[被疑者の実名を報じる週刊誌も 少年法と実名報道をどう考える?] 藤井誠二

2015-12-29 | メディア/ジャーナリズム/インターネット

被疑者の実名を報じる週刊誌も 少年法と実名報道をどう考える? ノンフィクションライター 藤井誠二
 THE PAGE 2月24日(火)14時0分配信
 情報の正確性を担保するために、報道は実名報道が原則とされる。しかし、犯罪被害者の人権、風評被害の恐れ、プライバシーの権利との調整などを考慮し、人物に関する情報が匿名で報道されるケースも多い。また、犯罪報道では、被疑者が未成年である場合、少年法61条において、本人を特定できる情報を出版物に記載することが禁じられている。しかし、罰則がないために、被疑者が未成年の殺人事件がおきると、一部のメディアでは実名での報道が行われることもある。実名報道をどう考えればいいのか。ノンフィクションライターの藤井誠二氏に寄稿してもらった。
     *  *  *
  名古屋大学に通う19歳の女子学生が「人を殺してみたかった」という「動機」で、宗教の勧誘に来ていた老女を手斧で殴り、マフラーで絞殺、風呂場の洗い場に死体を放置したまま宮城県の実家に帰省していた事件が発覚した。女子大学生は、ツイッターに「ついにやった。」などと犯行当日に書き込み、過去の「著名事件」の加害者に共鳴するような書き込みをしていた。
  この女子大学生は、ツイッターのアカウントは加害者の本名(姓)であったが、この学生の写真と実名を「週刊新潮」が報じた。よく知られているように、少年法は未成年者の犯罪につい、保護矯正の観点から身元の特定される報道を禁じている。一方、2000年2月には、大阪高裁で、「社会の正当な関心事であり凶悪重大な事案であれば実名報道が認められる場合がある」との判断が下され、「違法性なし」の判決が確定している。司法も変化しつつある、と言える。
  いわゆる「実名報道」の問題を、どのように考えればいいのだろうか。
■少年法61条と実名報道に対する司法の判断
 週刊誌の未成年実名・顔写真報道はもちろん、今回が初めてではない。1998年に発覚した東京の足立区で起きた「女子高校生監禁殺人」事件では、主犯格ら4名の少年について「週刊文春」が連日に渡って実名で報じた。
  先に触れた大阪高裁の判断は、新潮社が「新潮45」で報じた「堺市通り魔殺傷事件」の加害少年の実名を報じたことに対する裁判の判例である。事件は1998年に当時19歳の少年がシンナーで幻覚状態になった状態で、通りかかった幼稚園児ら3名を殺傷したというもの。少年本人が、記事を執筆したノンフィクション作家・高山文彦氏と新潮社に対して損害賠償請求と謝罪広告を求めていた。
  少年法61条は、非行(犯罪)を犯した未成年者を推知することかできる情報──実名や容貌、住所、学校名等──を新聞やその他の出版物に載せてはならないと定めた条項だ。1審の大阪地方裁判所判決は少年法61条に基づいて大筋で少年の主張を認め、「成人に近い年齢であったからといって、少年に該当する年齢であった原告を他の少年と区別すべき理由となしうるもの」ではないとし、「法的保護に値する利益を上廻る公益上の特段の必要性」も認めなかった。が、同時に「例外なく直ちに被掲載者に対する不法行為を構成するとまでは解しえない」と不法行為ではないと含みを残した。
 大阪高裁はこれをひっくり返し、「表現の自由とプライバシー権等の侵害との調整においては、表現行為が社会の正当な関心事であり、かつその表現内容・ 方法が不当なものでない場合には、その表現行為は違法性を欠き、違法なプライバシー権等の侵害とはならないと解するのが相当である」と判断した。そして、少年法61条については、「同条が少年時に罪を犯した少年に対し実名で報道されない権利を付与していると解することはできない」とし、原告に対する権利侵害を認めなかった。また、少年の将来の更生の妨げになるという主張に対しては、地域住民は記事の出る前から知っていたであろうこと、地域住民以外の人は少年の実名をずっと記憶しているとは思えず、それが(更生の)妨げに直結することはなく、報道が更生の妨げとなる立証がされてないとも判断した。
  その後、少年が最高裁への上告を取り消し、高裁判決が確定するわけだが、最高裁判決ではないので高裁の判断を重視をする必要はないと主張するむきもあり、また「週刊新潮」が都合よく我田引水的な態度を取っているように見えることもあり、高裁判決については、賛否両論がある、ということになろう。
