正義のかたち:死刑・日米家族の選択/7止 塀の中生活21年の元少年
心に刺さった、母の言葉
岡山刑務所で迎える13度目の冬。所内の工場で、旋盤でトラクターや自動車の部品を加工する日々。指先のあかぎれから血がにじむ。
名古屋市内の公園で88年2月、少年ら6人が若い男女を襲い殺害したアベック殺人事件で、リーダー格とされ無期懲役が確定した当時19歳の元少年(40)。「塀の中」での生活は21年になった。
元少年の母(62)は、接見禁止が解け、初めて名古屋少年鑑別所で対面した時の様子を「未成年だから、すぐ帰れるという態度で、アッケラカンとしていた」と振り返る。
そして、89年6月の名古屋地裁判決は死刑。「反省しているとは思えぬ態度が散見された」と、裁判長は厳しく批判した。
「もうダメだと思う。交通事故にでも遭ったと思って、おれのことはあきらめてくれ」。判決後、面会に来た母に、元少年は、投げやりな言葉をぶつけた。
「ばかなこと言うんじゃない。もしお前が死刑になるというなら、悪いけど、こっちが先に死なせてもらう」。肉体的にも精神的にもボロボロ。それでも苦しさに耐えるのは、お前が生きているから--。母の言葉が、突き刺さった。
<この時に私は初めて、本当の意味で被害者の方やご遺族の方のお気持ちというものを(略)自分なりにいろいろと考えることが出来たのです>
元少年が友人にあてた手紙である。
名古屋高裁は96年12月、更生の可能性を認め、無期懲役に減刑した。生と死のはざまで、奪った命の重さと向き合った。
* * *
収容されている部屋の前に咲くアイリスのこと、部屋の中に漂ってくるキンモクセイのにおい--。昨年、岡山刑務所の息子から届いた手紙に、今までになく、草花のことがつづられていた。「オジサンになったんかな」。愛知県内に暮らす母は、笑みをこぼした。
仮釈放のことは、考えないようにしている。受刑者の再犯を危惧(きぐ)する声が強まり、容易には実現しないと思う。事件にかかわった6人のうち4人は出所したが、遺族に謝罪せず示談金もほとんど支払っていないと聞いた。
サラリーマンの夫の退職金で、遺族への示談金を支払い終えた。その夫も、6年前に他界した。パート勤めの毎日。「手紙のやり取りができればうれしいという感じです」。06年夏以来、息子には会っていない。
* * *
<出口の見えないトンネルの中に入っているようなものです>
無期懲役の受刑者としての心情を、元少年は友人への手紙で記した。関係者によると、97年1月の判決確定から30年以上たたなければ仮釈放は難しそうだ。
<どんなに小さな光だとしてもこれからも私はその小さな光をしっかりと見つめて、焦らずに一歩一歩一生懸命に頑張っていきたいと思います>
確定から30年後の27年。母は81歳になる。長いトンネルを抜けるまで、元気でいてくれることを祈っている。【武本光政】=おわり
■ことば
アベック殺人事件
名古屋市緑区の公園で88年2月23日未明、少年ら6人が理容師の男性(当時19歳)と理容師見習の女性(同20歳)を襲い、現金約2万円を奪った。2人を車で連れ回し、相次ぎ殺害。無期懲役から「懲役5年以上10年以下」の刑が全員、確定した。
(毎日新聞2009年2月21日東京朝刊)
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【光市事件弁護人更新意見陳述書】より
(2)被告人が目標とする先輩の存在
なお、本件弁護人の1人は、かつて、本件でも、本件よりも犯情が重いにも関わらず無期懲役が適用された事例として挙げられているアベック殺人事件の控訴審(名古屋高裁平成8年12月16日判決・判例時報1595号38頁)の弁護人を担当した。
この事件は、少年らが2名のアベックの男女を殺害した強盗強姦殺人事件で、主犯とされた当時19歳の少年には1審では死刑が宣告された。しかし、彼は、「どうか生きて償いをさせて欲しい」と訴え、控訴審では、被告人及び弁護人によって徹底して事実の見直しが行われ、平成8年12月、無期懲役に減刑され確定した。彼は下獄してから10年6ヵ月となり、現在は38歳となっている(弁22)。彼の名前はS君という。
