【介護社会】流老の果て(5)~(7)焼失し、死者10人をだした「たまゆら」

2010-03-24 | Life 死と隣合わせ

【介護社会】流老の果て(1)~(5)高齢化と孤独、貧困が生み出す社会の現実 からの続き
【介護社会】流老の果て<5> 脱走やけんか、日常に
中日新聞2010年3月23日
 「ウイルス予防用クレゾールを飲んで自室で倒れ緊急入院」
 「自室の高窓からベッドを足場に飛び降り、山中をさまよい渋川警察に保護」
 「体力が衰え言語がはっきりしない。要注意」
 認知症や寝たきりの人が増え続け、人手が回らない。行政の目が届かない無届け施設の、これが日常だった。
 火災で10人が死亡し、運営する「彩経会」理事長の高桑五郎被告(85)らが業務上過失致死罪で起訴された、群馬県渋川市の「静養ホームたまゆら」。本紙の求めに応じ、高桑被告が職員らのメモや記憶をもとに、焼失した日報の主な部分を再現した内容。火災直前を含む計5カ月分がA4判7枚にまとめてある。
 徘徊(はいかい)や重症者の入退院、飲酒やけんかの後始末…。並ぶのは深刻なトラブルばかり。記された人のほとんどが、火災の犠牲になった。
 地元住民の証言が、混乱ぶりを裏付ける。
 高窓を飛び降りて山中に逃げた女性は認知症で、たびたび脱走。火災で死亡する2カ月ほど前には「人身売買で連れてこられた。助けて」と、パジャマ姿で民家に駆け込んでいた。入所者の男性が、路上で泡を吹いて倒れていたことも。住民が救急車を呼んで施設へ連絡したところ、職員は「食事の準備が忙しくて行けない」と答えたという。
 たまゆらは、木造平屋の本館と2棟の別館、50メートルほど離れて別棟がある。県の資料によると、火災2カ月前の時点で、生活保護を受ける高齢者や障害者ら計24人が入所し、日中は施設長のほか事務と調理の職員が3人。火災は職員が1人になる夜中に起きた。
 被害が集中したのは、食堂などがあり、ベニヤ板で細かく仕切られていた別館で、寝ていた7人全員が死亡した。高桑被告が日曜大工で違法な増改築を繰り返した建物だった。
 防火や管理態勢の不備を認めた高桑被告は本紙の取材に「もともと貧しい人を助ける『救護ホーム』で、本来は介護するための施設ではなかった」と明かした。要介護者は想定外だったのが、いつの間にか都会から厄介払いされた「処遇困難ケース」の高齢者たちの終(つい)の棲(す)み家(か)にされてしまい、管理態勢が後手に回った、というのだ。
 東京都墨田区から送られ、火災で亡くなった山田登美子さん=死亡時(84)=も7人が犠牲になった別館で暮らしていた。車いす生活になり持病の強迫神経症も治らなかったが、メモに山田さんがトラブルを起こしたとの記述はない。かつて周囲がまゆをひそめた問題行動も、たまゆらでは“普通”とみなされた。
■火災直前の主なトラブル
(原本は実名、いずれも死亡、年齢は当時)
2009年1月 3日 男性(88) 留守中の隣家に入り、帰宅した家族が送り届けてくれる。
        5日 女性(83) 食堂を通って柵をくぐり徘徊。赤城山中にて保護。
       14日 男性(77) 本館の窓を割り道路に出る。応急処置をする。
     2月22日 女性(84) 他の入所者の部屋のドアをたたき争いとなる。
     3月 1日 女性(71) 容体が悪い。注意するようヘルパーに伝える。
        3日 男性(72) めっきり体力が衰えている。要注意。
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【介護社会】流老の果て<6> 計画なき受け入れ
中日新聞2010年3月24日
 金もうけのために、要介護のお年寄りをあえて受け入れていたのではないか。昨年3月の火災後、報道陣のそんな質問に、たまゆら(群馬県渋川市)を経営していた「彩経会」理事長の高桑五郎被告(85)は答えた。
 「障害の重い方を受け入れると収支は赤字。手がかかるだけで、うちには何のメリットもないんです」
 亡くなった10人のうち、70歳以上が9人。不十分なスタッフ態勢で介護に手が回らない実態が明らかになると、高齢者を受け入れ続けた点に質問が集中した。
 介護保険制度に沿った態勢を整え、介護サービスを提供する有料老人ホームなら、事業者は渋川市などから入所者1人に最大月額約25万円の介護報酬を受けられる。
 しかし、たまゆらは制度を利用せず、有料老人ホームの届け出もしていない無届け施設。重度の要介護者を何人抱えようと、介護報酬はゼロ。費用も人手もかかる重荷でしかなかった。
