命・イスラム・平和…〈来栖の独白 2015.12.30〉 

2015-12-30 | 日録

〈来栖の独白 2015.12.30 〉
 本年は戦後70年。国際社会ではイスラム国関連の報道が目を惹き、私のような者にとっても、命・平和・宗教…について頻りに考えさせられる年となった。『慈雲寺新米庵主のおろおろ日記というブログに以下のようなエントリがある。

「正義」の戦争などない
‎2015‎年‎12‎月‎9‎日、‏‎10:02:23 | jiunji
  カナダではアメリカの放送も視聴することができるのですが、毎年両国の論調の違いには驚かされました。カナダは「たとえ正義の戦いでも、傷は深く、もう二度と戦争に巻き込まれるべきではない」というのが基本ですが、アメリカは「正義の戦いならやむを得ない。アメリカは今も世界のために戦っている」という主張が繰り返されるからです。
 紛争を武力で解決しても、けして解決にはなりません。憎悪の連鎖を作るだけです。戦争に「大義」も「正義」もありません。そこにあるのは憎悪と殺戮だけです。
 仏教は人を殺すことを厳しく戒めています。戦争は長く、長く、人の心に傷を残します。インドで仏教の興隆に大きな貢献をしたアショーカ王は、祖父や父がインド全土を征服する過程ですさまじい殺戮の現場を見て、仏教に深く帰依したといいます。アショーカ王は武力ではなく、慈悲深い統治と粘り強い説得で国を治めたと伝えられています。
 今、日本はアメリカに同調して再び「“正義”の戦い」に加わろうとしているのではないでしょうか?年々数少なくなっていく戦争体験者の皆さまが、その体験をもっと語ってくださることを願っています。

 桶狭間古戦場に近い慈雲寺という寺の尼僧の方が、書かれている。仏教の戒めが前面に出る。「不殺生」が、戒めの筆頭である。

十善戒(仏教)
一、不殺生(ふせっしょう) むやみに生き物を傷つけない
二、不偸盗(ふちゅうとう) ものを盗まない
三、不邪淫(ふじゃいん)  男女の道を乱さない
四、不妄語(ふもうご)   嘘をつかない
五、不綺語(ふきご)    無意味なおしゃべりをしない
六、不悪口(ふあっく)   乱暴なことばを使わない
七、不両舌(ふりょうぜつ) 筋の通らないことを言わない
八、不慳貪(ふけんどん)  欲深いことをしない
九、不瞋恚(ふしんに)   耐え忍んで怒らない
十、不邪見(ふじゃけん)  まちがった考え方をしない

 一方、旧約聖書に目を転ずれば、最大の罪は「殺生」ではない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、最も戒められることは、神(ユダヤ教・キリスト教ではヤーウェ、イスラム教ではアッラー)を崇めず、神でない者(偶像)を崇拝することである。

モーセの十戒
一、我は汝の神ヤーウェ、我の外何ものも神とするなかれ
二、汝自らのために偶像を作って拝み仕えるなかれ
三、汝の神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ
四、安息日をおぼえてこれを聖くせよ
五、汝の父母を敬え
六、汝殺すなかれ
七、汝姦淫するなかれ
八、汝盗むなかれ
九、汝隣人に対して偽りの証をするなかれ
十、汝隣人の家に欲を出すなかれ

 たとえば「自殺」について考えてみると、仏教の感覚なら「命を粗末にしてはいけないから自殺はよくない」というようなことになるのだろうが、旧約聖書のに於いては、命は神の領域に属するものであり、人間が手を下しては(処理しては)いけない、命の創造主たる神への冒涜、反逆となる、という思考である。神を敬わないこと(偶像崇拝)は、最も大きな罪である。もう少し突っ込むなら、神か命か、いずれかを選ばねばならないなら、神をとらねばならない。そこに「殉教」も成立してくるし、イスラム国のテロの影も見えてくるのかもしれない。
 ヤーウェに従うことが、第一義である。神の命令により、《町を一つ残らず占領し、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽して一人も残さず、家畜だけを略奪した。》(申命記2:34~35)こともあった。
 仏教にはない景色だろうが、旧約聖書の世界では、毎日、祭司が動物を殺し、ヤーウェに捧げる。殺害し、解体し、血をふりまき、火にくべるのは、祭司しか出来ない価値ある行為とされていた。その他、数えきれないほど多くの規則が「旧約」にはある。
 「ムスリムは神アッラーを尊崇し、厳重に掟を守ってきたが、キリスト教国はイエスを受け入れ、イエスの説く愛(許し)を優先して堕落した」というのがイスラムの感想だろう。
 世界には仏教だけでなく、様々な宗教が存在する。各地で起きているテロや戦争も、宗教抜きで考察することは妥当ではなく、理解に至らない。
 面白いようなことだが、ユダヤ教の暦によれば、一日の始まりは「日没」である。旧約聖書・創世記に《夕べがあり、朝があった》とある。安息日は土曜日であり、正確には金曜日の日没から土曜日の日没までである。繰り返すが、このように考える世界が、この地上には存在する。
 命について、いま少し考えてみたい。新約聖書ではまるで、命など軽いものだ、と錯覚してしまいそうなことを云っている。

ヨハネによる福音書 12:24~25
 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

マタイによる福音書 10:28~31
  また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
  二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
  またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
  それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。。

マタイによる福音書 10:34~39
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

 順天堂大学医学部の附属病院医師で病理学者の樋野興夫氏はその著『明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい』(幻冬舎)のなかで、次のように云っている。

 命が尊いことは確かですが、「自分の命よりも大切なものがある」と思ったほうが、わたしたちは幸せな人生を送ることができるようです。
「命が何よりも大切」と考えてしまうと、死はネガティブなもの(命の敵)になり、ある時を境に死におびえて生きることになります。

