『等伯』『親鸞』 昔も今も人の世は変わらない、人の心は変わらない。読みながら、そう慨嘆する。

2011-05-25 | 本/演劇…など

〈来栖の独白〉
 毎朝、『等伯』を楽しみに読む。強い感化を受ける。日本経済新聞の連載小説。安部龍太郎著、西のぼる(画)、である。挿絵も優れて美しい。
 知ることの乏しい私は、流石に興に押されて、安部氏についてWikipediaで検索した。“「隆慶一郎が最後に会いたがった男」という伝説ができた。”とも紹介されており、一入の感慨を覚えた。隆慶ワールドは、何年も前になるが、存分に私を愉しませてくれたからだ。
 それにしても、これほどの作品をものされるには安部氏は、とてもお若い。『等伯』に魅せられるのは、安部氏の広い学識、それに裏打ちされた世界観、深い人間洞察、巧みなストーリー等による。表現力は、むろんの事である。
 昔も今も人の世は、変わらない。人の心は変わらない。読みながら、そう慨嘆する。中日新聞連載中の『親鸞』(五木寛之著)、『グッバイ マイ ラブ』(佐藤洋二郎著)にも云えることだ。この3作を、私は毎朝読む。・121回と122回から、少し転写させていただく。
・121回より
「そちは信長が憎くはないんか」
「もちろん憎いです。しかし・・・」
 比叡山を襲った信長軍の強さと恐ろしさが、信治の胸に沁みついている。あんな軍勢を指一本で動かせる男を倒せるとは思えなかった。
「たとえどれほど強かろうと、屈するわけにはいかんのや。(略)信長が南蛮人の手先になってこの国の国体を壊そうとしていることや」(略)
「(略)これは単に信仰ばかりの問題やない。ポルトガルがイエズス会を通じて、信長の天下取りを支援しとるからなんや」
 五摂家筆頭の当主だけあって、前久は世界の現状についてもかなり詳しく知っていた。
 この頃の世界は、大航海時代の真っただ中にあった。
 コロンブスやバスコ・ダ・ガマの活躍によって世界への航路を開いたスペインやポルトガルは、キリスト教の布教を大義名分にして次々と異教徒の国を征服し、世界にまたがる大帝国をきずき上げていた。(略)
 むろん信長とて、彼らのこうした戦略は承知していた。だが南蛮貿易によって上がる巨額の利益と、硝石や鉛、軟鋼、真鍮などの軍需物資を手に入れるには、イエズス会やポルトガルとの協力が不可欠だった。
 ちなみに軟鋼は鉄砲の銃身の内側(これを真筒という)を作る時に用いる純度の高い低酸素の鉄。真鍮は鉄砲の引金や火挟みなどのカラクリを作る時に用いる銅と亜鉛の合金である。
 いずれも日本では生産する技術がなく、すべて輸入に頼っていたのだった。
・122回より
 この輸入ルートを押さえていたのがポルトガルやイエズス会だから、鉄砲を大量に使えば使うほど彼らへの依存度を強めることになる。その見返りに要求されることも多くなり、天下統一を急がざるを得なくなる。
 信長が比叡山焼き討ちを強行した裏には、実はこうした事情があった。(以下略)

