論点. 憲法と安全保障を問う 対談 木村草太・首都大学東京教授、井上達夫・東京大大学院教授
毎日新聞2016年5月3日 東京朝刊
憲法論議を交わす井上達夫・東大大学院教授(左)と木村草太・首都大学東京教授
憲法9条をどう扱うかは戦後日本が抱えた大問題だ。昨年、政府が進めた安保法制をめぐる解釈改憲論争もその延長線上にある。9条を将来どうしていけばいいのか。発展的な議論とは何か。リベラリズムの立場から護憲派憲法学者を批判している法哲学の重鎮、井上達夫氏と、集団的自衛権行使容認反対の立場で活発な発言を続けている気鋭の憲法学者、木村草太氏が討論した。【聞き手・冠木雅夫、まとめ・及川正也、写真・中村藍】
*個別的自衛権、9条維持で 木村草太・首都大学東京教授
*「9条削除」で発展的議論を 井上達夫・東京大大学院教授
−−憲法9条=1=をどうみるか。解釈からうかがえますか。
井上 私は護憲派の憲法学者を(自衛権を認めていない)原理主義的護憲派と(自衛権を認めている)修正主義的護憲派に分けていますが、私の憲法解釈は原理主義的護憲派と同じです。私の考えは、9条1項では自衛権は否定していない。つまり、国際紛争や国益追求の手段として戦争はしないが、自衛のための戦力の保持・行使は禁じていない。
しかし、2項により自衛のためでも一切の武力行使を禁止している、というものです。従って、個別的自衛権の枠内なら自衛隊と日米安保は許されているというのは、まったく詭弁(きべん)だと思う。自衛隊は世界有数の武装組織です。戦力ではないと言い張ることはあり得ない。米軍は世界最強の戦力であり、日米安保のもとでは日本が侵略されたときは自衛戦争を共同で戦うわけで、これを交戦権の行使ではないというのもあり得ない。
木村 私も9条の解釈はまったく同じ。違うのは、9条の例外を定めた条文が憲法にあると考えるかです。例えば医者が手術でおなかを切るのは刑法の傷害罪の構成要件に当たるが、例外として正当業務行為を認める規定があるので犯罪にならない。安倍政権を含めて従来政府は9条の例外を認める根拠として憲法13条=2=を挙げている。国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護する義務が日本政府にあるから、それに必要な最小限度の実力を持てる。私はこの解釈は成り立つと評価をしている。ただし、集団的自衛権は日本への主権侵害の着手がない段階での武力行使なので、生命などへの具体的な危険がなく、13条では根拠付けられません。
井上 それは無理な解釈でしょう。刑法第1編総則の35条は、「法令または正当な業務による行為は、罰しない」として、医療行為などは、第2編の各犯罪規定の適用除外になることを明言している。憲法13条には、「9条2項の定めにかかわらず、国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護するために必要な場合には戦力を保有し、行使できる」なんて書いていない。戦力の保有・行使の禁止という重要な憲法規範の適用除外を、明文にはないのに勝手に13条に読み込むなんて、法解釈論としては暴論です。こんな解釈が許されるなら集団的自衛権行使だって13条で許されるという解釈もできるでしょう。憲法解釈はこじつけ合戦になって、あらゆる憲法の条項は政治の都合で骨抜きにされちゃう。
木村 国民の生命などへの侵害の程度が具体的危険か抽象的危険かは、とても重要だ。具体的危険となる侵略を放置することは、13条に反するでしょう。これに対して外国の防衛に協力する義務を定めた憲法条文はなく、国民の生命などへの抽象的な危険を理由に反撃することは13条では許されないから、集団的自衛権行使は違憲でしょう。
−−井上さんは9条全体で個別的自衛権も否定されている。木村さんは9条では否定されているが、憲法13条の「例外」で個別的自衛権までは認められると。井上さんから言うと木村さんは修正主義的護憲派ですね。ただし、井上さんは自身と同じ解釈の原理主義的護憲派も批判している。