 次に「平和」について考えてみたい。
 第2バチカン公会議は現代世界憲章78のなかで次のように言う。《平和とは、単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡の保持でもありません》。
 聖書に示される「平和」(シャローム)の本来の意味は《傷付いた部分のない状態》のことである。戦後日本は、聖書のメッセージから見て平和と言えるだろうか。「平和憲法」などと呼称されるが、例えば北朝鮮に我が子を拉致された横田さんご夫妻に一日として「平和」を実感できた日があっただろうか。私には横田さんご夫妻を置き去りにして「平和憲法」などと呼称する気持ちにはなれない。

[ めぐみさんを守れなかった平和憲法 ] 阿比留瑠比の極言御免
  産経新聞2013.7.18 21:48
 拉致被害者の有本恵子さんの父で、拉致被害者家族会副代表である明弘さんから先日、筆者あてに手紙が届いた。そこには、こう切々と記されていた。
 「拉致問題が解決できないのは、わが国の争いを好まない憲法のせいであると悟ることができました」
 手紙には明弘さんの過去の新聞への投稿文と、拉致問題の集会で読み上げた文章が同封されていて、やはりこう書いてあった。
 「憲法改正を実現し、独立国家としての種々さまざまな法制を整えなければ、北朝鮮のような無法国家と対決できません」
 実際に外国によって危害を被り、苦しみ抜いてきた当事者の言葉は重い。
 一方、参院選へと目を転じると、候補者たちの政見放送や街頭演説では「戦後日本は現行憲法があったから平和が守られた」といったのんきで、根拠不明の主張が横行している。
  だが、いまだに帰国できない拉致被害者やその家族にしてみれば、日本が「平和な国」などとは思えないはずだ。日本は、人さらいが悪事を働いても目を背けるばかりで、被害者を取り返せもしない危険な無防備国家だったからである。
 「日本の戦後体制、憲法は13歳の少女(拉致被害者の横田めぐみさん)の人生を守れなかった」
 安倍晋三首相は2月、自民党憲法改正推進本部でこう訴えた。「再登板した理由の一つが、拉致問題を解決するためなのは間違いない」(周辺)という首相にとって、現行憲法は実に歯がゆい存在なのだろう。
 首相は「文芸春秋」(今年1月号)では、「(憲法前文が明記する)平和を愛する諸国民が日本人に危害を加えることは最初から想定されていない」と指摘し、昭和52年9月の久米裕さん拉致事件に関してこう書いている。
 「警察当局は、実行犯を逮捕し、北朝鮮の工作機関が拉致に関与していることをつかみながら、『平和を愛する諸国民』との対立を恐れたのか、実行犯の一人を釈放した。その結果、どうなったか。2カ月後の11月、新潟県の海岸から横田めぐみさんが拉致された」
 こうした問題意識を持つのは首相だけではない。日本維新の会の石原慎太郎共同代表も7月13日の演説で、拉致問題と憲法9条についてこう言及した。
「(北朝鮮は)日本は絶対に攻めてこない、本気でけんかするつもりもないだろうと、300人を超す日本人をさらって殺した」
 「殺した」との断言は乱暴過ぎる。とはいえ、現行憲法では国民の基本的人権(生命、自由、財産)が十分に守れないのはその通りだろう。産経新聞が4月に「国民の憲法」要綱を発表した際、横田めぐみさんの父、滋さんはこんなコメントを寄せている。
 「日本が国際交渉に弱いといわれるのは、強く出る(法的な)根拠がないからではないか。(産経要綱が)国民の生命、自由、財産を守ることを国の責務と明示することは、非常に大きなことだ」
 現行憲法を「平和憲法」と呼び称賛する人には、こうした声は届かないようだ。(政治部編集委員)

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『帝国の終焉』(「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ)日高義樹著 2012年2月13日第1版第1刷発行 PHP研究所
 〈抜粋〉
p173~
 ヨーロッパで言えば、領土の境界線は地上の一線によって仕切られている。領土を守ることはすなわち国土を守ることだ。そのため軍隊が境界線を守り、領土を防衛している。だが海に囲まれた日本の境界線は海である。当然のことながら日本は、国際的に領海と認められている海域を全て日本の海上兵力で厳しく監視し、守らなければならない。尖閣諸島に対する中国の無謀な行動に対して菅内閣は、自ら国際法の原則を破るような行動をとり、国家についての認識が全くないことを暴露してしまった。
 日本は海上艦艇を増強し、常に領海を監視し防衛する体制を24時間とる必要がある。(略)竹島のケースなどは明らかに日本政府の国際上の義務違反である。南西諸島に陸上自衛隊が常駐態勢を取り始めたが、当然のこととはいえ、限られた予算の中で国際的な慣例と法令を守ろうとする姿勢を明らかにしたと、世界の軍事専門家から称賛されている。
 冷戦が終わり21世紀に入ってから、世界的に海域や領土をめぐる紛争が増えている。北極ではスウェーデンや、ノルウェーといった国が軍事力を増強し、協力態勢を強化し、紛争の排除に全力を挙げている。
p174~
 日本の陸上自衛隊の南西諸島駐留も、国際的な動きの1つであると考えられているが、さらに必要なのは、そういった最前線との通信体制や補給体制を確立することである。
 北朝鮮による日本人拉致事件が明るみに出た時、世界の国々は北朝鮮を非難し、拉致された人々に同情したが、日本という国には同情はしなかった。領土と国民の安全を維持できない日本は、国家の義務を果たしていないとみなされた。北朝鮮の秘密工作員がやすやすと入り込み、国民を拉致していったのを見過ごした日本は、まともな国家ではないと思われても当然だった
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