「死に神」記事に再質問=朝日新聞回答受け被害者団体
(時事通信社 - 07月07日 17:01)
鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事に「全国犯罪被害者の会(あすの会)」が抗議、質問した問題で、同会は7日、「厳粛に受け止める」との朝日新聞社の回答書に対し、「質問に答えていない点がある」とする再質問書を送付した。
再質問で同会は「死に神の意味を明らかにするよう求めた質問に、まったく答えていない」と指摘。用語の意味について、改めて明確な回答を求めるなどした。
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「何人なら問題なし?」犯罪被害者の会が朝日新聞に再質問
(読売新聞 - 07月07日 21:30)
計13人の死刑執行を命令した鳩山法相を「死に神」と表現した朝日新聞夕刊1面の素粒子欄を巡り、全国犯罪被害者の会(東京)は7日、「何人なら問題ないと考えているのか」などとする再質問を文書で同社に送った。
「死に神」と表現した理由について、同社は同会の公開質問に対し、文書で、13人の死刑執行を命じたことなどを挙げて回答。同会はこれに不満を示し、再質問した。
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<犯罪被害者の会>朝日新聞に再質問 「死に神」問題で
(毎日新聞 - 07月07日 19:32)
死刑執行の件数を巡り朝日新聞夕刊1面コラム「素粒子」(6月18日)が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で、全国犯罪被害者の会(あすの会)は7日、朝日新聞社に「質問に正面から答えていない」として、6月25日に続き再度の回答を求める文書を送った。前回は「被害者遺族が死刑を望むことすら悪いというメッセージを国民に与えかねない」と抗議。これに対し同社は「犯罪被害者遺族の気持ちに思いが至らなかった」と回答していた。
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〈来栖のつぶやき〉
「あすの会」の皆様に口幅ったいようだが、ここまでおやりになると、些か食傷気味、目を背けたくなる。
個人的には死神は、キャラクターからとても頼もしく思えるのですがね、何がそんなに気に入らないのか、不思議です。
死刑を望むことは、感情の在りようとしては仕方のないことだと考えています。しかし、その望みが遂げられてしまうことは、例えば、大人として子供達に「正しいことだ」と堂々と宣言できる程に本当に正しいことなのでしょうか。私には、そうは思えないのです。
被害者の苦しみを少しでも癒せる方法は、別の様々な方面から、もっと探ってみるべきなのではないでしょうか。
>美風
>免許状
言いえて妙ですね!同感ですわ。
一般的にイメージされてる死神って、あまり好くないのかも。今回のことで「死神」の由来について説示しているサイトも、出てきました。色んな現象が出没するのが、この世ですか。
コメント、感謝しています。
>子供達に「正しいことだ」と堂々と宣言できる程に本当に正しいことなのでしょうか。
正に「正さ」の基準、正論をおっしゃっていると思います。鳩山さんは、死刑執行を「正義」と言いました。が、中身は「人を殺す」ことであり犯罪者とはいえ「命を奪う」ことですから、果たして、胸を張って心底から堂々と言えることでしょうか。正義であるなら、執行に直に係わった刑務官が、なぜあれほど苦悩するのでしょう。「汚れ役」と形容され、誰も係わることを忌避するのでしょうか。鳩山さんは命令書に判を押すことすら回避したかったのです。ベルトコンベアーで自分を素通りしてほしかったのです。
>私には、そうは思えないのです。
昔、オウムの事件で続々逮捕者が出たとき、獄中から坂口弘氏が彼らに呼びかけました。「実感に従って」と。人の実感、というのは、偽りの無い真実の反映であろうと思います。
kennethさん。福永武彦の「草の花」なんかにも、私は、人間の「真実」のありようを見ます。関係なかったかな♪
死刑制度について考える際、われわれが国民として人を殺している側面だけでなく、直接刑を執行する係官に人を殺させているのだ、ということに、これまで無自覚であったと思い至りました。とにかく死刑制度のはらむ暴力性には多くの階層があり、大臣ひとりをやり玉に挙げるのは(それに続く一連の騒ぎは言うに及ばず)まったく本質から外れた茶番と観ぜられます。
示唆に富んだコメント、感謝します。暴力について考えています。ご紹介の著作、興味深いですね。拙HPで一つだけ取り上げている論考があります。中日新聞に載ったものですが。中日新聞は度々大澤真幸さんの論考を取り上げており、いずれも掘り下げて問題の核心に読者を導き入れるもので、満足できます。http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/shikei-sonchi.htm
死刑は、囚人のみならず、それに係わる全ての人にとって、究極の暴力であろうと私は考えています。刑務官は後遺症に悩まされています。私の弟は2000年保岡興治法相の時に執行されました。が、遺族である私は、法相に殺されたとも刑務官に殺されたとも思っていません。彼の罪科が元で、死刑制度によって死んだ、と思っています。拘置所は、遺族となった私に、この上ない人間的な優しさで接してくれました。彼らもまた死刑制度という暴力の犠牲者に他ならない、と痛感したのです。死刑制度の主体は国民です。死刑は、断じて正義などではありません。