上 告 趣 意 書 (控) |
名古屋拘置所在所 被告人 勝 田 清 孝 |
右の者に対する強盗殺人、同未遂、殺人、強盗強姦等被告事件について上告趣意を次のとおり申します。 一、この度控訴棄却を宣告されました私は、世の中の動向や情勢を常に正しく把握することはとても不可能な立場におかれていますが、しかし弁護人の控訴趣意書を読みます限り、死刑執行法に関しましては法治国家たるべく早急に立法されるべきだと強く感じました。 この趣意書を読まれた一部のマスコミ関係者も、最高裁判所の裁判官や法律専門学者をはじめ、元検事総長までが不審を投げかけられている事実を重視し、「おかしな法律で死刑執行されているんだなあ・・・」と異口同音に驚愕していたと聞きます。私は控訴審で 「公正な裁判を受けられれば上告しません」 と、はっきり申し上げました。しかるに最高裁判所の公正なご判断を仰ぐまでに登り詰めてしまったのであります。 私の犯した罪は極刑が当然でありますし正当な判決だと素直に認めます。ですが、被害者の霊魂に捧げる一番の供養にと思い自らの悪を証拠立てて来た私です。誰からみても正しい評価で正しい判断を下すところが裁判所だとばかり思っていた私は、証人・証拠申請のすべてを却下されてしまい、十分な審理も尽くされなかった裁判が果たして裁判といえるのかと、裁判そのものに不信の念を強く抱いているのであります。 自分の犯した罪の重みに耐えながら被害者の冥福を日々祈り続ける私は、多少の却下はもとより覚悟の上でしたが、しかしなぜすべての証人・証拠申請を却下されてしまったのか、同じ刑事被告人である「孫斗八」氏の証拠申請を採用されてなぜ私の申請が却下されたのか、そして最高裁判所の確定囚に対し「刑事裁判中になすべきであった」という取り返せない無念を禁じ得ない判例にも則していないではないかと、不合理かつ不公平な高裁の判断には未だ納得できないのであります。 刑訴法第三一七条にも「事実の認定は証拠による」と明確に謳われています。にもかかわらずあたかも権力者が力尽くで屈服させるかの如く不可解な判断を下されたのでした。裁判官個人の感情によって左右する判断ではなくすべて証拠によるものとされながらも、現実は裁判官の裁量の自由権に多々委ねられていますし、公正な事実審理が行われていない、つまり犯罪者の人間性回復を阻害する要因は裁判所にあると実感するに至り、相当な痛撃を受けたのでした。 疑わしきは被告人の利益に従うという刑訴法の大原則もあるようですが、上告した私は、自分の罪業を棚に上げて憐察と刑の減軽を求めたり、自分を有利に導きたくて申し上げているのでは決してありません。八名の尊い人命を奪うといった許されざる罪を犯した私は、一切の悪事の告白と同様に事実は事実として削除できなかったために、公正・公平さを欠いた不可解な控訴審判決の好転に望みを託し、何としても節義を貫きたいと念じているだけなのです。 私は口べたですので法廷で質問に答えるのはとても苦手でした。かといって言葉で表わし得ない自分の感情をうまく文字に表現できるかといえば、それも出来ずに困っている無知な私です。 しかし、法治国家が公正な法律に則さず感情のみで罪人に死刑を科するのであれば、それこそ殺人という私のよこしまな犯罪行為と何ら変りがない、という事実は容易に判別できるのであります。 二、絶対に迎合するなと検事に言われていながらも迎合してしまった私です。その経緯につきましては控訴趣意書で申しましたとおり、養老警察署から愛知県警本部に戻りました時、小久保検事から 「養老署での新井検事の調書は詰めが甘い、と高検から指示があったので補足的な調書を取るからな」と言われ、各事件の所轄署、特に暴行を受けた大阪へは身柄を移されたくなかったこともあって、又、なにより大罪を犯した私でありますゆえ「悪く書かれてもしゃあない」といった自らを断罪すべく神妙な気持が存念し、純然たる悔悟の念がひたすら強かったものですから、真実を強調するにもおこがましさを意識してしまい、弁明の意欲すら見出し得ない心境だったからなのです。それほど深い自己嫌悪に襲われ良心の呵責に苦しめられていたのです。 銃を突き付けられて怯えきっているはずの被害者から、まさか一瞬の隙に乗じて抵抗を受けるなどとは全く私の考察範囲外のことでしたから、二度目の抵抗を受けたときは激高し「死にたいのか!撃つぞ!」と脅しながら威嚇を意識して撃鉄を起こしたものでした。 そして本当に撃たれると思ったのか神山さんは自分から後部座席に横たわりました。その時私には、二度もけん銃奪取をもくろむ抵抗をしておきながら神山さんの余りの豹変ぶりに「なんやこいつ?」といった疑いの気持が起き、同時に神山さんの抱きかかえるクッション(当時はクッションか枕か不詳)が目にとまったものですから何気なく払い除けようとしたわけです。二度も抵抗を受けた直後でしたから「なんでけん銃を奪おうとしたんや」と問いただそうというような気持ちになって払い除けたわけです。ですからこの時にはもう撃鉄を起こしていたことなど忘れてしまっていて全く意識になかったのです。横たわる神山さんの態度と抱きかかえるクッションの方に気持が移ってしまっていたからです。 そして払い除けたその時は、わずか十秒そこそこの一連動作の中でのほんの瞬間の行為でしたから、「ボーン」とものすごい轟音がした時は面食らった私自身も何がどうなったのか判らなかったのです。「しもた」と思った時にはもう遅かったのです。弾はすでに出てしまっていたわけです。 