西部邁の「自裁死」を私の友人が手助けした心奥は理解できる
2018/04/23 06:05 木村三浩(「一水会」代表)
今年1月、東京・大田区の多摩川で亡くなった評論家、西部邁(すすむ)先生の「自裁」を手助けしたとして、4月8日、自殺幇助(ほうじょ)容疑で、東京MXテレビ子会社社員の窪田哲学、会社員の青山忠司の両容疑者が逮捕された。西部先生の自裁そのものもメディアで大きく報じられたが、それ以上に注目されたのが、2人の逮捕であった。
窪田氏とは、MXテレビの番組『西部邁ゼミナール』などで何度も会い、酒席をともにしたこともある友人だ。とても礼儀正しい人物で、優しさとともに強い正義感を持った好青年である。青山氏に関しては、正確にいえば西部先生の密葬の際に初めて紹介を受けて話をしたので、それまでは面識がなかった。
私は西部先生と酒席でご一緒することが多かったが、先生はよく「おい、窪田君を呼んでくれ!」と言って電話をかけ、窪田氏も時間が折り合う時にはその場に駆けつけていた。西部先生が窪田氏をとても頼りにしていたのがよくわかった。窪田氏は、口数は少ないが、自身の立場をわきまえた振る舞いができる人であり、西部先生が使う独特の表現や形容を、自身でかみ砕いて体得していた。また、西部先生の考え方や生き方に強く惹かれているように見えた。
いつものように酒を飲んでいる時、究極的に信頼できる人間とはどんな人間かという話題になった。西部先生は戦後の高度成長を支え「電力の鬼」と呼ばれた財界人、松永安左エ門の言葉を借りて「刑務所に入ったことがある人」「大病をしたことがある人」「放蕩したことがある人」であると答えると、窪田氏が深くうなづきながら「そうですね」と共感していたことが印象に残っている。
青山氏については、西部先生が主宰する私塾「表現者塾」で塾頭を務め、先生の政治的スタンスや問題意識、哲学にいたるまで、深く理解し共有していた人物だと思う。
そんな私の友人である窪田氏と青山氏が、西部先生の死生観に共鳴し、自裁を手助けするまでに至ったことに驚きはしたものの、理解はできた。
2人とも尊敬する西部先生の思いを尊重し、覚悟を決めての行動ではなかったかと思う。常日ごろから言葉だけで敬意を表するのでなく、いざというときに本領を発揮してこそ、本物の尊敬である。その意味でいえば、「知行合一」(ちこうごういつ)の実践なのであろう。
もちろん、両氏にも家族がおり、逮捕された以上、自分自身のこれまでの立場や身分を失うだけでなく、家族にまで影響が出ることも予想していただろう。早い段階から、彼らの自宅付近にはテレビカメラを持った人物がうろついたりして騒ぎになっていただけに、両氏にしてみれば覚悟の上とはいえ、複雑な心境だったにちがいない。
こういう事態になると、決まってさまざまな方向から批判の声が上がってくるものだ。報道で大きく取り上げられていることから、西部先生に対する批判が身内からも上がっていた。
「なぜ、独りで自己完結されなかったのか」、「『人に迷惑をかけることを潔しとせず』を旨としていながら、両氏を巻き込むとは、もはや西部の論理は破綻した」という声もある。
その指摘は十分理解できるが、西部先生と彼らの心情がどのようなものであったか、それは当事者しかわからない事だ。まだ、真相がわからない段階で「破綻した」などと断定的な結論を出すのは、いささか性急だと思えてならない。
むしろ、「やむにやまれず」「自分たちが何とかしなければ本懐が遂げられない」との逡巡、葛藤、苦悩から来る行動だったのではないだろうか。「いくら西部先生からの頼みとはいえ、断るのが普通だ」という意見も側聞されている。
だが、主従関係の問題ではなく、優しさや人情の問題であり、自分自身を勘定に入れない振る舞いの意識の発露だろう。ややもすると、法律に抵触するかもしれないことを前提にしても、そう簡単にドライに割り切れないのが、人間関係の厄介なところだ。
それにしても、警察は2人を逮捕しなければ、事実を解明できなかったのであろうか。西部先生の遺体の口に劇薬が入った瓶が差し込まれていたことや、防犯カメラの映像などから窪田氏、青山氏の関与が浮上したのはわかるが、2人とも捜査に協力していたうえ、任意の取り調べにも全面的に応じていた。逃亡する意思も見えず、否認もしていない。
したがって、警察が逮捕、勾留したことについては、疑問と違和感をおぼえる。さらに、テレビや新聞などの連日の報道は、窪田、青山両氏の映像や写真を大々的に流し、窪田氏が護送車で移送されるシーンは繰り返し流された。まだ起訴もされていない段階から、「周到に計画していた」などと、彼らを「悪人」のように扱う印象操作にも、激しい違和感を禁じ得ない。
西部先生に忠誠を誓い、葛藤しながらも手助けをした両氏やその家族まで巻き込み、皆がある意味で本意でない展開になってしまったことは、西部先生自身が予想したものでもなかったはずだ。いま現在の私の心境を語れば、「残念」という言葉で片付けられる問題ではないが、本当に悔しい。
振り返れば、西部先生はもう15年以上前から「自裁したい」と私にも語っており、年齢を重ねるにつれ、ここ数年は「自分の意思もわからない状態で看取られるのは耐えられない」、「もうそろそろ限界だ」とも言っていた。
そこで私が、「ちょっと待ってください、まだまだですよ。この腐り切った日本に喝を入れていかなければなりません」と、気持ちを翻意させようとすると、西部先生は「もう覚悟はできているんだ。君のほうこそ覚悟を決めて受け入れてくれよ」と真面目な顔で、やや凄むように言ったこともあった。