しかし、S君の裁判の審理においては、被害者遺族は、こぞって、捜査段階及び1審の公判廷において、「被告人らを一生恨む。全員死刑にして欲しい」との厳しい意向を示し、1審判決後も、検察官に対し、「死刑は当然である。」と訴えていた。(前掲名古屋高裁判決)。
ところが、S君のお母さんから平成17年5月に届いた手紙の中に、
「今回は少しうれしいお知らせができます。Sがここ数年作業賞与金を遺族の2家族の方に詫び状を添えて送っていたのですが、今年は、Aさん(被害者)の父様より礼状が届いたとの手紙が来ました。(略)Sも、びっくりするのとうれしいのと心の中は大変だったと書いてありました。事件の後、家に主人と二人でうかがった時は、奥様がとても気をつかっていただき、その後二度ほどお会いしたのですがご主人は私たちに決して会ってくださることはありませんでした。その方が、自分の今の生活の事等を書いて、頑張るようにと書いて下さったとの事、少し私もうれしく思い、主人の仏前に知らせました。これからもAさんの気持ちを大切に頑張る、と書いてありました。」とあった(弁20)。
これは、S君が生きて償うことを実践してきたことの積み重ねによってもたらされたものである。
生きて償うとは、何時までも贖罪の心を忘れることなく被害者のことを思い謝罪を続けることである。そして、そのことを通して再び人間としての信頼を取り戻していくということである。それは、決して生やさしいものではない。しかし、1審判決の死刑を控訴審で無期懲役に減軽されたS君は、それから10年を経過する今日も実践し続けているし、将来も決して変わることはない(弁21)。
そのS君と被告人は文通を始めた。
被告人は、文通を通じてS君の生き方に触れた。S君からもらった手紙を読み涙を流した。被告人は、現在自らの歩むべき道として、S君の生き方を学んでいる。
被告人と同じく、少年時代に2名を殺害してしまったS君が無期懲役で刑務所で服役し、1ヵ月働いて作業報奨金が約1万円くらい得られる状況でありながら、そのほとんどすべてを被害者の遺族に送金している。被害者は、このようなS君の生き方に触れて、償いとは何か、反省とは何かを深く考えるようになってきた(弁23、24)。
【光市事件弁護人更新意見陳述書】より
被告人は、被告人と同じような過ちを犯し、控訴審で死刑から無期懲役に減刑されて現在××刑務所に服役している先輩と知己を得た。彼は、今から21年前、友人らとともに2件の強盗殺人事件を犯した。無期懲役が確定して××刑務所に服役してすでに9年になる。彼は、毎年欠かさず遺族に謝罪の手紙を書き、作業報奨金を贖罪金として送り続け、反省と贖罪の人生を送っている。もちろん、彼は、未だ、被害者遺族に赦されてはいないが、今では「寒い日が続いていますが、風邪をひかぬように頑張ってください。貴殿からのお金は前回同様仏前に供えさせていただきました。私も女房が他界してから急に弱くなり、色々病気と戦っています。心臓・たんのう・腰痛・今回は膝の手術をやりましたが、それが失敗して4回も同じところを切開した為、歩行が出来なくなり、現在はリハビリに通っています。前回貴殿に返事を書かなければいけないと思いながらも出すことが出来なかったのは、病気で悩み苦しんでいた時で、非常にすまないことをしたと思っています。お許しください。今晩も11時を過ぎましたのでここで筆を置きます。ありがとうございました。おやすみなさい。」「今年も残り少なくなりました。健康の様子何よりです。私も年と共に弱くなり、昨年に続き今年は2回長期入院致しまして、返事も出さず失礼致しました。Aの供養代はありがたく仏前に供えさせていただきます。時々刑務所内の放送を見ることがあります。大変だなと思いますが、罪は罪としてそれに向かって立派に更生してくれることを願っています。寒さに向いますが、くれぐれも身体に気を付けてください。」と被害者遺族に声をかけてもらえるまでになっている。
被告人は、この先輩のように、生きて反省と贖罪の人生を生きることを切望している。弁護人は、被告人がしっかりと更生することを確信している。そして、××刑務所の先輩もそして被告人も、いずれの日か、被害者遺族に赦される日がくることを確信している。
このことも、弁護人は、当公判廷で立証しようとしていることである。そして、弁護人は、差戻控訴審の審理を始めるにあたって、裁判所に対し、「今一度、被告人を信じてみようではないか」と、強く、求めるものである。