こうした真実の私の心の中を法廷でも正直に申し上げましたので、趣意書とを勘案して頂ければ必ずや裁判官に真相を理解頂けるものと信じておりましたところ、結果は一審判決に譲歩した「未必的殺意が被告人にあったことは明白」とか「命乞いするように態度を急変させたことに苛立ち」と決めつけた判断を下され、私のこれ以上言い表し得ない真実の主張は全面的に否定されてしまったのでした。「命乞いするように態度を急変させたことに苛立ち」などと、「命乞いするように」という言葉で神山さんの動静を表現されていますが、そもそも神山さんは終始無言の行動であり一度も「殺さないでくれ」とか「撃たないでくれ」という言葉は口にされていないのです。 事実をありてい正直に申し上げている私の言葉をもう少し真剣に聞き入れて正当に考察下さっていたならば、横たわる神山さんの姿を「命乞いするように」などと決めつけるよりむしろ、私からけん銃を奪いそこねた神山さんの方に「えらい失敗をしてしまった」という狼狽の気持が起こり、激高する私の感情を鎮めようとにわかに取り繕った振る舞い、と解されていたはずですし、またその方が極めて自然でもあるはずなのです。 神山さんの抵抗に立腹した私に本当に殺意があったならば、倒れているときに撃鉄を起こしていたのですから、中腰で見下ろす神山さんに向けて確実に引き金を引いていたはずです。けん銃は自分の手にしっかり握り、しかも私は倒れて不利な形勢だったのですから、私が撃とうとすればいつでも撃てる状態でした。でも撃たなかったのです。人を殺すためにけん銃を入手したのではないからです。 判決文に「とくに、本件凶器は高度の殺傷能力をもつ実包の装填された警察使用のニューナンブ回転弾倉式三八口径のけん銃であり、被告人はその性能を十分に知悉していた・・・」とありますが、しかし入手したこのけん銃で一度も試射していませんので、けん銃に対する私の知識は世間一般人の知識と同程度のものしかありませんでした。それを「性能等を十分に知悉していた」と決めつけたり、前述の「命乞いするように」などと表現されていますのは、文字に故意に悪く感情表現を肉付けした裁判官の妄断と言わざるを得ず、真実の私の訴えを頭から否定した裁判官の推測にほかならないのです。 これだけの大罪を犯した私ですから、自分に否認する資格のないことは重々わきまえているつもりです。否認なんかではなく、調書は迎合だから真実ではないと私は正直に訂正を申し上げているのです。是非とも判ってください。 日々深い良心の呵責に囚われ、贖罪に徹するという使命を自覚しながらもその道を固く閉ざされて落胆する今の私に、虚言を弄して生き延びようなどとさもしい魂胆は天地神明に誓ってありません。そのことは法廷で「公正な裁判を受けられれば上告はしません」と申し上げた私の言葉からもご理解頂けると存じます。 すべての証人・証拠申請を却下された上に憶測・抽象的に決めつけた判断を一方的に言い渡されてしまった私は「裁判そのものは調書でほとんど決定されてしまう。裁判所での審理は一種のセレモニー、調書が何をおいても尊重される限り、法廷で何を言っても通用しません。これは制度上そうなっている」とものの本にあった山内某弁護士の言葉を想起し、私にとって最後の機会であった事実審理もろくに尽くされなかった控訴審を振り返りまして、何のための三審制なのかと余りにも独裁的裁判に愕然としたのでした。 三、控訴審では多数の新聞記者が傍聴しておりました。しかしその中の何人かの記者は「おかしな裁判でしたねぇ」とか「長時間弁論されているとき、裁判官居眠っているように見えましたけどねぇ」などと弁護人に閉廷後話していたそうです。 そして私は弁護人から「弁護人としてではなく法律家として言うのだが、正しい裁判では君を死刑にできないことを検事も裁判官もよく知っているんだ」と聞き、また判決後には「事があまりにも重大問題なもんで高裁あたりの裁判官では勇断を下せなかったんだろ」と聞かされまして、すべての申請を却下された理由が飲み込めたと同時に、正義などみじんも窺えなかったおぞましい事なかれ主義裁判にこれが法治国家たる日本の刑事裁判の実態なのかと戦慄を覚えたのでした。 最高裁判所の裁判官や法律専門学者をはじめ元検事総長・弁護士といった、法曹界の間で意見の対立が見られること自体まことにおかしな事実であり、それは憲法に違反した現行法での誤解であり死刑執行法を定めた法律がないこと明瞭だからではないでしょうか。 弁護人の趣意書を読んで、法律に重大な矛盾・疑問があると感じましても、常人と犯罪者の立場とでは人間的評価に差異が生ずるも当然と自覚する私です。 が一方では、いくら人間社会に不合理がついて回るといいましても、正義のお手本を示すべき裁判所が目前の不合理を黙殺するなど論外だと糾弾しながら、他方、犯罪の抑止に少しでも貢献できるのであれば大衆の面前での処刑をも辞さぬと純粋に考えたりする私です。 しかし、社会の条理というか人生の妙味も心得ぬ私が生意気申すようですが、原判決を良識ある裁判官の判定だからとして、正しく生きたいという信念に基づく自分の正義感を犠牲にしてまで素直に受け入れる気持には到底なれないのであります。 望むらくは、権威ある最高裁判所に法と正義に則した厳正なるご判断で私奴に死刑を宣告下さることを期待するのみであります。 右上告の理由を提出します。 |
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