実は、自裁する5日前、西部先生と私は駐日ロシア大使館を表敬訪問していた。日本とロシアの友好について、ロシア代理大使と意見交換を行い、その後はテレビ局のスタッフを交えて、夜半まで酒をごちそうになった。翌日にお礼の電話をしたとき、西部先生は「昨日は会えて楽しかったよ。でも、もう会えないからね」と私に言った。
そして1月21日、西部先生の言葉は現実になった。訃報を聞いて思わず涙がこぼれてしまい、しばらくは心が重苦しい日々が続いた。数日後、渋谷区幡ヶ谷の代々幡斎場に遺体が棺に納められて安置され、最後のお別れをさせていただいた。
西部先生の顔を撫でることなど生前は想像だにしていなかったが、お別れと思ってお顔に手を当てたらひんやりと冷たかった。まるですべてを成し遂げた後のような美しい表情であった。火葬にも参列させていただき、出棺前には、先生が好んで歌われた「蒙古放浪歌」を、僭越(せんえつ)ながら花向けに高唱し、棺の中に歌詞が書かれた歌集を納めた。その後、ご遺族、近親者の方々とともに、骨揚げもさせていただいた。
私にとって印象深いのは、西部先生が抱いていた憂いだ。亡くなる前、西部先生は、安倍政権が次々に進める対米隷属政策に対して、「日本は独立の気概を失ったのか。まさに『JAP.COM』だな。ざまあみろ」と、嘆いていた。「JAP.COM」とは、西部先生の最後の著書『保守の遺言』(平凡社新書)にあるように、日本人のほとんどが会社員の振る舞いのように、目先の利害に反応して右、左へと喋々(ちょうちょう)していることを指している。
いま、私は西部先生のこの言葉を自分なりに反芻(はんすう)している。西部先生は、保守という言葉の意味を理解しようとしない人ばかりであるとも嘆いていた。
西部先生が旨としていたことを集約すると、「公正、節度、寛容、義俠」を大切にしていたのではないかと思う。西部先生は、これらの精神を失うことなく、自身の知識や教養を積み重ね、客観的評価にも堪え得る説得力を持っていたのであろう。
西部先生には長年にわたり、公私ともにお世話になった。力不足かもしれないが、先生の言霊(ことだま)をしっかり胸に刻み込んで、その意志を自分なりに体得していきたいと思っている。心より、ご冥福をお祈り申し上げる。
◎上記事は[IRONNA]からの転載・引用です
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〈来栖の独白 2018.4.23 Mon〉
日本には「死者に鞭打つ」という言葉がある。上コラムを読んでいて、死者を対象には、なかなか率直なことは書けないものだろう、と思った。
まだ壮健な頃の西部氏の論には、明晰さがあった。「自裁」についての考えにも、迷いを感じさせなかった。自分で死ぬ、時期が来たら自分で死のう、と考えておられたのだろう。
しかし、自裁とはエネルギーを要するし、痛みを覚悟せずには達せられない。自分の人生に(終幕の)線を引かねばならないが、徐々に時機を逸したのではないか。そうこうしているうちに、西部氏といえども老化により身体が思うように機能しなくなり、自力で死ぬことは不可能になった。
自分の裡で明確に「自裁」の論理を打ち立てているなら、それが実行できるうち(年齢)にやってしまわなければならない。
わが夫君はポジティブな人生観、世界観の持ち主だが、かつて冗談のように「歳を重ねれば、自殺すら出来なくなる」と言ったことがある。その言葉は、ネガティブな私の心の深いところに残っている。
論理としては構築し、他言もしながら、西部氏はそれを実行に移すことをしなかったのではないか。人生を精いっぱい生きようと、悠長に構えていたのか。或いは、本人も自覚しないところで、恐怖があったのか。胆力の、いま一つの欠如か。
そのため、有意な二人を巻き添えにし、その家族まで苦しめることとなった。
自裁は、文字通り、一人でやるべきだ。
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◇ 西部邁さん自殺幇助の疑い 出演番組関係者ら2人逮捕 警視庁 2018.4.5
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私自身は、原則として『自殺はしてはならない』という立場ですが、老年期に達し、様々な止むを得ない事情で自死されるのは御本人の自由意志でしょう。
ただ、『介錯』なさった、おふたりを『自殺幇助罪』に追い込んでしまった事には、わだかまりを感じます。
司法関係者のかたがたには、自殺幇助?をした二人のかたに対し、寛大な措置をしていただきたいです。
私は、西部先生の体系的な著書は読んだことはありません。
西部先生が、それなりの人格者であったことは疑う余地はありませんが、ちょっと『偏固』なところもあるかなあ、って気もしないでもありません。
西部先生は、安倍総理のことを『対米従属主義者』だと、おっしゃってたそうですが、偏った御意見だと思いますね。
常識的に見れば、今の日本が置かれている状況では、アメリカ合衆国に外交防衛面で協力するのが最良でしょう。
安倍さんが、対米従属外交だとは思いません。と、いうよりも、今の日本には、外交面で選択の余地は、あまりないでしょう。
ところで。。。。
西部先生は『蒙古放浪歌』とかいう歌を愛唱なさってたそうですね。。。はじめてお聞きしました。
『蒙古放浪歌』というのは昭和時代初頭に作詞作曲された歌らしいですが、当時のいわゆる『大陸浪人』(満州やモンゴルで国策活動をしていた探検家)的な気分で詠まれた歌なんでしょうね。
ま、西部先生も、そういう時代の気分を受け継いでおられたんだと思います。
。。。。むろん、いい悪いの話しではないでしょう。。。。