井上 60年安保闘争までは「自衛隊反対、安保廃止」と真剣にやっていたが、60年安保で敗北し、70年安保は大規模な国民的運動にならなかった。その後は、建前上は「自衛隊、安保は憲法違反」と言いながら、政治的には本気で取り組まず、専守防衛の枠内なら自衛隊・安保は政治的にオーケー、違憲のまま存続させろという姿勢に変わった。はっきりこれを主張する憲法学者も出てきた。こんな主張は、立憲主義をないがしろにするものだ。違憲事態の固定化を望む護憲派って、あるのか。自衛隊を憲法上認知しないまま、「侵略されればおれたちを守れ」というのは、許し難い欺瞞(ぎまん)だと思う。
木村 自衛隊の存在自体を違憲だと考えるなら、改憲を訴えるか、自衛隊の即時解散を求めるべきだというのは、その通りでしょうね。
*「存立危機」条項は無効−−木村氏
*護憲派の「平和」は欺瞞−−井上氏
−−井上さんは、木村さんら修正主義的護憲派や政府の解釈はおかしいと。そこで9条削除論を提案しているわけですね。
井上 私の9条削除論の趣旨は誤解されています。もともと侵略戦争は現在の国際法で禁止されているから、あり得ない。ただ、自衛といっても、非暴力抵抗手段に限定する非武装中立なのか、武装中立なのか、個別的自衛権の枠内か、集団的自衛権行使か、国連の集団安全保障への参加を認めるのか。こうした基本的な安全保障政策の選択は、立法過程で行うべきで憲法で固定すべきではない。
ただ、「もし戦力を保有するなら、その組織編成と行使手続きはこれこれの条件に服すべし」という戦力統制規範は、法律でなくて憲法の中で定めなければならない、という議論です。
木村 井上先生は、軍隊を持つのであればシビリアンコントロール(文民統制)や、徴兵制も加えなければとおっしゃっている。
井上 政府が(自衛権を)乱用した場合、国民が一番悲惨なリスクを負うという状況に置いておかなければ、国民が無責任な好戦感情にかられたり、政府が非常に危険な行動をしても無関心になってしまったりするからです。9条が戦力を縛っているというのはウソです。9条により戦力は憲法上存在しないことになっているから、戦力統制規範をいまの憲法に盛り込むことが不可能になっているんですよ。
木村 私は従来の政府解釈の筋でいけると考えるが、集団的自衛権を行使するなら武力行使に関する条件付けを憲法に盛り込むべきだという点では、同じ考えです。ただ、9条削除論という名前はセンセーショナルなので。9条を削除しても、軍事権を政府に授権する積極的な規定がなければ、軍事権を行使できるようになるわけではありません。
井上 「9条のおかげで戦後日本は平和国家になった」という護憲派伝説の欺瞞を暴く狙いが私にはあります。これには二つのウソがある。まず、戦後日本は他国を侵略しなかったというけれど、ベトナム戦争やイラク戦争で米国の侵略戦争に、軍事拠点を提供することで加担してきた。最大の問題は、日本が侵略されなかったのは9条のおかげではなくて、自衛隊と日米安保のおかげだ。その事実を直視しようとしない。安全保障の問題は、実質的に議論されないといけない。9条を守っていれば私たちは平和でいられるというのは欺瞞だ。ショック療法的に目覚めてもらうためにも9条削除論を主張している。
私の9条削除論が過激過ぎるなら、次善の策が「新9条論」です。個別的自衛権の範囲ならば自衛隊と日米安保はオーケーだと憲法に書き込む。かつ、戦力統制規範も入れる。いずれにせよ、自衛戦力保有を可能にする憲法明文改正をした上で、行使については一定の条件付き制約を憲法に明記することが必要です。
木村 国民的議論を有意義なものとするには、9条の政府解釈について理解することが前提条件でしょう。そうでなければ、議論は混乱して、悪口合戦になってしまいます。安保法制の議論も、これまでの政府解釈の論理構造をしっかり把握していなければ、どこがどう変わったのか理解できません。イメージだけで対立する意見の人の悪口を言っても、対立が深まるだけで議論は深まりません。
私は従来の9条の政府解釈がわかりにくいという主張については、疑問に思う。しかし、日本の防衛の範囲を超えた集団的自衛権などの部分についてもっと議論し、もし行使するなら一定の条件設定を憲法に定めるべきだという主張は納得できます。私は今回の安保法制で改正された自衛隊法の「存立危機事態」条項は、条文自体が曖昧不明で違憲・無効という立場です。集団的自衛権行使をやるならやると明記する、個別的自衛権の範囲でしかやらないなら元の文言に戻すべきです。
