京アニ放火殺人事件 「2人くらいと思ってた」青葉真司容疑者 逮捕状読み上げまで「36人死亡」知らず 2020/5/27  どんぐりと「いのち」(来栖の独白)

2020-05-27 | 死刑/重刑/生命犯

青葉容疑者、逮捕状読み上げまで「36人死亡」知らず…謝罪の言葉なし
 2020/5/27(水) 15:59配信
 京都市伏見区の「京都アニメーション」第1スタジオの放火殺人事件で、京都府警は27日、やけどの治療で入院していた無職青葉真司容疑者(42)(さいたま市見沼区)を、死亡した36人全員に対する殺人や負傷者ら34人への殺人未遂、現住建造物等放火などの容疑で逮捕した。青葉容疑者はまだ治療中で、自力で起き上がれない状態だが、医師の意見などから、取り調べに耐えられると判断した。調べに「ガソリンを使えば多くの人を殺害できると思った」と容疑を認めているという。
     ◇  
 「間違いありません」。入院先の病室で寝たまま、京都府警の捜査員から逮捕を告げられた青葉容疑者は落ち着いた様子で容疑を認めたが、犠牲者への謝罪の言葉はなかったという。
 青葉容疑者は事件で生死の境をさまよう大やけどを負った。府警は、青葉容疑者の体調や、新型コロナウイルスの感染拡大の状況などを見極めながら、逮捕時期を慎重に探ってきた。
 事件直後に身柄を確保された青葉容疑者は、最も程度がひどい「3度」の熱傷を負い、医療関係者によると、その時点での生存の可能性は数%だったという。繰り返し皮膚移植を受け、1か月近くたって意識を取り戻し、命の危機を脱した。しかし、現在も自力で体を起こしたり、食事したりできない状態で、発熱を繰り返すなど容体も安定していない。車いすにも長時間座ることができないという。
 この状態で府警が逮捕に踏み切ったのは、青葉容疑者がメディアや人づてに事件の情報に触れれば、記憶に混同が起き、事実をねじ曲げて自分に有利なことを言う可能性があるからだ。
 府警は、年明けから逮捕への検討を重ねてきたが、発熱を繰り返し、新型コロナウイルスの感染拡大で、青葉容疑者を移送することにリスクが生じる状況となり、逮捕は何度も先送りとなった。
 捜査関係者によると、青葉容疑者はこの日、逮捕状を読み上げられるまで36人が死亡したという被害の全容を知らずにいたという。初めて結果の重大さを認識したことで、精神状態に影響する可能性がある。府警は、担当医師らの意見を基に逮捕可能と判断した。
 刑事訴訟法では、警察は容疑者を逮捕後、送検するまで最大48時間身柄を拘束することができるが、今回は青葉容疑者の体調を考慮し、検察官が署に出向く形で逮捕の約3時間半後に送検された。今後は、警察署ではなく、医療体制が整った刑事施設に移し、捜査員が出向いて取り調べる方針だ。ベッドに寝かせたまま、録音・録画をして行われる見込みで、時間は通常より制限されることになる。
 府警は青葉容疑者の心身両面の状態を見極めながら、異例の捜査を迫られることになる。
  読売新聞オンライン 最終更新:5/27(水) 18:33

   ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
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京アニ事件、逮捕し初めて伝えた犠牲者数 「2人くらいと思ってた」と容疑者
 2020/5/28(木) 10:57配信
 京都市伏見区のアニメ製作会社「京都アニメーション」(京アニ)第1スタジオが放火され、社員36人が死亡、33人が重軽傷を負った事件で、殺人などの疑いで京都府警捜査本部(伏見署)に27日に逮捕された青葉真司容疑者(42)が「(犠牲者は)2人ぐらいと思っていた。36人も死ぬと思わなかった」と供述していることが同日、捜査関係者への取材で分かった。
 捜査関係者によると、捜査本部は逮捕時点で初めて犠牲者数を青葉容疑者に伝えたという。青葉容疑者は事件で自らも重度の全身やけどを負って救急搬送されており、犠牲者数を認識できていなかったとみられる。
 一方で、逮捕後の調べに容疑を認めた上で、「ガソリンを使えば多くの人を殺害できると思った」と大量殺人を狙ったこともほのめかしているという。反省の弁や犠牲者、遺族への謝罪の言葉はなかった。
 また青葉容疑者が複数の京アニ作品を挙げて「自分が応募した小説が盗用された。京アニが許せず、恨みが募っていた」という趣旨の供述をしていることも、捜査関係者への取材で分かった。過去に青葉容疑者とみられる人物が京アニに小説作品を応募していたが、形式審査の一次選考で落選。京アニ側は、同社の作品との類似点はないと否定している。
 捜査本部によると青葉容疑者は一時命の危険もあったが、容体が一定程度回復。入院先など複数の医師の意見をもとに「医療環境の整った施設なら勾留が可能」と判断したという。捜査本部は青葉容疑者を逮捕後、ただちに送検。京都地検は10日間の勾留を請求し、認められた。青葉容疑者は同日夕、医療スタッフが常駐する大阪拘置所(大阪市都島区)に収容され、今後、治療を継続しながら府警などの取り調べを受けるという。
 逮捕容疑は昨年7月18日午前10時半ごろ、京アニ第1スタジオに侵入し、ガソリンをまいてライターで火を付け、鉄筋コンクリート3階建て延べ約690平方メートルを全焼させた上、屋内にいた社員70人のうち36人を殺害、33人に重軽傷を負わせた疑い。残る1人にけがはなかった。負傷者のうち1人は現在も入院しているという。
  最終更新:5/28(木) 13:33  京都新聞