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隆慶一郎著『花と火の帝』2006,1,13
隆慶一郎著『捨て童子松平忠輝』2006,1,18
隆慶一郎著『時代小説の愉しみ』  『風の呪殺陣』 2006,2,20 
隆慶一郎著『影武者 徳川家康』2007,1,11
隆慶一郎著『吉原御免状』 2007,1,29 
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 「読書note」より 隆慶一郎著『柳生非情剣』 2006,11,27
 〈来栖の独白〉この本には6人の柳生が描かれている。どれも掌編で、連也斎、友矩、宗冬、十兵衛、新次郎、五郎右衛門である。
 面白さは、隆慶一郎だから決まっている。今日はストーリーではなく、山口昌男氏の「解説」を抜粋して写してみる。隆作品の本質に迫っている。分けても私の気に入ったのは、「スティグマ」という言葉である。これは、優れて福音的な響きである。聖書に拠って云うなら、「小さくされた人」に通じる。イエスのように「生まれ故、社会階層故」差別抑圧された人たちだ。が、彼らはおしなべて純一無雑である。この人たちを隆慶一郎は温かな眼差しで活写している。
p198~
 解説
 講談社版の「柳生非情剣」のあとがきの中で、作者隆慶一郎は、「オール読物」「歴史読本」「週刊小説」に別々に発表されたが、一冊の本に纏められると、連作とも云うべきものになったこれらの作品群を「異形の小説」と自ら名づけている。
 異形とは、常人とは異なっているために、ふつうの人々のように平和な生活を営むことができないような状態を云う。異形は、色々な形で現れる。先ず一番現れやすいのは身体の形の崩れとしてである。元来、大衆小説、それも時代小説と云われる分野の主人公の多くは、こうした身体的異形性を帯びた存在であった。すぐ思いつく例に、林不忘の「丹下左膳」がある。あの隻腕・片目は、本来、暗い時代に向かう日本の当時のやるせない、ニヒルな気持ちを表現する何よりもよい形姿であったとふつういわれている。時代小説の中の異形のもう一人の代表選手は、「大菩薩峠」の主人公、机龍之介であった。机龍之介は全盲の姿で無明の闇を救いを求めて彷いつづける人間の妖しい魅力を惜しみなくふり撒いて、大正時代の読者を魅了した。
p199~
 こうした異形について、二つの考え方がなり立つ。一つは「スティグマ」という言葉で云い現わされるものである。スティグマは「聖なる刻印」と云えるものである。天によって選ばれたしるしとして、何か人とは違った刻印とかしるしを背負った存在をさす。こうした刻印のゆえに、これらの人々は、ふつうの人の生き方の軌道から外れることになる。そしてここに物語が発生する。こういう人
の物語を通して、人間を超えた存在は、何らかのメッセージを送ってくる。読者は、こうしたスティグマを背負った主人公を通して、世の中を少し違った眼で見ざるをえないような物語の「迷路」に誘いこまれて、ふと日常生活における「吾れ」を忘れてしまう。
 そもそも、この片目とか全盲というのは、日本の中世でいえば、死者の世界とのつなぎの役を果たし、平家物語誕生のきっかけをつくった、琵琶法師と呼ばれる盲僧というような先祖を持ち、更に古代に遡れば、柳田国男が「一つ目小僧」で説いたように、「見者(ヴォアイヤン)」又は詩人の能力をたかめるために片目をつぶされたシャーマンの姿にさかのぼれるかもしれない。
 こうした異形という存在は、考えようによっては、世間から排除されるあらゆるタイプの人々についても云えるかも知れない。その生まれ故、社会階層故、過度に美点を持つ(強すぎ、又は美貌)故、という具合に様々の動機故に、ふつうの人の人生コースと距りを持ってしまう人達が異形性の中に含まれて来る。
p200~
 隆慶一郎は、晩年の短い期間に矢継早に刊行された数多くの作品文の中で、社会的に排除され続けて来た、くぐつ師、芸能によって生きる遊行の民、つまり「道々の輩」、流離する貴種を描き続けた。そして貴種の主人公とこうした社会的異形集団との秘かなつながり、又は入れ替りといった操作によって物語の原動力といったものを発動させて来た。
 この「柳生非情剣」において、著者は、柳生一族を全体として異形集団であるという前提で、この連作を書きはじめたようである。
p202~
 こうした視点から、柳生の剣法が能に通じていることを説く作者の目はたしかで、芸能の歴史に対しても鋭い切り込みになっている。
 他の作品群において著者は、「道々のやから」や「くぐつ師」などの制外者(にんがいしゃ)を通して歴史の光の部分と闇の部分を交錯させている。この作品群において作者は身体の正と負の部
分を妖しく交錯させて、読者を倦ませるところがない。
2006,11,27 up


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