井上 集団的自衛権を明記した改憲発議を提起し、国民投票で国民の審判を仰ぐという案はどうですか。
木村 そういう政治勢力が衆参両院の3分の2をとって発議するのであれば、国民的な議論をして国民投票すべきだと思う。
井上 国民投票法では発議後、最短2カ月、最長6カ月で国民投票だけど、これは国民的熟議を保障するには短すぎて、ちょっと危ない。
木村 1年ぐらいはかけた方がいいですね。
*基地建設、特別法で−−木村氏
*地位協定、見直しを−−井上氏
−−9条や安保では沖縄の問題を切り離せません。
井上 沖縄の人は日米安保のコストを沖縄に集中転嫁している本土に怒りを持っている。沖縄への米軍基地集中は戦略的合理性によるよりむしろ、日本の主権回復後も米軍施政権下にあった沖縄には基地を押しつけやすかったという政治的都合による。
木村 米軍普天間飛行場の辺野古移設を、沖縄県民はもちろん国民代表の国会すら意思表明できないまま、内閣の決定だけで進めるのはおかしいと思います。米軍基地建設は自治権の制限を伴うが、憲法92条=3=は自治権の制約は法律で決めなければいけないとする。
さらに95条=4=は特定の自治体にのみ適用される法律に住民投票が必要だとする。特別法を制定し、住民投票を経ることで、国会と住民の意思をしっかり反映すべきでしょう。
井上 それは賛成です。地位協定の見直しも必要じゃないかと思う。(2004年8月の)沖縄国際大学での米軍ヘリ墜落事故は、米軍施設外で起きたのに米軍は大学関係者だけでなく日本の警察も消防隊員も排除した。地位協定の拡大解釈だと批判されたけど。
木村 まさにあの事件によって、自治権が制限されていることが明らかになりました。自治権制限は92条の法律事項だから、日米地位協定という一種の条約で制限するのはおかしい。地位協定については国内法の観点から再検討すべきです。
■明確な線引きなく
安保法制
自国への攻撃を排除するために武力を行使できるのが個別的自衛権。集団的自衛権は自国が攻撃されていなくても、同盟国など密接な関係にある国が攻撃された場合に、要請に基づき武力行使できる権利。政府は従来、憲法9条では個別的自衛権は認められるが、集団的自衛権は「権利はあるが行使は禁止されている」と解釈してきたが、2014年7月に解釈変更を閣議決定し、安全保障関連法に盛り込んだ。
自衛権行使には従来(1)日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある(2)その危険を排除するために他に適当な手段がない(3)必要最小限度の実力行使−−の「3要件」を前提条件としてきたが、(1)の前提として自国への武力攻撃に加え、新たに「日本と密接な関係にある他国への攻撃」も発動要件とし、集団的自衛権行使に道を開いた。これは「新3要件」と呼ばれ、新3要件の(1)を「存立危機事態」と定義した。しかし、この適用は明確な線引きはしていない。
一方、集団安全保障は、侵略行為をした国を国連加盟国が制裁する体制。武力行使を伴う場合は多国籍軍などが編成される。国連憲章は集団的自衛権について、安全保障理事会が必要な措置をとるまでの過渡的な対応と位置付けている。
■「必要な自衛」容認
9条解釈
学説では、1項で「永久に放棄する」と定める範囲について、(1)あらゆる戦争と武力行使を放棄している(2)「国際紛争を解決する手段としては」と条件付けていることから、侵略目的では戦争と武力行使は禁止されているが、自衛のためには認められる−−という二つの説がある。そのうえで、2項で一切の「戦力」の保持を禁じているため、(2)も否定されるという説がある。
政府は、1項の解釈では(2)の立場をとり、2項でも戦力保持を否定していると解釈しているが、自衛隊については合憲としている。国家固有の権利として自衛権があり、備えとして「必要最小限度の実力」は認められ、その範囲の防衛力である限り、「戦力」にはあたらないという解釈だ。これには最新鋭装備を整える自衛隊の実態にそぐわないとの指摘もある。
また、2項冒頭の「前項の目的を達するため」を引いて自衛目的の戦力保持は可能との解釈(芦田修正論)もある。
