先週から思い出したように、またパンフルート(CD)を聴いている。清孝が亡くなった冬、私の魂を訪れて慰めてくれたパンの調べ。深夜、夜半、早暁にパンを聴くと、夜空を清孝と飛んでいるように感じた。室を暖めず、寒い清々しさのなかで、独りパンを聴いた。
パンのグレゴリアンに慰められ、バッハに慰められた。
清孝の最後の様子については、教誨師と所長から充分聞かせて戴いた。しかし、清孝が「合掌」ではない形で逝ったと知らされたのは、少し後のことだった。教誨師からのメールで、知らされた。余儀ない措置ではあろうけれど、死刑囚らしい如何にも寂寞とした風景であった。この最期の姿が、今も私を苦しめている。心を波立たせる。人間らしい姿ではなく、犯罪者の姿で逝った。犯罪者としての「形」をとらされた。余儀ないことと思いながら、この上なく寂しい風景であり、今になってなお、魘(うな)される時がある。
パンの調べは、寂寥と清々しさ、透明感で、私に一致してくる。
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◆死刑とは何か~刑場の周縁から
◆刑場〈厳粛な場〉と死刑執行の姿〈後ろ手錠〉 2010-08-29