「ラッパの使い道を間違えれば再び戦争への道を歩む」新美南吉

2023-01-22 | 文化 思索

拾った「らっぱ」の使い道 

週のはじめに考える 中日新聞 社説
 
2023年1月22日

 児童文学作家として知られる新美南吉(にいみなんきち)(一九一三〜四三年)=写真、新美南吉記念館提供=は短い生涯に百二十以上の童話を残しました。「ごんぎつね」や「手袋を買いに」などの作品を国語の教科書で読んだ人も多いでしょう。
 記念館がある故郷の愛知県半田市や、教師として働いていた安城市を中心に、南吉の人生を回顧する催しが行われています。

新美南吉が描いた戦争
 戦争の時代に生きた南吉のいくつかの作品で、戦争に関する記述が削除され、変えられていたことはあまり知られていません。
 例えば「うた時計」という短編は「廉(れん)」という名の少年と三十代の男性の物語です。二人は二月のある日、道で出会います。
 「暖かいよ」と言われ、少年が男性の外套(がいとう)のポケットに手を入れると、中にあった「うた時計」(オルゴールのこと)に手が触れて鳴り出します。
 少年は、よく遊びにいく薬屋のおじさんの家にも、うた時計があることを思い出します。おじさんは、素行が悪く行方も分からない自分の息子をいつも気にかけている。少年は思わず口にします。
 実はこの男性、薬屋の息子「周作」でした。久しぶりに帰宅した実家から、うた時計を勝手に持ち出したのでした。周作は少年の話を聞いて心を改め、うた時計を返すように少年に頼みます。
 冬の自然描写と、家族の情感が響き合う哀切な作品です。
 「うた時計」が雑誌に発表されたのは四二年、太平洋戦争の真っただ中です。雑誌では薬屋のおじさんが日露戦争で捕虜となり、逃げ出したとありましたが、後に削除され、別の表現になって作品集に収録されました。子どもの読み物でも戦意を失わせる記述には、当局が目を光らせていたのです。
 「うた時計」を掲載した編集者は上司から「時局をわきまえない作品を載せた」と批判されたことも記録に残ります。詳しい経緯は今も不明ですが、作品が読まれることを優先し、本人も同意の上で表現を変えたのでしょう。
 南吉が病没した二年後、戦争は終わりますが、「うた時計」などの作品は、戦争に関する記述が復活しないまま読み継がれます。
 戦後は日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)が、児童文学を含む幅広い分野で日本軍に関する記述を厳しく検閲しました。軍国主義復活への警戒からです。
 南吉の原稿は知人が管理していましたが、GHQの検閲を意識して戦争に関する部分を元に戻さず、それがいつの間にか定着したとの見方もあります。
 その後、原稿の変遷に関する研究が進み、南吉が書いた作品は現在、全集などを通じ、本来の形で読めるようになっています。

再び忍び寄る息苦しさ
 表現の自由が制限されていた時代に、南吉が味わっていたのと同じような息苦しさが今、再び感じられる気がしてなりません。
 安全保障上の危機が高まっているので日本も防衛力を強化しなければならない、敵国にある基地も攻撃できる能力を持たねばならない。戦後日本の専守防衛が次々と骨抜きにされていきます。
 平和を求める声は「現実を見ていない」と頭から否定されることもしばしばです。でも知らず知らずのうちに、再び戦争の時代に戻ることがあってはなりません。
 南吉は学生時代に「ひろったらっぱ」(三五年)という反戦童話を書いています。ラッパは最前線で兵士を鼓舞する道具でした。
 主人公の男性は、偶然拾ったラッパを軍隊ラッパとして使い、手柄を立てようとします。しかし、戦闘で農地を踏み荒らされた農民の苦しい生活を知り、彼らを励ますためにラッパを吹くと、豊かな実りが実現します。この物語は絵本にもなっています。
 南吉は日記の中で、自然災害や病気などの「不幸」と戦争を比べて「戦争は、人類が自分自身の中にその原因を持っている唯一の不幸だ」と表現していました。
 記念館の館長、遠山光嗣さんは「もちろん南吉は書きたいことも書けなくなる戦争に反発していました。一方で人間は弱い存在であり、戦争はなくならないのではとも感じていたことが、日記などから読み取れます」と話します。
 今年は南吉生誕百十年です。「ラッパの使い道を間違えれば再び戦争への道を歩む」。南吉が作品に込めた思いを、時代を超えて読み取らねばと思います。

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です

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〈来栖の独白〉
>「戦争は、人類が自分自身の中にその原因を持っている唯一の不幸だ」
 まったく。一言もない。まったく、そう。


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