自衛権行使について政府は、9条の文言から「武力の行使を一切禁じているように見える」とする一方、憲法前文(国民の平和的生存権)や13条(幸福追求権)を踏まえ、緊急時には「必要な自衛の措置」を行うことを認めている。この解釈は2014年の閣議決定でも踏襲されている。
《ことば》
*戦争の放棄
1 憲法9条
(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
*国民の権利及び義務
2 憲法13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
*地方自治
3 憲法92条
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
4 憲法95条
一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。
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■人物略歴
きむら・そうた
1980年生まれ。東京大法卒。憲法学者。著書に「集団的自衛権はなぜ違憲なのか」(晶文社)、「憲法の創造力」(NHK出版新書)など。現在の憲法の下での集団的自衛権の行使は違憲だと指摘している。メディアでの活動も多く、将棋愛好家としても知られる。
■人物略歴
いのうえ・たつお
1954年生まれ。東京大法卒。法哲学者。「共生の作法」(創文社)でサントリー学芸賞受賞。「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」「憲法の涙」(ともに毎日新聞出版)の2部作で護憲派を批判し、論議を呼ぶ。
◎上記事は[毎日新聞]からの転載・引用です
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◇ 「憲法9条で平和が守られた。何国人が作ったものであろうと、よいものはよい」という錯誤、思考停止
(抜粋)
2015.5.3 05:01更新
【産経抄】5月3日
学究肌の男に向かって行動派の男が言う。「本を読むばかりで何にも出来ないのは、皿に盛った牡丹(ぼた)餅を画(え)にかいた牡丹餅と間違えて大人しく眺めているのと同様だ」と。夏目漱石の『虞美人草』に出てくる。
▼絵に描いた餅も、実物の餅を眺めるだけの人も役に立たない点では同じだろう。牡丹餅を「平和」に置き換えてみる。自衛隊と日米同盟に守られた平和を、憲法9条に守られた平和と間違えて-。「大人しく眺め」てきた人が戦後の「日本」だとしたら背筋が寒い。
▼憲法施行からの68年、「平和の担い手か受益者か」と問われれば、日本は後者の色が濃いだろう。櫻井よしこさんが述べていた。「日本の進むべき道やとるべき選択肢を、自分の頭で突きつめて考えてこなかったからではないか」(『憲法とはなにか』小学館)と。
▼国会に憲法調査会ができたのは15年前である。遠慮会釈のない中露や北朝鮮の立ち回りを見るにつけ、一国平和主義の幻想にしがみつく愚を思う。安倍晋三首相とオバマ米大統領の共同声明が示すように、日米同盟の守備範囲は「世界」を視野に語らねばなるまい。
▼4月の統一地方選の結果から、小紙が来年夏の参院選を予測したところ、自民党は単独過半数(定数242)を占めるとの試算を得た。与党の公明党、憲法改正に前向きな維新の党を合わせると約170議席である。憲法改正の国会発議に必要な3分の2を超える。
▼世界の常識に沿った「平和」の担い手となるなら、憲法改正への道を避けては通れまい。われわれ国民も心と頭の備えが必要である。この先、日本が世界各地で流すであろう汗が甘いか塩辛いかの議論より、まずは動くことであろう。「平和=甘い」の幻想ほど怖いものはない。
◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します *強調(太字・着色)は来栖
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◇ [神的暴力とは何か] 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い 暴力抑止の原型 大澤真幸(中日新聞2008/2/28)