  しかし、61条には罰則規定はなく、啓蒙的な意味合いが強いのは事実だ。高等裁判所の判断は、少年法61条は、少なくとも18~19歳の加害者を一方的に保護してはいない、ということだ。実名報道を行った新潮社と高山氏が敗訴した一審ですら、「例外なく直ちに被掲載者に対する不法行為を構成するとまでは解しえない」とした。これらを踏まえると、現行の少年法61条には、マスコミが一般的に遵守するほどの厳格な縛りはない、ということは言えるのではないだろうか。
■「社会の関心事」なら許されるのか?
 しかし、高裁判決が、実名報道を基礎付ける論拠として、表現行為が「社会の正当な関心事」であることを上げている点には、私は違和感がある。曖昧だ。
  被害者の命が奪われる事件が「社会の関心事」かどうかの一線を引くのは、裁判所や週刊誌ではないし、誰かが決められることではないはずだ。被害者の命が奪われた事件は本来なら、どの事件にも社会が関心を寄せるべきだ。そして、「実名報道が少年の更生の妨げとなる立証がされてない」とされるが、それも曖昧だ。
  さらに、地域が実名をすでに知っているから実名を報道しても良いという理屈も問題だ。インターネットに、加害者のあらゆるプライバシーがあふれ返る事態をどう考えるのか。インターネットの何でも野放し状態は、「ネットリンチ」とも言える。それを問題と捉え、61条により実名報道を禁ずる場合は、インターネットも包括的に規制するべき、となるだろう。ネット上に実名を投稿した者の情報をプロバイダーに提供させるなど、なんらかの法的対処をするしかなくなってくる。
■「大人」と「子供」の境界線
 そして、18歳、19歳は死刑になる可能性がある。18歳に満たない者は一等減じられ、死刑にはならない。光市母子殺害事件が最近では記憶に新しいが、加害者は18歳になったばかりだった。18歳、19歳は、日本の司法の判断では、いわば「子どもであって、子どもでない」というグレーゾーンとされている。たとえば、18歳の少年は、運転免許は18歳で取ることができるから「大人」と同等の権利があると言える。一方で、日本が1990年に批准している国連「子どもの権利条約」では18歳未満は、子どもと規定されている。18歳は、「大人」なのか、「子ども」なのか。少年法では20歳未満が「子ども」として扱われ、守られるわけで、日本では「大人」と「子ども」の線引きが一律になっていないのだ。
  また、国際的観点からの議論も必要だ。子どもの権利条約は、「法律」より優先し、「憲法」より劣位にあるとされる「条約」だ。それに準じて、少年法をはじめとした国内法も整備し直し、18歳、19歳の「少年」についても、義務と責任の分担を「大人化」すべきだ、という議論もあり得るだろう。昨今、国民投票法や18歳選挙権の議論のなかで、「成人」とされる年齢の引き下げが論じられているが、これも、責任主体となる年齢を引き直す、という意味では、同じ問題意識であると言えよう。
 少年法は2001年から改正を重ねつつも、実質的には、かなりの変化をしてきた。被害者や被害者遺族の権利が認められ、非公開だった家裁の審判も傍聴・発言できるようになった。原則的に16歳以上が犯した犯罪で、被害者が死亡したケースは、検察官のもとへ逆送致され、大人と同じ刑事裁判に付されるようになった。刑事罰の量刑も相対的に上がり、重罰化も進んでいる。少年法の看板は同じだが、運用は相当に変容したのだ。
  かつては小松川高校殺人事件のように大新聞が実名報道した例もあるが、今後も、さまざまなメディアが、ゲリラ的に少年法61条を破り、その度に、「表現の自由かプライバシーか」、「社会的関心か、更生の可能性か」などと、紋切り型の議論を繰り返すのは建設的ではない。実名報道の議論は、少年法61条に向き合いながら、「大人」と「子ども」の境界線を引きなおす、という視点でも議論を進めていくべきだろう。
*藤井誠二(ふじい せいじ)
 1965年愛知県名古屋市生まれ。ノンフィクションライター。高校時代よりさまざまな社会運動にかかわりながら、週刊誌記者等をつとめながら一貫してフリーランスの取材者。『17歳の殺人者』(朝日文庫)、『暴力の学校 倒錯の街』(朝日文庫)、『人を殺してみたかった』(双葉文庫)、『コリアンサッカーブルース』(アートン)、『文庫版・殺された側の論理』(講談社アルファ文庫)、森達也氏との対話『死刑のある国ニッポン』(金曜日)、『アフター・ザ・クライム』(講談社)、大谷昭宏氏と対話『権力にダマされないための事件ニュースの見方』(河出書房新社)、『三つ星人生ホルモン』(双葉社) 等、著書多数。

 ◎上記事は[Yahoo!JAPAN ニュース]からの転載・引用です
..............


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。