四旬節第2主日 『手紙』

2007-03-04 | 日録

 本日は典礼暦四旬節第2主日。イエスがその正体を現し、光り輝くという場面。

 イエスが現した正体を「正」とするなら、東野圭吾著『手紙』の主人公直貴のそれは、「負」の正体といえる。どのように隠そうとしても暴かれ、直貴は、行く所ところで強盗殺人犯の弟というレッテルに道を塞がれる。ボーカルを担当するバンドからも、恋人からも、仕事からも・・・。彼の素性を知ってもなお離れていかなかった唯一の女性と結婚するが、それは妻子がともに差別を背負うことだった。

 私自身、自己の生き方を問わないではいられない。

p388~

 レッテルを貼られた人間には、それなりの人生しか待ち受けていません。私は殺人犯の弟だという理由で、音楽という夢を捨てねばなりませんでした。また、愛した女性との結婚も諦めることになりました。就職後も、そのことが発覚するや否や、異動させられることになりました。由美子は近所から白い目で見られ、娘の実紀も仲のよかった友達と接する機会を奪われました。あの子が将来大人になって、たとえば好きな男性ができた時にはどうでしょうか。伯父が殺人犯だったことが発覚しても、相手の両親は彼女たちの結婚を祝福してくれるでしょうか。

 これまでこうした内容を手紙に書いたことはありません。貴方に余計な気遣いをさせたくないと思ったからです。しかし今の私の考えは違います。これらのことを、もっと早く貴方に伝えておくべきでした。なぜなら、私たちのこれらの苦しみを知ることも、貴方が受けるべき罰だと思うからです。このことを知らずして、貴方の刑が終わることはないのです。

 この手紙をポストに投函した瞬間から、私は貴方の弟であることを捨てるつもりです。今後一切、貴方とは関わりを持たないつもりですし、これまでの貴方との過去もすべて抹消する決意でいます。

p410~

「彼が自分の過ちを悔いているのはよくわかる。だけどいくら謝られても、反省の弁を聞かされても、母親を殺された無念さは消えない」緒方は手紙の詰まった紙袋を指で弾いた。「弟の近況を伝えてくるのも忌々しかった。刑務所に入ったというのに幸せを満喫しているじゃないか、とさえ思った。何度か、もう手紙を送ってくるなという意味の返事を書こうとしたよ。だけどそれさえも馬鹿馬鹿しかった。そこで徹底的に無視することにした。返事がなければそのうちに届かなくなるだろうと思ったんだ。しかし彼の手紙は届き続けた。やがて気づいた。これは彼にとっての般若心経なのだとね。こちらからストップをかけないかぎり彼は手紙を書き続ける。ではストップをかければいいのか。そこで私の中に迷いが生じた。彼の手紙を止めることは事件の完全な終結を意味する。事件を終わらせていいのか。告白すると、事件の終わりを受け入れる決心がつかなかった」

p417~

 この手紙を読んだ時の衝撃をわかっていただけるでしょうか。弟に縁を切られたことがショックだったのではありません。長年にわたって私の存在が彼を苦しめ続けてきた、という事実に震撼したのです。また同時に、当然そういうことが予想できたのに、弟にこんな手紙を書かせるまでまるで気づかなかった自らの阿呆さ加減に、死にたくなるほどの自己嫌悪を覚えました。何のことはありません。私はこんなところにいながら、何ひとつ更生などしていなかったのです

 弟のいうことはもっともです。私は手紙など書くべきではなかったのです。同時に気づきました。緒方さんへの手紙も、おそらく緒方さんにとっては犯人の自己満足にしか見えない不快極まりないものだったに違いないと。そのことをお詫びしたく、このような手紙を書きました。もちろん、これを最後にいたします。

p420~

 その男は深く項垂れていた。直貴の記憶にある姿よりも小さく見えた。

 彼の姿勢を見て、直貴は身体の奥から突然熱いものが押し寄せてくるのを感じた。男は胸の前で合掌していたのだ。詫びるように。そして祈るように。さらに彼の細かく震えている気配まで直貴には伝わってきた。

 兄貴ー直貴は胸の中で呼びかけた。

(文字色の赤は、来栖)


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