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中日新聞 2020年6月6日(土曜日) 夕刊
石井辰彦の最新歌集に
歌人石井辰彦の存在はひとつの謎である。一九七三年に、三一書房の「現代短歌大系」の新人賞で輝かしいデビューを果たし、第一歌集『七竈(ななかまど)』は今も青春の香気を放っている。その後は長篇の連作によって、現代詩としての短歌を制作する稀有(けう)な作家である。だが、いわゆる歌壇では当然占めるべき座を持たないという不条理のままに、数十年の歳月が経過している。
最新歌集『あけぼの杉の竝木(なみき)を過ぎて』が詩集の老舗である書肆(しょし)山田から刊行されたばかりだが、歌人たちの反応はどうだろうか。
連作の性質上、一首を挙げることは作者の意図に背くものだが、ご寛恕願って引いてみよう。
<老殘(ラウザン)の(聞えぬ)耳を(天體が奏でる)樂音(ガクオン)に欹(そばだ)てる>
たとえばこの歌の奥行きの深さである。天体の奏でる楽音とは、古今東西の書物に通じた博覧強記の作家のことゆえ、こちらの誤読の可能性も高いが、キケロの『国家について』のうちの名高い「スキピオの夢」から採られたのではないかと想像する。しかもそれを聴こうとするのはもはや聞こえない老残の耳であり、すなわち楽音は幻だ。冷えに冷えた、凍りつくような美を湛える一行である。
この表現者に正しい評価が与えられることを望んでやまない。 (夢) 2020.6.6
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)