「神的暴力」とは何か(上)死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い
大澤真幸(おおさわ・まさち)京都大学大学院教授
論壇時評 中日新聞 2008/2/28
20世紀初頭の偉大な哲学者ヴァルター・ベンヤミンの論考「暴力批判論」(1921年)に、神話的暴力/神的暴力という有名な区別がある。神話的暴力は、さらに、「法を維持する暴力」と「法を構成し措定する暴力」に下位区分される。法維持暴力とは、警察が行使する暴力や刑罰のことである。法措定暴力とは、革命や有事のような例外状態において、新たに法を設定する暴力のことを指している。
問題は、法を否定する暴力とされる神的暴力である。「暴力」という語にネガティブなものを感じる人もいるかもしれないが、これは、恣意的であったり専制的であったりする法や国家権力から人を解放する力のことであり、ベンヤミンは、これをポジティブな意味で使っている。だが、それは具体的には何を指すのか?
法維持/法措定/法否定のほかに、単純な犯罪のような法に違背する暴力もあるので、暴力は4分類できる。その内、「法維持/法違背」の2暴力は明らかに対抗的な関係にあるXだということになる。先の論考の結末部で、ベンヤミンは、「殺人の禁止」の規定との関連で、神的暴力とは、この規定と「孤独の中で闘う」者が担う暴力だと述べている。たとえば、革命や戦争や、そのほかぎりぎりの状況の中で、他者を殺すべきかどうかという問いに直面するときがある。この問いと孤独に闘う個人や共同体が神的暴力の担い手だ、と。どういうことだろうか?
まず、国家権力による殺人、つまり死刑は、4分類の中のどれに入るか考えてみよう。一見、死刑は法の中に規定されているので、法維持暴力に思えるが、1人の人間をこの世界から完全に抹消してしまう行為は、法秩序のバランスの回復ということを超えている。むしろそれは、常軌を逸した犯罪者を抹殺することで、国家が、自らにとって法や正義とは何かをあらためて表明する場であって、法措定暴力に近い。
日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑と言う過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。
森達也『死刑』(朝日出版社)は、死刑にさまざまな形でかかわっている人たち(弁護士、元死刑囚、教誨師、犯罪被害者等)にインタビューしながら、死刑存置/廃止を考えた記録である。結論は廃止に賛成ということだが、重要なのは、森が、この結論を最終的に選択する瞬間である。彼は、拘置所まで、光市母子殺人事件の犯人に面会に行く。犯人である少年と対したとき、森は、突如として強い思いに襲われる。彼を死なせたくない、彼を救いたい、と。
殺人(の禁止)規定と孤独に闘うとは、まさにこういう場面を言う。法律で決まっているからとか、命令だから、という理由で人を殺すとき、人は、それが正しいことかどうかを考えない。超越的な他者(法や制度や命令者)が、何が正しいかを教えてくれるからである。責任はその他者に転嫁される。だが、そのような超越的な他者がどこにもいないとしたら、つまりあなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか?そういう孤独の中の煩悶を通じて、あなたが自ら選び、そして行使されたりあるいはあえて回避されたりする暴力、それこそ神的暴力である。井上の挑発的な制度は、このような「孤独」の中に国民を投げ込む制度として、再評価できる。(後段略)
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◇ 【連載企画・極刑の断層②】絞首刑は残虐か 進まない見直し論議
◇ 死刑制度の主体は誰か。あなたは孤独なのだとして、あなたはどうすべきか? 2008-06-26
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