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日本の死刑状況について「無期懲役者からの手紙」
弁護士 安田好弘 「フォーラム90」VOL.90 (2006年11月10日発行)より
この後、さらにまた手紙が届きました。「わたしもこの8月で38歳」。私がシゲちゃんに会ったときは25,6歳だったでしょうか。事件の時は19歳でした。
「ほんとうにいままでずいぶんと人生の遠回りをしてきました。以前の私は自分の将来にたいしてさえ夢や希望を持つことができず、ただ流されるままに漂うような生き方をすることしかできませんでしたが、これからはしっかりと大地に根をおろしてたとえ一歩一歩づつでも確実に自分の道を進んで行きたいと思います。また一歩先を歩んでいるわたしは、Fさんをはじめ私の後に続く人たちのためにもしっかりした道をつくっていかなければならないと思っています」。
Fさんというのは、光市の被告としていま広島拘置所に収監されています。同じような立場をF君に見るんでしょうね、彼は、
「それからちょっと思ったのですが、なにか皆あまりにも簡単にFさんに反省を求めすぎじゃないでしょうか?もちろんFさんも自分のやったことの重大さを理解、認識して反省はしなければなりませんが、逮捕されたからといって、あるいは裁判がはじまったからといって、すぐにそれができるくらいならFさんははじめから今回の事件は起こしていないんじゃないでしょうか。わたしの場合も事件当時はもちろんのこと、逮捕された後でも二人もの人の命を奪ってしまった後でも、なお自分のやったことの重大さをなかなか理解認識することはできませんでした。人の命を奪ってしまった後でも、なおそのことの重大さを理解認識することができないということは、ふつうの人からしたらとんでもない、とてもじゃないけれどもちょっと考えられないんじゃないでしょうか?逆に言えば、だからこそわたしは事件を起こしてしまったんだと思いますが、そんなわたしが逮捕されたからといって、裁判がはじまったからといって、いきなり急に反省ができるようになるわけはありません。またほんとうにとても悲しいことですが、わたしの場合は自分ひとりだけで、自分自身だけの力だけでその殻を破って反省ができるようになったわけでもありません。母を通して自分の命の大切さを知り、そこから少しずつ被害者の方の命の大切さや、ご遺族の方の怒りや悲しみの気持ちなどを自分なりに考えることができるようになっていったのです。最高裁にしてもマスコミにしても、なにかFさんが一、二審で反省しているとは思えなかったということをやたらと強調しているようですが、むしろそういう状況になってもまだその反省らしい態度をとることができなかったということにこそ、もっとFさんのほうからの視点で目を向けてあげるべきではないでしょうか。」
というふうに書いてあります。さらに、
「強がりではなく、一審当時のわたしには死刑になって死んでいくことは決して難しいことではありませんでした。まわりの状況や雰囲気などで、一審の途中からもう自分は死刑になると勝手に確信していたのですが、自分が死刑になって死んでいくということに対してはほとんど抵抗はありませんでした。もう終わった、と自分の人生に対しての諦めの気持ちもあったのですが、それまで精一杯かっこをつけて強がって生きてきたわたしにとっては、たとえ自分が死刑になったとしてもジタバタせず、最後のツッパリで清く死んでいくことしか頭になかったのです。むしろわたしは自分が死ぬということよりも、みんなの記憶の中から自分が消えてしまうんじゃないか、ということに対してのほうに抵抗があったように思います。たとえ私が死んだとしても、せめてわたしのことを忘れないでほしいという気持ちは強くもっていましたし、そのためにもうどうせ悪くされるのなら、たくさんの人の記憶に残るように思いきり悪のまま清く死んでいこうとしていたのだと思います。ほんとうになんて馬鹿な、と思うでしょうが、それまでのわたしは自分の命さえ大切にしていませんでしたし、そういう生き方しかしてこなかったのです」。
