、これで被害者の陳述が事実認定や量刑に不当な影響を及ぼすことを現実に防止できるかといえば、そういうものではありません。
 しかし、これも、世論の圧力もあり、外国でやっているから日本でもということもあって、導入されたわけです。そして、私などは、危惧されていた部分がやはり徐々に現れてきているように感じるのです。
 被疑者・被告人の人権保障が確立しているところで被害者保護を図るのは、それなりに一つの方向だろうと思います。しかし、今の日本のように被疑者・被告人の人権が確立していないところで犯罪被害者の人権ということを言い出すと、どうしても問題が起こってくるという気がします。それが、今、徐々に起こりつつあるという感じがしています。

村上 援護の不十分さと被害者へ向ける感情というのが軌を一にしちゃってるわけでしょう。

加藤 本来は被害者自体に適切な金銭的、生活的、心理的なサポートが必要なわけですよね。そこが十分に果たされるという条件の中で、今言われた加害者の人権とのバランスがとれるわけだけれども、それが非常におろそかな状況の中では、不満や怒りの感情は加害者に向うしかないし、要するに自分の中にある、言い方は悪いかもしれないけれど邪悪な感情というか、もう許せない感情が逆の凶悪さを生み出すような形で、まさに復讐の論理がそこで復活している印象を受けます。だから近代法以前のところへ感情のレベルだけでは戻っている印象を受けます。それから先ほど言われたマスコミ、裁判所の問題について私がかねがね思っているのは、マスコミ報道で言えば、センセーションというのは被害者寄りの報道なんですね。それが何日も続いて、それこそ三面記事と言われた小さな新聞紙面のときだったら、ベタ記事で出るようなものが連日のごとく両開きで、しかも週刊誌を含めると長期間にわたって繰り返し繰り返し、そのセンセーションの部分だけがやられるわけでしょう。真相解明で言われる、ほんとに事実をきちっと確定していくプロセスというのは、小さく、少しシリーズでとらえて良心的に出すことはあるけれども、きわめて限られたもので、その頃にはもうほとんど関心がないところで終わっていく。大きな事件でも、あれは何だったかなというところで、判決だけ。それがマスコミの実情ですよね。


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