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マサ王手 ナゴヤで決めるぞ200勝
2008年7月28日 中スポ紙面から
山本昌が猛虎打線相手に5イニングをエラー絡みの1失点に抑え、打線が大逆転する援護に支えられて通算199勝目。200勝到達まであと1つ。25年かかった悲願は8月3、4日の巨人戦(ナゴヤドーム)、本拠地ファンの前で達成するぞ。
満員の甲子園三塁ベンチ前、山本昌は笑顔でナインを出迎え、ヒーローインタビューを受けた。25年をかけて、ついに大記録に王手をかけた。
「とにかくひとつ勝つことが大変なんでね。1試合、1試合頑張っていきたい」
まずはチームの勝利といつも話す山本昌は、ここへきても200勝の意気込みは口にしなかった。でも、バスに乗り込むまで終始笑顔だった。あとひとつの実感は沸いていた。
199の白星を積み重ねた。でも、投手・山本昌のスタートは散々だった。野球を始めた小学4年のとき、当時横浜に住んでいた昌広少年は兄・尚司さん(45)が入っていた「グリーンタイガース」に入団。エースに抜てきされたが「最初の試合は0-36でした」と、とんでもない黒星デビューだった。小学6年のとき、神奈川県茅ケ崎市に引っ越し「ブラックサニーズ」に入団したが、チームには茅ケ崎で一番と呼ばれていた同級生がいた。「どうしてもかなわなかった」と山本昌。中学に入っても補欠だった。節目のところで壁があった。
それでも、一貫して投手を続けた。中学最後にはエースになり、日大藤沢では「神奈川県ナンバーワン」と評価されるまでになった。今年の正月、実家に帰り、高校時代のビデオを見て「ひどいフォームだった。今の子の方がずっと上。よくナンバーワンと言われたものだね」と驚いたが、プロになった今だからこそ言える。
先日、野茂英雄氏が引退したときに「悔いがある」と話した。そのことに山本昌は「共感できる」と口にした。「いつか辞める日はくるけど、満足して終わることはないでしょう。でも、ここまでへこたれずやってきた。努力しようというのは昔からありました」
日大藤沢から中日に入って、山本昌の200勝への道は始まった。だが、当初は日大進学を希望し、プロに入るつもりはなかった。大学を出て教師になるつもりだった。ところが高校の恩師である香椎瑞穂監督(故人)に「プロに入っても頑張れる」と言われた。72年のセンバツで日大桜ケ丘を優勝させた名監督の言葉に「何でそう言ったのか意味はわからないけど、それを信じてプロに行った」とプロ行きを決断した。
「200勝いったら、香椎監督はどう思いますかね」と山本昌は話す。恩師に背中を押されて25年目、頑張ってきた結果が実を結ぼうとしている。ローテ通りなら、次の登板は8月3、4日の巨人戦。「個人の記録はいいので、後半戦も頑張りたい」とこの日の試合後話していたが、今度ばかりは個人記録を意識したっていい。歓喜の瞬間を味わうのは地元ナゴヤドームしかない。 (山本諭)
【阪神戦勝利、歴代単独4位】 山本昌の阪神戦勝利は昨年4月17日(ナゴヤドーム)の完封勝利以来で、甲子園での勝利となると06年9月30日以来約1年10カ月ぶり。これで阪神戦の通算勝利は44勝22敗となり、2リーグ分立後(1950年以降)の阪神戦通算勝利数としては、43勝で並んでいた別所毅彦(巨人)を抜き歴代単独4位となった。なお、別所は1リーグ時代にも28勝している。
また、山本昌のカード別勝利数は▽広島=43勝、▽ヤクルト=40勝、▽巨人=38勝、▽横浜=31勝、▽交流戦=3勝で、阪神戦がカード別勝利数で最多となった。