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◇ 「凶悪犯罪」とは何か(1~4) 【1】3元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決『2006 年報・死刑廃止』
1、3人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件高裁判決
1988年のアベック殺人事件(*)も全く同じような心理機制が中心のところで働いています。アベック殺人事件の場合には、その点が裁判でかなり正当に評価されたと思うんですね。1番最初の報道だと、4,5時間メッタ打ちにして連れ去って、残虐だというけど、よく考えてみると、4,5時間メッタ打ちしたら即死してますよね。あとでわかったのは、メッタ打ちにしたのは、車をメチャクチャに壊したということですよ。ところが死体についての傷害の程度の鑑定によれば、全治2週間とか3週間で、要するに頭を外している。調べてみれば、頭を殴るなという掛け声が飛んでいることが後からわかった。しかもあの事件の場合には途中で被害者を解放していますからね。だから殺すことが目的ではない。完全に、目的的、計画的、論理的、冷静かつ執拗に、そこへ行き着いたというのを仮に凶悪とするなら、それとは全く別のところで犯罪が動いているという事実をきちっと知った上で、それでも凶悪だって言われるなら、そういう考えもあるでしょうね。要するに死はみんな凶悪だと言ってしまえば、その通りですけれども、でも今言ったみたいに、執拗かつ残忍、冷静、沈着、計画、なんとか、そういう形容詞が並んで、残虐、凶悪というところに結びつけるのであれば、事実をそこで正確に時系列において見ていただければそうではないということ、少なくとも、そうではないという判断の人たちがずっと増えるはずですね。
それと、今、一緒くたに話しちゃったんですけど、要するに人格性も含めて正確に見てほしいと思うんですね。行為の態様からもそうだし、どういう人格が形成されて、稀薄な人間関係しか持てない人間としてそこに存在しているという彼らのリスクについて、もっと見てほしいと思いますね。同情論じゃないんですけどね。行為の結果としては責任を負わなきゃならない中身というのはあるんでしょうけれども、そこに至った経緯については、もっともっと人間理解として正確にしてほしいし、最初に申しました凶悪な人格というのは存在しない。ある種の、きわめて発達上阻害された人格が、あるいは孤立した人格が、そこで自分自身の社会的に生きていく道からはずれて行為をせざるをえなかった不幸がいくつも出てくるということが明らかになるわけですね。それを理解した上で判断をすべきではないかというのが私の思いです。
*名古屋アベック殺人事件
1988年2月、名古屋市内の大高緑地公園で非行少年グループが停車中のアベックを襲い、紆余曲折の末殺害した。89年6月、名古屋地裁は主犯格の少年Sに死刑、1人に無期、4人に懲役4年から17年の判決。96年12月名古屋高裁(松本光雄裁判長)はSの1審死刑判決を破棄、無期懲役判決を出した。少年たち間の事件における複雑な心理的プロセスと、控訴審以降、事件に向き合う彼らの内面に関しては加藤幸雄「凶悪ということ」(『年報・死刑廃止96』)を参照。
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◇ <少年と罪>第9部 生と死の境界で(中)贖罪 「名古屋アベック殺人」(中日新聞2018/3/5)
◇ 「名古屋アベック殺人事件」主犯格元少年の今 模範囚として刑務所生活 『新潮45』2016年9月号
◇ 「名古屋アベック殺人事件」 岡山刑務所から弁護士に届いた償いの手紙 (毎日新聞 2010/3/16)
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◇ 名古屋アベック殺人事件「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」生きて償う意味知る 月刊『世界』2009年8月号
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