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です


どんぐりと「いのち」 われらを養ってくれるいのち 2010/1/13

    

〈来栖の独白〉
 1月11日、実家のお墓参りと掃除をした。夥しい落葉が重なっている。それらを掃き集める。枯葉とともにどんぐりも、いっぱい転がっている。
 どんぐりの形の可愛らしさに、つい一つを手に取ったとき不意にホームページに書いた一節を想い出した。私は次のように書いている。

 勝田は、書信にそれら悔いを綴ってきた。面会でも、繰り返し犯罪を口にした。悔やんだところで、罪を償うことはできない。よく判決理由として「命をもって償うしかない」と裁判所は言うが、死刑によっても罪は償えないのではないか、と私は思っている。原状回復できない限り、償いとは言えないのではないか。原状回復とは、喪われた命だけでなく時計(環境一切)をあの時刻に戻すことだ。犯罪が起きる前の次元に戻すことだ。それは人間には不可能だろう。人間には、せめて命で詫びる、それが精一杯ではないかと思う。

 「喪われた命」と、私は簡単に書いている。裁判所も、被害死者の数を判示する。勝田事件の場合、被害死者数は8名である。
 ところが、どんぐりを手にしたとき私はなぜか唐突に「8名ではない」と強く心に呟いた。勝田事件被害者のなかには、婚約中の女性がいた。彼女が事件に遭わず結婚していたなら、お子さんが生まれたのではないか。そして、その子は、また子どもを生んだかもしれない。そのように考えるなら、勝田の奪った命は8名どころではない。いにしえから連綿と続き、被害者に受け継がれた命、そして被害者から更に広がっていっただろう命を思うとき、勝田の奪った命は数字で表されるようなものではなかったろう。続いて来、さらに将来へ広がるはずの命の営みを、勝田は途絶えさせたのである。
 さらに考えるなら、一人のいのちは、人間以外のあまたのいのちによって養われてきたものである。
  五木寛之氏は『人間の運命』(東京書籍)のなかで次のように言う。