 「自分には、介護ビジネスをする能力がないことだけは分かっていた」
 会見で、報道陣をあぜんとさせる告白が続いた。たまゆらの成り立ちの背景には、介護ビジネスで失敗を重ねた高桑被告の歴史があった。
 前橋市内の名家の呉服店に生まれ、20年ほど前、端切れを使って小物を作る障害者向けの授産施設をつくった。夢を膨らませ、北橘村(現渋川市)を「福祉の里」にしようと、私財を投じて土地開発を進めたが頓挫。再起をかけ、2000年秋に高齢者用の静養施設を開業し、翌年デイサービスセンターも設置した。しかし採算が合わず、主な建物も人手に渡った。
 度重なる失敗で方針を変え、高桑被告は05年、増え続ける生活保護受給者のための「救護ホーム」を立ち上げる。それが、焼失したたまゆらだった。生活保護費は自治体から確実に下り、介護の負担もない。「今度こそ」の思いがあった。
 だが、高齢の入所者なら年を取り、いずれは介護が必要になる。その穴を埋めようと、高齢で生活保護を受けている人をやみくもに受け入れ、借金で火の車になった。80すぎの老人が、日曜大工で安普請の建物を増築するようになる、それがいきさつだった。
 「要介護度が高くなれば、他の施設に引き取ってもらうつもりだったが、できなかった。どこにも受け入れてもらえなかった。救急車でも呼ばない限りは…」
 逮捕前、高桑被告は本紙の取材に力なく打ち明けた。救急車は頻繁に呼んだが、入院の長期化を恐れる地元の病院には「退院後は引き取る」という約束をさせられた、という。
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【介護社会】流老の果て<7> 無届け依存の行政
2010年3月25日
 「墨田区担当より、『ほうぼう探しましたが引き取り手がなく、申しわけありませんが、ぜひもう一度面倒をみてください』と電話連絡高桑にあり、再度引き受けることにする」。たまゆら(群馬県渋川市)を運営していた高桑五郎被告(85)のメモには、この無届け施設に頼り切っていた、東京都墨田区の姿を象徴するような記述があった。
 2007年10月、墨田区の生活保護を受ける50代の男性が、たまゆらへ送り込まれた。施設内や酒店の自販機の前で酒を飲んでは倒れ、救急車で運ばれた。トラブルに手を焼いた高桑被告は、1年を待たず区に引き取らせた。
 3カ月後、男性は区が仲介した東京の宿泊所から姿を消した。再び保護されたが行き場はなかった。区は男性と連名の念書をしたため、たまゆらは仕方なく男性を受け入れた。
 高桑被告が提供したたまゆらの入所者一覧表によると、入所者50人のうち、33人が東京都内から送られてきた。その8割が生活保護受給者だった。無届け施設とは思えないほど、行政はたまゆらに依存していた。
 「最初から不安だった。いかにも火事でやられそうな建物だと思った。でもここで我慢しなきゃ、行くとこねえんだって自分を納得させたよ」
 生き残った元入所者の鈴木久雄さん(65)は墨田区で生まれ育ち、革製品加工の仕事に就いた。30代で脳卒中を発症し、病院や福祉施設を転々として、最後にたまゆらへ行き着いた。
 現在は前橋市内の施設に暮らす。ふるさとでは高さ世界一を目指す電波塔・東京スカイツリーの建設が進む。「そばで見てみたい」。望郷の念は消えないが、東京に居場所がないことも分かっている。
 墨田区から送られ、犠牲者となった山田登美子さん=死亡時(84)=は、静かな老後を送るために宮城県富谷町から引っ越した同区のマンションで夫を亡くし、認知症になって蓄えも失い、東京を追われた。
 鈴木さんは山田さんのことをよく覚えていた。「明るくて、時々面白いことを言っては周囲を笑わせてた」。跡地近くのデイサービスセンターには、誕生日のケーキを前に笑顔を見せる山田さんの写真が残る。「明日もね」。火災の日も、他の通所者や職員らと再会を約束して別れたという。
 戦後の日本を生き、年老いて家族のきずなと健康を失った人々が都会で居場所を失い、流れ着いた終(つい)の棲(す)み家(か)の焼け跡に、孤独で悲しい晩年のものがたりが残された。
 火災後の記者会見で、高桑被告は頭を下げ、自らの責任を認めた。その姿をテレビで見ていたという鈴木さんはつぶやく。
 「たまゆらがなければ、私たちは野垂れ死んでいた。高桑さんが悪いんじゃないよ」

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