p171~
 真の親鸞思想の革命性は、
「善悪二分」
 の考え方を放棄したところにあった。
「善人」とか「悪人」とかいった二分論をつきぬけてしまっているのだ。
 彼の言う「悪人正機」の前提は、
「すべての人間が宿業として悪をかかえて生きている」 という点にある。
 人間に善人、悪人などという区別はないのだ。
 すべて他の生命を犠牲にしてしか生きることができない、という、まずその単純な一点においても、すでに私たちは悪人であり、その自覚こそが生きる人間再生の第一歩である、と、彼は言っているのである。
『蟹工船』と金子みすゞの視点
 人間、という言葉に、希望や、偉大さや、尊厳を感じる一方で、反対の愚かしさや、無恥や残酷さを感じないでいられないのも私たち人間のあり方だろう。
 どんなに心やさしく、どんなに愛とヒューマンな感情をそなえていても、私たちは地上の生物の一員である。
 『蟹工船』が話題になったとき、地獄のような労働の描写に慄然とした読者もいただろう。
 しかし、私は酷使される労働者よりも、大量に捕獲され、その場で加工され、母船でカンヅメにされる無数の蟹の悲惨な存在のほうに慄然とせざるをえなかった。
 最近、仏教関係の本には、金子みすゞの詩が引用されることが多い。
 なかでも、「港ではイワシの大漁を祝っているのに、海中ではイワシの仲間が仲間を弔っているだろう」という意味をうたった作品が、よく取り上げられる。
 金子みすゞのイマジネーションは、たしかにルネッサンス以来のヒューマニズムの歪みを鋭くついている。
 それにならっていえば、恐るべき労働者の地獄、資本による人間の非人間的な搾取にも目を奪われつつ、私たちは同時にそれが蟹工船という蟹大虐殺の人間悪に戦慄せざるをえないのだ。
 先日、新聞にフカヒレ漁業の話が紹介されていた。中華料理で珍重されるフカヒレだが、それを専門にとる漁船は、他の多くの魚が網にかかるとフカヒレだけを選んでほかの獲物を廃棄する。
 じつに捕獲した魚の90%がフカ(サメ)以外の魚で、それらはすべて遺棄されるというのだ。しかもフカのなかでも利用されるのはヒレだけであり、その他の部分は捨てられるのだそうだ。
 私たち人間は、地上における最も兇暴な食欲をもつ生物だ。1年間に地上で食用として殺される動物の数は、天文学的な数字だろう。
 狂牛病や鳥インフルエンザ、豚インフルエンザなどがさわがれるたびに、「天罰」という古い言葉を思いださないわけにはいかない。
 私たち人間は、おそろしく強力な文明をつくりあげた。その力でもって地上のあらゆる生命を消費しながら生きている。
 人間は他の生命あるものを殺し、食う以外に生きるすべをもたない。
 私はこれを人間の大きな「宿業」のひとつと考える。人間が過去のつみ重ねてきた行為によってせおわされる運命のことだ。
 私たちは、この数十年間に、繰り返し異様な病気の出現におどろかされてきた。
 狂牛病しかり。鳥インフルエンザしかり。そして最近は豚インフルエンザで大騒ぎしている。
 これをこそ「宿業」と言わずして何と言うべきだろうか。そのうち蟹インフルエンザが登場しても少しもおかしくないのだ。
 大豆も、トウモロコシも、野菜も、すべてそのように大量に加工処理されて人間の命を支えているのである。
 生きているものは、すべてなんらかの形で他の生命を犠牲にして生きる。そのことを生命の循環と言ってしまえば、なんとなく口当たりがいい。
 それが自然の摂理なのだ、となんとなく納得できるような気がするからだ。
 しかし、生命の循環、などという表現を現実にあてはめてみると、実際には言葉につくせないほどの凄惨なドラマがある。
 砂漠やジャングルでの、動物の殺しあいにはじまって、ことごとくが目をおおわずにはいられない厳しいドラマにみちている。
 しかし私たちは、ふだんその生命の消費を、ほとんど苦痛には感じてはいない。
 以前は料理屋などで、さかんに「活け作り」「生け作り」などというメニューがもてはやされていた。
 コイやタイなどの魚を、生きてピクピク動いたままで刺身にして出す料理である。いまでも私たちは、鉄板焼きの店などで、生きたエビや、動くアワビなどの料理を楽しむ。
 よくよく考えてみると、生命というものの実感が、自分たち人間だけの世界で尊重され、他の生命などまったく無視されていることがわかる。
 しかし、生きるということは、そういうことなのだ、と居直るならば、われわれ人類は、すべて悪のなかに生きている、と言ってもいいだろう。
 命の尊重というのは、すべての生命が平等に重く感じられてこそなのだ。人間の命だけが、特別に尊いわけではあるまい。
 金子みすゞなら、海中では殺された蟹の家族が、とむらいをやっているとうたっただけだろう。
 現に私自身も、焼肉大好き人間である。人間に対しての悪も、数えきれないほどおかしてきた。
 しかし、人間の存在そのもの、われらのすべてが悪人なのだ、という反ヒューマニズムの自覚こそが、親鸞の求めたものではなかったか。

〈来栖の独白〉続き
 食糧となって人間を養ってくれる(人間に奪われる)いのちもあれば、薬品や化粧品等の実験に供されるいのちもある。それらのどれ一つとして、人間が創造したものは無い。人は、奪うだけだ。
 私は、深い畏れに囚われざるを得ない。「いのち」に対する深い畏れに囚われないわけにいかない。
 司法は、8名を殺害したとして死刑を選択する。髪の毛1本すら造れない人間の、人間らしい有限・物理的な決着・・・。足の竦む思いがする。
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